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ナルコティクス アノニマス     Life on life’s term         「人生の一場面」の章より


(英文Narcotics Anonymous 第6版P305~P396)


 アディクションからの回復は、単に薬物をやめる以上の意味があります。私たちはクリーンでいながら、目の前の物事に挑戦し、そこから贈り物をもらっています。ここではそれぞれのメンバーの経験の中で、それぞれの生活の一場面において、クリーンでいながらプログラムの原理を実践することについて分かちあいをしています。


リフレクション(回想)                                                   


 C型肝炎で私は死にそうになっていた。そのため病院に行かねばならなくなった。その結果私は自宅で注射器と共に生活することを学ばなくてはいかなくなった。部屋の窓は開けたまま、台所のテーブルで薬を注射することを学ばなければいけなかった。ドアを締め切ったまま、バスルームでひとり麻薬を打つのでは無くてね。薬を投与することは、今まで生きてきて、もっとも苦痛なことだったけど、一年間それを続けなければいけなかった。それはまるで生き地獄だった。しかしそれで第3ステップへと向かわせてくれた。治療がうまくいかなかったために、その信念が必要になったのだった。肝炎はまだ治っていない。そして依然としてアディクトだ。ステップとスポンサーが想像もしなかったようなことを私に教えてくれた。私は世界と共に調和がとれている。私は新しい生き方を得ることができた。再び薬を投与することになるかもしれない。そうじゃなくとも、医者と神に私はお任せしている。私はやり遂げられるだろう。私はNAに通ってきた。そして人生を手に入れたのだ。

 すべてにおいて新しい生活が始まった。自分の価値を高めるために私は短大へ行った。人生とは面白くて、前に向かい挑戦していくもので、知的な、社会的境界線を押し広めていくものだ。多くの時間は挫折しそうになっている場合が多かったけど、学習することは信じられないほどよい経験になった。短大での勉強の負荷が多くなってくると、ミーティングに出る回数が減ってきて、そのことをスポンサーが心配してくれていた。私はNAのサポートネットワークと欠かさずにつながっているようにしていた。休みがとれてミーティングにいけるときには、できるだけ多くのミーティングを詰め込むように出席した。栄誉を受けて短期大学を修了することができた。そしてそのあと4年生大学に編入した。自分の子供たちをスポンサーが卒業式に出席してくれて、彼らがどれだけの私のことを誇りに思ってくれているかを自分の心に刻み込んだ。回復のなかで経験した成功に対して、私はNAにすごく感謝している。

 ある朝、血漿を寄付するために私は血液センターにいた。私は長いことそこで待たされていた。名前がなかなか呼ばれないので何か変だなと感じた。やっと白衣を着た医師が彼のオフィスに入るように私を呼んだ。彼は無遠慮に「あなたの血液はHIVの陽性と判明しました。あなたはこれらから永久的にこの血漿プログラムは加わることは出来ません」といった。私は呆然としたまま町を歩いた。私は今までになかったいくらいにやけくそになった。私はニュー・メキシコに行き着いて、死に掛けて、そこでリハビリ施設に入った。私は、以前ある一人のアディクトが言っていた、NAとその原理をどれだけ愛しているかを話していたことを思い出した。私は泣き崩れて、自分がアディクトだと認めた。そしてナルコティクス アノニマスに積極的に参加するようになった。

 その後にHIVを持っているカールフレンドができた。彼女はエイズで死の床に臥せっていた。私は彼女にスプーンで食事を与え、看病をした。それは恐ろしい経験だった。私はミーティングに行くことを思い出して、「私はクリーンで居られるのだ」と言葉にしてみたけれど、本当に出来るのかどうか疑問だった。彼女が死んだ日の夜、私はスポンサーと、もう一人NAの友人に電話をした。彼らは私をサポートするためにやってきてくれた。彼女も去り、全員がいなくなった後、私は怖くなった。自分がすべきことは?そして私は第三ステップを紙に書いてみると、私のハイヤーパワーは、使わずにこのプログラムを続けていれば、恐れることは何もないことを示してくれた。

 5年クリーンでいながら、こんな振る舞いでいる自分が信じられなかった。誰かのせいにするするための人も、弁解する言い訳もなくなってしまった。私は使っていなかったけど、もう若くなく、人生経験もなかった。私は責任を取ると、自分が汚くて希望もなくしていることに気づいた。私は以前に聞いていた「秘密を持っているうちは、病気のままだ」という言葉の意味を十分に理解した。

