北海道の廃線跡探訪 第51回 美幸線(1/2)美深~辺渓間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪第51回 美幸線美深~仁宇布間その1 美深~辺渓間です。
美幸線は、辺渓までの平地の路盤は、農地化されてほとんど消えていますが、山間部に入ると、第1仁宇布川橋梁から仁宇布まで多くの橋が残っています。
道道の高広パーキング附近から終点仁宇布までは、「トロッコ王国美深」が線路をそのまま転用し、エンジンつき軌道自転車を走らせています。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.美幸線小史
美幸線は1959(昭和34)年8月着工、1964年10月5日美深~仁宇布間21.2㎞が開業した。美幸の「美」は美深、「幸」は枝幸を示し、本来、興浜北線の北見枝幸まで達する予定だったが、美深町内だけで終わってしまった。
美深~仁宇布間には、1935年殖民軌道仁宇布線が敷設されていたが、美幸線開業前に廃止されている。
美幸線は国鉄の営業係数ワースト10の常連であり、第一次特定地方交通線のなかでも美幸線の輸送密度は最低だった。
未成区間の仁宇布~歌登~北見枝幸間、興浜線北見枝幸~雄武間を含め、美深町・歌登町・枝幸町それに北海道で構成する、第三セクターでの運営も検討された。しかし、黒字転換の見通しもたたず断念、美深~仁宇布間の開業区間も1985年9月17日廃止されている。
開業区間の廃止により、路盤やトンネル・橋梁がほぼ完成していた仁宇布~歌登~北見枝幸間は存在意義を失った。
その後、枝幸町市街地をはじめ高架橋などはほとんど撤去、トンネルも閉鎖されているが、第2大曲トンネルは道道120号天の川トンネルとして拡幅転用されている。
3.美深
宗谷本線美深駅附近には古いレンガ造りの倉庫なども建ち、明治末期に開業した歴史を感じさせる。
2016(平成28)年にはJR北海道の社員配置がなくなり、美深町による簡易委託駅となった。
美深町の人口も美幸線廃止年には7,900人近くだったのが、2023(令和5)年では3,800人を割りこみ、最盛期の昭和30年代より1万人以上少なくなっている。
美深駅舎は美幸線廃止後の1987年に改築され、美深町交通ターミナルとなり、中央には美幸線全線開業を熱望した美深町の思いをこめた尖塔「美幸の鐘」がそびえ、正面横には地元功労者の像も建っている。
2階には美幸線資料室があり、駅名標などの実物資料をはじめ、年表や北見枝幸までのジオラマ模型などが展示され、充実した内容となっている。
この資料室を見ると、「日本一の赤字線」を逆手にとり、当時の町長自ら銀座で美幸線の乗車券を売るなど、美幸線廃止反対・全線開業を掲げ熱心に取り組んでいたことを思い起こさせる。
美幸線は駅舎側のホームと喰い違った島式ホームから発着していた。2番線は宗谷本線上り列車が使っているが、美幸線用だった3番線の線路は撤去され、ホーム上の短い屋根だけが名残のようにそのままになっている。
4.美深~辺渓
美深を出た美幸線は、宗谷本線と並んで南へ向かい、美深川を渡った先で東に転ずる。
美深川は宗谷本線の橋だけになっており、その先も路盤ははっきりしない。
六線と東一号の道路が交わるあたりを斜めに横切って農地に出ていたが、附近の家屋はちょうど美幸線の路盤に沿ったかたちになっている。
六線道路と並行していた路盤は、ほとんど姿を消しているが、美深川には仁宇布方だけ橋台が残っている。
やがて美幸線廃止後建設された名寄美深道路をくぐり、東四号附近からは丘に沿うようになる。
東五号から、美深川の横にヤブに覆われた路盤が現れ、落石防止柵も残っている。2013年9月訪問時には防止柵は見えども、ヒドいヤブでとても入れなかったが、先月にはまだヤブがそれほど濃くなく、なんとか歩くことができた。
丘から離れると路盤は再び消え、東美深の前後も、駅跡を含め畑地になり、路盤の痕跡もない。
辺渓手前のペンケ十号川には、コンクリート橋の西尾川橋梁が残り、橋から辺渓方の踏切跡までわずかに路盤があるが、辺渓駅跡も農地化されている。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は辺渓から終点仁宇布へ向かいます。
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