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北海道の廃線跡探訪 第70回 標津線(3/9)計根別~上武佐間


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます

北海道の廃線跡探訪第70回 標津しべつその3 計根別けねべつ上武佐かみむさです。

路盤は一部が作業道になっているほかは、ヤブ化しています。
中標津のバスターミナルには鉄道資料室があります。

なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.計根別~中標津

1/5万地形図「計根別」昭和61年第2回編集「中標津」昭和53年修正に加筆

計根別からは道道13号にほぼ並行して中標津へと向かう。

路盤は一部が作業道や農地となったところもあるが、ほとんど放置されている。

①作業道となった区間の始点 開栄方を望む 2019年6月撮影

1961(昭和36)年10月開設、国鉄時代は仮乗降場だった開栄かいえいの跡はない

②開栄駅跡を望む 2011年8月撮影

開栄から当幌の間も、作業道として使われているところがある。
当幌の手前の道道踏切跡はよくわからなくなっている。

③作業道となった区間 当幌方を望む 2021年6月撮影

当幌は駅前広場が残るだけで、駅構内だったあたりはヤブに覆われている

④当幌駅跡を望む 2011年8月撮影


1/5万地形図「中標津」昭和53年修正に加筆

標津線は当幌から再び一直線となり、中標津市街へ入っていく。

道道13号とクロスした先の俵真布たわらまっぷ川には、タオロマップ川橋梁が残っている

⑤タオロマップ川橋梁 2011年9月撮影

上部には白い柵が設けられていて、一見すると歩道に転用したように思えるが、橋の上面全部を囲い、立ち入れないようにしてある。
橋の前後の築堤には柵もなく、一段下がっていて道路からは入りづらいから、単に橋だけ危険防止のため柵をしたように見える。
撤去しないのは、費用の問題か、あるいは保存してあるのか、わからないが。

⑤築堤上から橋を望む 2011年9月撮影

厚床方面からの路盤と並ぶあたりは、一部は道路(歩道?)として舗装されているが、今では半ば雑草に覆われている。

⑥中標津市街端の路盤跡 2011年8月撮影

その先は緑地帯や空き地になり、駐車場や家庭菜園などに使われているが、駅構内に入る手前から一変して面影はまったくなくなる。

⑦道道833号の踏切跡から中標津方を望む 2011年8月撮影

3.中標津

中標津は根室管内では根室に次ぐ人口があり、2010年までは人口が増加していた。さすがに近年は減少に転じたが、それでも2023年7月現在2万2,000人を超えている

江戸時代からロシアとの交流がある根室と違い、内陸部の開拓はかなり遅れたが、中標津はその進行とともに発展してきた。

中標津空港は道東の交通拠点の一つであり、市街地には銀行や商業施設も多く、クルマや人の往き来も多い。

もとの中標津駅構内には中標津町交通センターをはじめ、ハローワークなどの公共施設が建ち並び、上武左方にある古い倉庫が鉄道駅の存在を感じさせるだけである。

⑧中標津駅跡 上武佐方を望む 右にあるのが交通センター(バスターミナル) 2011年8月撮影

かつての駅前通りなどは商店が建ち並んでいるから、駅がなくなっただけで、淋しくなったとか寂れたという感じはない。

⑧旧駅前通り 2011年8月撮影

一角には標茶駅と同じような記念碑が建てられているのが、かつて中標津駅であった唯一の証だが、現在のは微妙に形がちがい、つくりなおされたように思える。

⑧中標津駅跡の記念碑 左2021年6月撮影 右2011年8月撮影

交通センター内の鉄道資料室には標津線の資料が展示されている。
普段は施錠されているが、バス案内所に頼むと開けてくれる(窓口営業時間内)。
係の人は「あまり大したものはないですよ」と謙遜されていたが、狭いながらも、行先表示板(サボ)をはじめ、行灯式の駅名標や制服、通票閉塞器、タブレットなど、鉄道資料が整然と展示されている。

広い待合室の一角にでも展示しておけば、バスの待ち時間にでも見る人もいるだろうに、もったいないと思う。

⑧中標津交通センター内の鉄道資料室 2021年6月撮影
⑧同上 駅名標・写真
⑧同上 行先表示板(サボ)など

交通センターには中標津空港や郊外への路線、中標津市街を巡回するバスが発着、交通の要衝としての役割は今でも変わっていない

しかし、中標津を中心とした標津線代替バス路線も、2023(令和5)年10月根室交通が担っていた中標津~厚床間が廃止され、根室~中標津空港間で代用、阿寒バスが中標津~別海間を引き継いでいる。

⑧鉄道資料室のある中標津町交通センター 2011年8月撮影

標津川対岸の丸山公園にある、中標津町郷土館にはC11 209が保存されている
この機関車は日高本線静内機関区での在籍が長かったため、二つ目となっている(後面は一つ)のが特徴となっている。
ところどころ白く塗られているのがいかにも保存機という感じがするが、状態はさほど悪くない。
郷土館内にも標津線の資料が展示されている

⑨中標津町郷土館に保存されているC11 209 2011年9月撮影(タイトル写真も同じ)

4.中標津~上武佐

標津線は中標津市街を抜けると、ほぼ真北に向かっていた。
市街の外れにあった第1標津川橋梁は、まったく跡形もない

標津川を渡ると丘陵地帯を北上、一部は一般道路に生まれ変わったところもあり、そこを抜けると川北かわきたまで道道774号と並行する。

上武左の手前にある武佐川橋梁へは、踏切跡から路盤を歩いてみた。
中標津方は農地への作業道となっているが、反対側の上武佐方にある鉄橋へ向かう路盤はフキや草に覆われている。しかし、それほど濃密なヤブではなく、橋まで行くことができた。

⑩踏切跡から中標津方の作業道となった区間を望む 2019年6月撮影
⑪鉄橋から中標津方の路盤を望む 2011年8月撮影
⑪赤いガーダー3連の武佐川橋梁 塗装表記も残っている 2019年6月撮影

上武佐の手前のクテクンベツ川橋梁の前後の路盤は、ひどいヤブだったので、並行する道路橋から川岸へ降りて近づくと、蛇行した川の向こうに、武佐川橋梁と同じような赤いガーダーが見えた
しかし、2019年6月に通りがかったときは、すでに撤去されていた

⑫クテクンベツ川橋梁 2011年9月撮影

クテクンベツ川橋梁を過ぎると、すぐ上武佐となる。

今回はここまでです。

おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。

次回は上武佐から川北フットパスへ向かいます。

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