 その関係をやめるために、まず夫に話すことだと思った。その日は私の人生でも最低の一日になった。酷く自分を恥じた。私の夫と浮気相手の妻を裏切るだけにとどまらず、自分の小さなコミュニティで亀裂を生じさせていたことで、自分のフェローシップに対しても裏切っていたのだった。私はこの章でいう自分の人生の一場面を通して、ステップを実際にやるNAプログラムを抜きでの自分の振る舞いでは生きていけないことを認めた。実際夫と私はよりを戻した。彼は無条件の愛と、許し、高潔さを教えてくれた。今日私たちは回復の中で、同じようなシチュエーションにいる他の人々の手助けをしようと努力している。

 ある日、ジャガイモの皮を剥いていると、自分の手が弱っているのに気づいた。それを腱鞘炎かなんかだろうと片付けた。それから麻痺を感じるようになり、足がひりひり痛み始めた。それからすぐ私は歩くことも立つこともできなくなってしまった。私は救急病院に運ばれて、フィジカル・リハビリテーション病院に移されると、神経障害と診断された。この時期私はミーティングに行くことができなかった。そしてスポンサーがたくさん手助けをしてくれた。私はステップを続けて、ベーシックテキストを読んだ。ミーティングがすごく恋しくて、外の世界から一人ぼっちでいるように感じていた。二年後、私は再び立てるようになり、少し歩くことも出来るようになった。いまでは私は付き添いの人と一緒なら、その辺を歩くことが出来るようになった。このつらい時期にスポンサーとハイヤーパワーのサポートがあったことに恵みを感じている。そのサポート抜きでは、やり遂げることはできなかっただろう。

 私は休日に母の家で飾り付けをしていた。その時、妻が私に電話をかけてきた。彼女は薬が効いていたようだった。彼女は酷い言い方で、いまこの場で繰り返せないような言葉を私に言った。飾りつけが終わったあとに家に戻ってみると、彼女はソファにいて、意識を失っているようだった。そしてその後、私のショットガンが彼女の体の正面に転がっているのに気がついた。私は救急番号に電話した後、ショックでそこに立ち尽くした。泣きながら、神を呪った。だが私は神の意思が妻に及びますようにと祈った。すると何かが起こり、彼女はもうそれ以上苦しむ必要がなくなった。その後私は逮捕され、妻の死が自殺と認定されるまで容疑を懸けられた。私は電話を手に取り、スポンサーに電話した。スポンサーが来てくれて、次の日にフェローシップの仲間がやってきて、彼らが出来ることは何でもやってくれた。

 時は過ぎていったけれど、深い悲しみは消えなかった。私は降伏しなければならないとわかっていた。彼女を取り戻すことはできなくても、自分の正気さを保つことはできる。ついに誰かが答えは信念にあって、奇跡を待つ前にやる五分間のギブアップにはないという事実について分かち合ってくれた。私はそのアドバイスに従って、自分の回復と、彼女への言葉にならない言葉を分かちあうために妻への手紙を書いた。深い悲しみの重荷から開放された。私は神にハンドルを握らせた。時々自分の意思が戻ってくるけど、以前よりも痛みは少なくなっている。


 このプログラムは、他の慢性病をもっている自分でも、アディクションからの回復することができるということを私に教えてくれた。私は長期間ずっと痛みに苦しんでいて、NAの中でクリーンでいたいと思うなら、また否認から抜け出したいと思うなら、病院や医師、そして治療薬が自分にとって正しいこととして受け入れなければならない。以前は治療薬を飲まなくてはならない私は対して、クリーンではないからNAに参加するな、と言ってきた人もいた。私は、自分の信じられる唯一の場所から出て行けという人たちを許した。しばらくして私はNAに戻り、それから約二年が経ち、他の人と同じように、自分もプログラムをやる力があることに感謝している。私はスポンサーを得てステップを実践した。ミーティング・サービスをして、定期的にミーティングに出席している。黙想と祈りが私の痛みを軽減してくれる。自分を受け入れようとしているからこそ、私はNAに居続けることができる。私はいまこの時もNAから離れていない!






