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北海道の廃線跡探訪 第115回 深名線(3/6)沼牛~政和間


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます。

北海道の廃線跡探訪 第115回深名しんめいその3 沼牛ぬまうし政和せいわです。

沼牛には修復された駅舎があり、幌加内ほろかないのバスターミナルには深名線資料室があります。

なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.沼牛~幌加内

1/5万地形図「鷹泊」「幌加内」ともに昭和59年修正に加筆

沼牛には駅舎とホーム、農業倉庫が残り、2015(平成27)年には地域の歴史遺産として駅舎を保存する活動が始まった

①修復された沼牛駅舎 2022年10月撮影
①同 ホーム側 腕木式信号機も立っている 鷹泊方を望む 2022年10月撮影

駅舎は、扉や窓に打ちつけられていた板も取り除かれ、木製窓枠を復活させるなど、ていねいに手が入れられ、車寄せ上部の駅名板も、字体や色まで復元されている。

①車寄せ上部の駅名標 2018年6月撮影

さながら営業当時のようにみえるが、まわりはみごとに整備され、まったく平らな地形といい、まるでジオラマ模型を見ているようでもある。

①同 路盤から新成生方を望む 2017年7月撮影
営業当時の沼牛 乗客はお名残乗車の人だけ 5723D(キハ53 507+キハ56 148+キハ54 504)
1995年8月撮影
営業当時の沼牛駅舎 板張りの窓が痛々しい 1995年8月撮影

新成生しんなりうまでの路盤は、作付面積日本一を誇る幌加内名物ソバ畑のなかに残っているが、幌加内川橋梁には痕跡はない

②沼牛~新成生間の路盤 2009年5月撮影
③幌加内川橋梁跡を望む 2009年5月撮影

仮乗降場昇格組の新成生は、深川方の路盤は残るが、ホームのあった名寄方は耕地整理で消失、その先のヤウンナイ(弥雲内)川橋梁にもなにも残っていなかった

④新成生駅跡を望む 路盤もろとも消失 2009年5月撮影

弥雲内川の先で路盤はヤブとなり復活、深名線を跨いでいた用水路橋が、堀割のなかに残っている

⑤復活した路盤跡 幌加内方を望む 2009年5月撮影
⑥堀割のなかに残る用水路橋 2009年5月撮影


堀割には陽があまり射しこまないためか、それほど密生したヤブではないが、やはり草が繁茂する季節は歩くのは難しい。

⑥堀割上から見た用水路橋 2017年7月撮影

幌加内市街が近づくにつれて、路盤は農地や宅地となったところが多くなり、市街手前の雨煙内川に架かるウエンナイ川橋梁も痕跡はない

⑦幌加内市街手前に残る路盤 2009年5月撮影
⑧雨煙内川から幌加内方を望む 路盤の痕跡はまったくない 2017年7月撮影

3.幌加内

1/5万地形図「幌加内」昭和59年修正に加筆

幌加内町役場のある中心市街に位置する幌加内は、朱鞠内しゅまりないとともに、最後まで列車交換をしていた沿線随一の駅だった。

⑨幌加内駅跡から上幌加内方を望む 左はJR北海道バスの車庫 2009年5月撮影

廃止後もしばらく駅舎が残っていた構内は、再整備され面影はまったくないが、一隅に線路に駅名標を配したモニュメントがある

駅名標の本体以外はすべて新たに造られたようで、線路の方向も違い、まわりの情況ともあいまっていささか趣には欠けるというのは贅沢だろうか。

⑨幌加内駅跡のモニュメント 2023年9月撮影

国道沿いにあり、バスターミナルも併設されている幌加内交流プラザには深名線資料室があり、展示品も充実している

⑩幌加内交流プラザ(バスターミナル) 2009年5月撮影
⑩幌加内町交流プラザ(バスターミナル)2階の深名線資料室 2024年6月撮影
⑩幌加内町内各駅の解説 2024年6月撮影

