北海道の廃線跡探訪 第68回 標津線(1/9)標茶~泉川間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪第68回 標津線標茶~根室標津・中標津~厚床その1 標茶~泉川間です。
標津線は100㎞を超える路線です。山越えやトンネルはありませんが、橋がかなりあり、その多くは残っています。
川北~根室標津、別海~厚床間はフットパスとして整備されたこともあり、今でも風蓮川橋梁などの鉄橋を渡ることができます。
奥行臼駅はほぼ営業当時のまま保存され、西春別には鉄道資料館があり、標津線関係の鉄道資料が展示されているほか、保存車輌もあります。
廃線跡としては、北海道でも屈指の路線だと思います。
今回の区間、標茶から泉川まではほとんどが無人の丘陵地帯ですが、路盤は一部が未舗装道になっています。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.標津線小史
標津線の歴史は、まず1933(昭和8)年12月1日標津線として厚床~西別(改称/別海)間が開業したことに始まり、翌年10月1日には中標津に達した。
標茶~根室標津間は、1936年10月29日計根別線として標茶~計根別間が開業、翌年10月30日根室標津まで全通、厚床~根室標津間69.8㎞、標茶~中標津間47.1㎞、合計116.9㎞が標津線となった。
開業後は標茶~根室標津間がいわば本線筋となり、厚床~中標津間は支線的な運行となっている。
全線開業後、いつしか厚床~中標津間の起点は中標津となっているが、戦前から列車は中標津方面行きが下り、厚床行きが上りと、逆だった。
1962年からは根室標津~標茶~釧路間の準急「らうす」(のちに急行「くなしり」「しれとこ」)も運行されていた。
戦後、平地が拡がるこの地域では、道路整備が進むと自動車交通が圧倒的に有利となり、第二次特定地方交通線として廃止対象となる。
JR北海道に継承後、1989(平成元)年4月30日廃止された。
3.標茶
標津線の起点のひとつだった釧網本線標茶駅はモダンな三角屋根の駅舎で、標津線営業当時と外観はさほど変わっていないように見える。
釧路方にはバスターミナルがあり、標津線の代替バスも発着している。
駅構内は広いが、分岐駅ではなくなった今では建物は少なくなり、網走方にある大きな近代的な車庫が唯一目立つくらい。
標津線が発着していた2・3番線ホームもそのままで、2番線は釧網本線の列車交換に使われている。
骨組みに古レールが使われている昔ながらの跨線橋と対照的な、しゃれたホーム上屋が1輌分足らずなのは、釧網本線の列車編成の短さを感じさせる。
そのホームには、「標津線起点 標茶駅」と書かれた天然木の標柱がある。
駅舎側の1番ホームにも、釧網本線と釧路鉄道の解説板があり、1897(明治30)年アメリカ製のレールも展示されている。
釧網本線を走る「SL冬の湿原号」も牽引する、JR北海道の動態保存機C11 171は、かつて標茶町で保存されていた。
ほかにも、標津線で最後まで使われていたC11 227が大井川鐵道で動態保存されている。
4.標茶~泉川
標茶を出た標津線は釧網本線と並行、この区間にはコンクリートの溝橋がある。
やがて左にゆるくカーブする釧網本線と分かれ、標津線は右にカーブして線路と並行していた道路とクロス、1961年4月開設、国鉄時代は仮乗降場だった多和となる。
線路と直交させるために曲がっていた道路は直線化され、駅の痕跡はなく、牧草地のなかをヤブとなった路盤が残るだけになっている。
多和を出ると、丘陵や湿地帯を縫って泉川へ至る。
沿線には人家や生活道路はなく、林道があるだけの無人地帯となる。
林道から目をこらすが、樹林のなかにそれらしきものはなく、かつての踏切跡からは、多和方・泉川方ともに未舗装道となっていた。
多和方はすぐに道路と分かれ、路盤は放置されていたが、泉川方は未舗装道となっている。途中には待避所もあったから、道路化工事が行なわれたのだろう。
ほとんど勾配もない森のなかの心地よい道だが、しばらくすると草の丈が高く、密度も濃くなってくる。足元にはうっすらとバラストも残っているが、両側からは木々がせり出しきた。
いつの間にか道路化されなかったところまで来てしまったらしく、やがて進めなくなった。
標津線は途中ほんの少し厚岸町を経て別海町へ入り、泉川へと向かっている。
泉川は戦時中の1944年5月信号場として設置、1952年3月一般駅に昇格している。
今は、駅前で行き止まりだった道路が西北側へ貫通し、旧構内は一面草に覆われていた。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は泉川から計根別へ向かいます。