 このアディクトは実の弟と息子をアディクションの病気で亡くしました。彼の心を打ち砕かれ、そのとき彼の信念は危機的な状況にありました。しかし多くのミーティングに行くこと、12ステップをすることが、そのたさんの喪失を生き抜くための助けになりました。(P309~P314)


NAの中での生と死    

 
 私がNAに始めて行ったのは1986年の8月だった。何か他のことがないかと探していて、彼らを見つけた。その後1年半まだ使っていた。それからまたNAに戻って、何が何でもクリーンでいようというやる気と共に私は降参した。提案を受けたが、間違いもした。感情の起伏は使いたい欲求と共に段々と収まっていった。

 私はこのプログラムにやってきたとき、二人の最高の息子の父親だった。二年クリーンのとき、三人目の息子を授かった。回復を続けるなかずっといい父でいようと努力してきた。間違いもしでかしたが、コントロールしたり、支配的になったり、自分が人生の多くの時間を感じていた恐れで彼らを満たすことをやめて、息子たちを愛すること、守ること、与えることを学んでいった。息子たちに自分と同じように、憎しみや怒り、恐れと共に、人生を省みないような生き方はしてほしくなかった。どんなメッセージもちゃんと言葉で伝えるようにして、息子たちは私が状況にどう行動したり反応するのかを観察していた。私はNAの道の歩き方を学ばなくてはいけなくて、自分のあらゆることにその原理を実践するようにベストを尽くした。自分の息子たちが自分のよい特徴と、性格上の欠点を真似ようとするからだった。

 プログラムは不思議な方法でうまく言った。私の父は人生で二度、私に愛しているといってくれた。スーパーボールでシカゴ・ベアーズが勝利したときと、ある年の大晦日の二回だ。しかしNAに感謝しないといけない、最後の父はちょっと違っていた。父は1996年に癌と診断されて、見舞いにいった息子たちは病院のベットで飛び跳ねながら、父に「愛してるおじいちゃん!」と何度もいったのだった。NAの中で、私は何度も「愛している」といわれてきた。息子たちにも私は言うようになっていて、驚いたことにそれを父に言い始めたのだった。その日病院の中、私の目の前で、マッチョな父は息子たちに「おれも愛してる」と返事をした。私は闘病中の父のそばにいるようにした。そして6ヶ月後に死んだ。

 NAに感謝だ。父は孫に愛されていることを知りながらこの世を去った。そして息子たちは祖父に愛されることを知ることができた。父は58歳で死んだ。19年クリーンだった。

 私の弟も何年間もアディクションの病気を戦っていた。弟は私がNAミーティングに行っていることを知っていた。弟に一緒に行かないかと誘おうとした。弟は違う方法で病気に対処しようとしたが、それは一時しのぎでしかなかった。アディクションはすべてを凌駕して、弟をゆっくりと蝕んでいった。わたしはどの回復中のアディクトのためにもNAにいてくれといわれてきた。弟は私が無条件に愛していることをわかっていたけれど、彼が活発に使っている間、私は彼と距離をとって愛情を伝えなければならなかった。弟はまた、私が彼がその気になったときにはいつでもミーティングに行く気持ちでいることを知っていた。

 2001年4月21日、私は病院からある電話を受けた。弟が酷い事故にあったという連絡だった。病院のスタッフがどうやって私の電話番号をしったのかよくわからなかった。弟が大丈夫なら、私に連絡をすることはないだろうと思ったからだ。病院につくと、自分の弟かどうか確認してくれといわれた。もう彼は死んでしまっていた。彼は全身を打って死んでいた。34歳で永遠にいなくなってしまった。彼は警察に運ばれて、彼はハイなまま、警察に連れて行かれ、その帰りに高架橋に猛スピードで突っ込んだのだった。即死だった。

 その前日、弟は私と一緒に昼食をとるために職場にやってきていた(そこが会うためには時間的にも場所としても安全だった)。しばらく時間を一緒に過ごして、帰り際に弟はこう言った。「愛してるよ、兄さん」そして私もそれに「おれも愛してる」と答えた。それはNAから学んだことのおかげで、「愛してる」という言葉を最後に分かち合えることができた。後になって、私の電話番号を知ったのは、その昼食を共にした日に、私が弟に渡した名刺がポケットの中に入っていたからだったとわかった。ありがとうNA。もがき苦しむアディクトが完全には居なくならないことをおもいださせてくれた。でも弟が“私たちが提供できるもの”をほしいと思い、本気でやる気になって共に努力していればと思うことがある。