幌加内町の人口は最盛期の14,000人近くから1,300人あまりへと激減、町としては人口が北海道内最少、かつ人口密度が全国最低となってしまった。
ターミナルへ発着するバスの乗客も実に少ない。
2010年には空知支庁だった管轄が、実態に合わせ、上川総合振興局となっている。

営業当時の幌加内 ここでは一般乗客が意外に多かった 1995年8月撮影
新成生方からホーム側の幌加内駅構内を望む 1995年8月撮影
幌加内駅舎 1995年8月撮影

4.幌加内~上幌加内

幌加内市街にあった北4号の踏切は直線化、その先の元川にも橋の跡はなく、市街北端の幌加内小学校裏で路盤は消えている

⑪幌加内小学校裏に残る路盤 2017年7月撮影

これもJR昇格組の上幌加内は、線路とホームの一部、駅名標の枠と運転用の駅名表示標が保存されている
ホームは駅名標のところのみのレール利用の脚2つ分で、まさに本物の学校朝礼台のようになっている。
とはいっても実物なので、人工的なモニュメントよりもずっと味わいがある。

⑫まだそれほど痛みがなかったころ 幌加内方を望む 2009年5月撮影

しかし、最近、駅名標の枠が壊れ、ホームの上板はすべてなくなるなど、痛みが目立ってきている。

⑫ホームは脚だけになり、駅名標の枠に運転用の駅名表示標の柱が結ばれている 2023年9月撮影

5.上幌加内~政和

1/5万地形図「幌加内」昭和59年修正に加筆

上幌加内からも路盤はほとんど消失し雨煙別うえんべつの手前でようやくヤブとなって現れる。
第1雨竜川橋梁ではじめて雨竜川を渡るが、痕跡はない

⑬第1雨竜川橋梁のあったあたり、政和方を望む 2024年6月撮影

やがて両側から山に挟まれるようになり、雨竜川と国道と路盤が近接してくる。
雨煙別川にも痕跡はなく、1990(平成2)年3月10日廃止された雨煙別には倉庫だけが残っている

⑭雨煙別駅跡 政和方を望む 2009年5月撮影

政和方の第2雨竜川橋梁にも跡はなく、対岸には路盤が少しだけあるがすぐ農地となり消えてしまう。

⑮第2雨竜川橋梁のあったあたり やはりなにもない 2017年7月撮影

深名線に沿った林道をたどると、途中から路盤を転用した区間となるが、次第にヤブが濃くなり、進めなくなる。

⑯路盤を転用した林道 2017年7月撮影
⑰この先でヤブとなり進めなくなる 2017年7月撮影

さらに山地が迫ると、国道から雨竜川の対岸に路盤が見え、神居橋梁が撤去されているのがわかる

営業当時の神居橋梁 1995年8月撮影

やがて深名線で唯一現存する鉄橋、トラスとガーダーの第3雨竜川橋梁が現れる
鉄橋は保存会の手で毎年春先の除雪などていねいに保守されているため、美しい状態が見られる。

⑱第3雨竜川橋梁 2009年5月撮影(タイトル写真は2013年2月撮影)

政和方にある広場には、鉄橋の解説板と、この工事で若くして殉職した技師の慰霊碑がある。

⑲第3雨竜川橋梁の広場にある「渡部義雄君弔魂碑」 2009年5月撮影
⑲広場から政和方を望む 2009年5月撮影

一線川に架かるホロカウリベツ川橋梁も跡はなく、雨煙別と同時に廃止された政和温泉も路盤だけとなっている

再び平地の畑作地帯に出ると、路盤は耕地整理でなくなるか、残っていてもヤブになっているのは変わらない。途中の二線川橋梁や浅瀬川橋梁などの痕跡もなく、政和となる。

⑳浅瀬川橋梁跡から上幌加内方を望む 中央の樹木が築堤になった路盤らしい 2024年6月撮影

今回はここまでです。

おしまいまで読んでくださりありがとうございました。

次回は、政和から朱鞠内へ向かいます。

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