北海道の廃線跡探訪 第1回 天北線(1/10)音威子府~上音威子府間
1.はじめに
ご訪問ありがとうございます。北海道の廃線跡探訪 天北線の第1回です。
天北線は150㎞近くの長大路線なうえ、並行道路のないところ(特に天北トンネルのある上音威子府~小頓別間、国鉄駅間距離の最長区間だったことで有名な小石~曲淵間)も多く、探索はたいへんでした。
なお、これからの投稿予定路線などは、下記記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.天北線小史
天北線音威子府~南稚内間は、1914(大正3)年11月7日、宗谷線として音威子府~小頓別間が初めて開業、1922(大正11)年11月には稚内(現・南稚内)に天塩線(今の宗谷本線)より早く到達している。
ところが、1926(大正15)年9月、幌延経由で距離の短い天塩線が全通すると、樺太連絡の使命は天塩線に移る。
1930(昭和5)年4月には宗谷本線の線名も奪われ、立場は逆転、宗谷本線(元の天塩線)の支線北見線に転落する。
1961(昭和36)年4月さらに北見線は、北見市と紛らわしいためか、天塩国(音威子府村)と北見国(浜頓別町など)を結ぶ天北線と改称されている。
1961(昭和36)年には札幌~浜頓別~稚内間の急行「天北」も登場、一時は宗谷本線の夜行急行「利尻」との共通運用の関係で、特急型の14系客車(一部は寝台車の座席使用、いわゆる「ヒルネ」)が使用された。これは短編成とはいえ「ブルートレイン」でもあり、天北線史上随一の豪華編成だった。
廃止直前の1988年(昭和63)年11月には、普通型気動車キハ40系を改造したキハ400系が投入され(急行「宗谷」と共通運用)、グレードアップしている。
しかし、天北線も自動車交通の進展や沿線過疎化により輸送量が減り、ついには第二次特定地方交通線に指定、1989(平成元)年5月1日全線が廃止された。
3.音威子府
天北線の始発駅だった宗谷本線音威子府は、天北線廃止後改築され、駅舎とバスターミナルが同居する「おといねっぷ交通ターミナル」となっている。
ホーム上の駅そばだった、音威子府駅名物の「常盤軒」も2020(令和2)年休業、そのまま閉店してしまい、一段とさびしくなってしまった。
2023年10月には天北線代替バスもついに廃止となり、デマンドバスになっている。
ターミナル内の天北線資料室には、音威子府駅構内の1/150模型(Nゲージ)や沿線案内地図、保線作業のジオラマなどが展示されている。
「天北号」のヘッドマークをつけた特急型気動車の絵はキハ181!に見える。
構内にあった転車台や機関庫などの施設は姿を消し、広大な空き地となっている。
かつては天北線への乗り換え客で賑わった、分岐駅の貫禄を示すような幅のある島式ホームもかえって寂しさを増しているが、天北線が使っていた3番ホームは宗谷本線の上りホームとなっている。
天北線営業当時と変わらない木造跨線橋やホーム上屋の支柱には、天北線全通と同じ年の製造を示す「1922」や「1923」の陽刻がある古レールも見られる。
音威子府村も、天北線廃止時には1,600人あまりだった人口が、2023(令和5)年12月現在半分以下の650人を下まわり、北海道で最も人口の少ない自治体となっている。
4.音威子府~上音威子府
宗谷本線と並んで音威子府を出た天北線は、やがて北へ向かい大きくカーブ、キツツキ川にガーダー1連の啄木鳥川橋梁が架かっている。
橋の先で路盤は切り通しとなり、国道275号と並行するあたりでは築堤に変わるが、国道40号音威子府バイパスのため分断されている。
バイパスの築堤を過ぎると路盤は復活、一部は農地や森林伐採のための作業道に使われ、小さなIビーム橋、コンクリート橋や橋台も残るが、上音威子府まで2回渡る音威子府川に痕跡はない。
5.上音威子府
上音威子府はかつて列車交換可能な有人駅だったが、離農が進み利用者は激減、無人駅となり、ついには冬季営業休止の臨時駅に格下げとなる。
天北線廃止直前の1989(平成元)年3月11日改正ダイヤでは、3月31日まで営業休止となっている。
廃止後も残っていた駅舎は姿を消し、残土置場となった構内には、ホームが草に埋もれつつも残っていたが、2015年8月音威子府村民有志により、擁壁の一部が崩れていたホームは修復され、駅名標も復元された。
駅名標は字体にも違和感がなく裏側にもきちんと書かれている。駅構内前後の路盤は少しの間、作業道となっている。
今回はここまでです。おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は天北トンネルを抜け、小頓別へ向かいます。
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