 弟の死で、私の心を再び打ち砕かれてしまった。私のスピリットは弱まり、信念は試練にあっていた。私の息子たちは荒れた生活をしていた。自分にとってはなかなか大変なことをしていた。それはステップをやり、祈り、スポンサーに電話をして、ミーティングに行き、愛すべき人たちのために会場にいることだ。私はNAのミーティング会場の中でも、また外でも愛すべき人たちの近くにいる必要があった。フェローシップでの友人たちは、私がクリーンになってからずっと、その日もそこにいてくれた。心のなかでいつもその場所にいてくれることを知っていた。

 今になっては、その頃の頃を書くことがそれほど大変ではなくなったけれど、大切な人を失ったことで二年間ずっと私は悲嘆にくれていた。でもここで書きたいことは、誰にもこのような経験をしてほしくないということだ。この9ヶ月間、私は希望とスピリット、そして生きる活力を失っていた。以前感じていた空虚間を感じる。私はこの数ヶ月ずっと泣き続けて、ようやく自分を取り戻したところだ。

 2年ほど前から、私の長男が一緒に生活するためにやってきて、長男が使っていることに気づいていた。長男は、私が16年間NAの活発なメンバーだということを知っていた。彼はアディクションの病気とは縁がないどころか、すでにその脅威と破壊と共にある状態だった。私たちはもめた。自分のアディクションと共に生きようとしている息子をどう扱ったらよいのか、他の回復中のアディクトの仲間に助けを求めた。長男の使い方は進行していき、彼が使ってぼんやりしているのを初めて見たとき、心が砕かれた。一年間長男は、人生に希望を見出せないし、クリーンになることなどないだろうといった。

 2004年4月、長男はNAにきて助けを求めた。私たちは何回か一緒にミーティングに行ってみたが、自分だけで行きたいと言い出した。彼はプログラムを実践することを始めて、以前なかった深いレベルでの分かち合いをするようになった。私たちの間にあった過去の残骸を片付けて、そのことに心から感謝した。そのことは、長男にとってこのプログラムが信頼できるものだと実感できたようだった。そしてずっと抱えていた秘密を打ち明け始めた。長男はNAの光を見つけ出していった。

 私たちのNAの文献が、“ミーティングに定期的に来続ける人はクリーンでいる”と伝えてくれていたが、私がアフガニスタンに行ってしまった後は、息子はミーティングに行くことをやめてしまった。自分の魂から他の人の魂へとこのプログラムを手渡しすることはできないとわかっている。それでも息子に手渡しできるように願っていた。息子は2004年の11月に再発した。オーバードーズして病院で骨と皮になって痩せこけた息子に会うために海を渡って戻ってきた。彼は目を覚ますと、いまは生きる希望もなく、ただ部屋に座ってずっと使っていたい私に語った。彼は「親父ほど強くはないから、クリーンにはなれないよ」といった。私は自分でもできたんだから、お前にもきっとできると伝えた。胃が締めつけられる思いだった。

 その地域をずっと離れていたので、その地域の回復中のアディクトと知り合うために90日90回のミーティングに出席しようと決めた。そしてまたNAサービスに参加さんするようになった。もしこの90日の90回を完了しなかったら、そして自分のスピリチュアルな基盤を生き返らせなかったらなら、自分の身に起こることといえば、スピリチュアルな衰弱だろうと気づいていた。

 11月のはじめに、私の息子は他のトリートメントセンターに移ったが、彼はあまり載る気ではなく、連絡もあまりなかった。息子から連絡がきたときは、「もしもNAミーティグにいきたかったら私にそう言ってくれ」と伝えた。「NAからくる人たちはクリスマスの時期にこなくなった」と言っていた。一月の終わりに、彼はカルフォルニアの中間施設に移ることに決めたと言ってきた。私はそれを聞いたとき反対した。息子に「最後のリラプスは最悪に見えたから、行ってしまったら、もう生きて会えないような気がして怖いんだ」と私は言った。最後に彼とハグをしたとき私は泣いていて、母親と一緒に電車に乗る前に彼にさよならを言った。彼は私の泣き顔をみながらOK?と聞いて、私は黙ったままうなずいた。彼は私が言って欲しくないと思っていることを知っていた。私は彼の決心に対して無力だった。

 彼は一月三日にトリートメントセンターを出て、中間施設に一月五日に到着した。同じ日、新しい病院のためのミーティングのパネルリーダーを始めて、息子が離れたところでインスティテューション(施設)ミーティングをはじめた。

 1週間後に中間施設の息子から電話が掛かってきた。彼はとても不安そうな感じで、ルームメイトが昨晩リラプスしてるから、怖いんだといった。それから彼は「家に帰えりたい」といい、私はその言葉を望んでいた。使っているアディクトは金のためだったら何だってやることを知っているから、私は内心ほっとした。私は換金できない列車券を送った。彼は次の日に出発して、彼の母親から電話をもらった。それは単に、私が駅に迎えにくることの確認のための電話だと私は思った。しかし違っていた。彼女はヒステリックに泣いていて、取り乱しながら、「息子が死んだ!」といった。その言葉を信じたくなかった。息子はもうすぐ帰ってくるはずだった。カンザスシティを走行中の列車のバスルームで死んでいるのを発見されたという、彼女の話を聞いてから、私の心は沈んでしまった。私の素晴らしくて、楽しくて、外交的で、家族を大事にする、敬意を持つ、愛すべき息子は21歳で死んでしまった。彼はもう一回をやって、それが彼を殺すことになってしまった。もう彼と話すことはない、彼と笑いあうこともなく、釣りや映画に行くことも二度とないだろう。私の姪が、彼は私たちの心の中に生きている、といった。しかし私は自分勝手だ、私は彼に隣に居て欲しいとおもった。彼は私よりも長生きするはずだったのだ。

 一転させたこの悪夢と共に、人生は試練となってしまった。棺に入った息子をみることは、まるで心臓を引きちぎられる思いだった。もし何か出来ていてば、何かすべきだったのでは、さえしていれば、とう考えがすでに通り抜けていた。私はできることはやっていきた。彼を無条件に愛していたし、いつも彼と一緒にその場にいた。

 ステップをやることで、私の感じていた罪悪感と後悔が軽減した。私は自分の愛する人々を手放すことを学び、私の人生にインパクトを与えてくれた人々を尊敬したり、敬意を持つことを学んだ。そしてわたしはまた悲劇に遭ってしまった家族や友人たちの傍にいることにした。それが満足できるものであるかとか、何も書ける言葉などみつからなくても。私はただ彼等の傍にいることが必要で、魔法の言葉など必要ない。

 結果にしてみれば、もしナルコティクス アノニマスがなかったなら、父、兄、そして私のほとんどすべてだった息子を失ったことに対処する方法など私にはなかっただろう。旅は続き、ミーティングの中で、レッスンが私を待っていて、また他のミーティングの中でも、その後のアフターミーティングでも。私たちの地域で、過去9ヶ月の間に4人がオーバードーズで死んだ。アディクションの病気での死は現実に起こる。これは深刻な病で致命的だ。しかし現在は選択肢がある。

 そのとおり、回復の中で喪失や痛みは実際におこる。しかしNAの旅路は自分が想像できるもの以上の価値がある。2,3だが私の夢がかなった。クリーンになってから、私は学士号をとるために7歳の子供と同じ学年からスタートした。私は世界中を旅行して、幸運にも日本やトルコやインド、そしてマレイシアのNAミーティングにいくことが出来た。去年はドイツ、ウズベキスタン、アフガニスタンにいた。旅路は更に続き、ゆっくりだが、息子を失ってしまった痛みと共に生きることを学んでいる。彼が私や兄弟たちを見守ってくれていますように。

 息子の死のために、神や他の誰かを恨むことはしなかった。彼は自分の腕に針を刺すことを選んだのだ。死はその結果だった。彼は家に帰るつもりだったけど、その帰路の途中どこかで、アディクションの病気はそれを妨げたのだ。

 今私は人生が価値があることを知っており、葬式にはちゃんと花を贈る。私はいつも新しい人たちに助けの手が届くようにベストを尽くしている。そしてクリーンでいさせてくれた最初の90日間にやってきたことをずっと続けている。




(これはテスト翻訳です。ここからさらに世界各国のNAメンバーたちの物語が続きます。)

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