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北海道の廃線跡探訪 第81回 池北線(北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線)(2/10) 高島~本別間


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます

北海道の廃線跡探訪第81回 池北線(北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線)その2 高島~本別ほんべつです。

この区間は、岡女堂おかめどうのホームや本別川橋梁、小鉄橋が残っていますが、勇足ゆうたり駅舎は姿を消しました

これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.高島~勇足

1/5万地形図「高島」平成7年要部修正(鉄道)に加筆

高島のすぐ先の高島十五線川に橋の痕跡はなく、銀河線は国道242号とやや離れながらも並行していく。

路盤はところどころ農地への作業道として使われ、高島十六線川にもなにもないが、三線川や跡見川などには橋台が残っている。

①三線川に残る橋台 2017年9月撮影
②跡見川に残る橋台 2017年9月撮影

五線にある大森神社から、路盤は作業道となっているが、大森手前の親牛別川は橋台をだけになっているので、駅までは通じていない。

③作業道となった八線附近の路盤 大森方を望む2017年9月撮影

大森も1968(昭和43)年10月設置の仮乗降場からJR発足時駅に昇格、道内時刻表には載るようになったが、当初は全国版には載っていなかった(88年3月号にはある)。
銀河線に継承された後も変化はなかったが、駅跡は空き地となっている。

④高島方から大森駅跡を望む 2017年9月撮影
1/5万地形図「高島」平成7年要部修正(鉄道)「本別」平成6年要部修正(鉄道)に加筆

大森を出ると池田町と本別町の境になっている北十線川にコンクリートの橋台を残し、路盤は次第に築堤となっていく。

⑤北十線川に残る橋台 2017年9月撮影

この区間には赤いIビームの小鉄橋のほか、「CR○○」(○は数字)のプレートのついた通信柱や距離標が残っており、ここまでで最も鉄道路線の面影を感じさせるところだった。

⑥八線川に残るIビームの小鉄橋 2017年9月撮影
⑦通信柱も残る築堤 2017年9月撮影

池北線時代からの赤錆びた距離標と対照的な、コンクリート製の通信柱はまだ新しさも感じさせ、銀河線の意欲的な設備更新がうかがえる。

再び国道に近づくあたりで、路盤は少し消えているが、勇足排水川や勇足中学校近くにも、Iビームの緑川橋梁が残っている。

⑧勇足排水川のIビームの小鉄橋 2017年9月撮影
⑨緑川橋梁 2020年9月撮影

北海道の難読駅名のひとつだった勇足(「いさみあし」ではなく、「ゆうたり」)は、銀河線時代にコミュニティーセンターと合同の立派な駅舎になった。

⑩ありし日の勇足駅舎 2023年10月撮影(タイトル写真は2022年9月撮影)

正面の駅名表示もそのままで、裏側のホームにはワンマンカー用のミラーと列車停車位置目標や駅名標の枠が残っていた。

構内はホームと同一面まで埋められ、パークゴルフ場となっているが、駅前通りや南本別方の倉庫群には駅の雰囲気が感じられる。

⑩ホーム側 南本別方を望む 2017年9月撮影

この駅舎は、2017年9月に訪れたときにも、入口にはロープが張られ、あまり使われているようには見えなかったが、2024年に取り壊され、現在は更地になっている。
銀河線時代に新築された駅舎で、解体された第1号になってしまった。

⑩更地となった勇足駅舎跡 駅前広場から望む 2024年6月撮影
⑩同ホーム側 駅舎はなくなっても、バックミラーと駅名標の枠は残っていた 地面が白くみえるところが駅舎跡 2024年6月撮影

3.勇足~本別

1/5万地形図「本別」平成6年要部修正(鉄道)に加筆

勇足を出ると、農道に並行して路盤が南本別まで続いている。
最初は農道が路盤だと思ったが、東側にバラストの残るヤブがあり、しかも踏切跡には単管の柵があったので、ヤブが路盤だとわかる。

⑪未舗装道に並行する路盤 左の単管柵のところ 2017年9月撮影

やがて北海道糖業の工場裏手となり、南本別手前のホロナイ川にも勇足方がレンガ、南本別方がコンクリートの橋台が残っていた。

⑫ホロナイ川の南本別方橋台 2017年9月撮影

1962年12月設置された南本別の痕跡は、取付道路らしきものがあるだけだった。

⑬道路から南本別駅跡を望む 2017年9月撮影

南本別の先で路盤は再び国道とぴったり並び、岡女堂おかめどうへ向かう。

今度は本別ジャンクションで分かれた、足寄インターチェンジへの道東自動車道や本別インターチェンジへの道路をくぐるが、ここでもきちんと国道だけでなく路盤も跨いでいる。

⑭共栄23線で道東自動車道をくぐる 2017年9月撮影

岡女堂の手前には、黄地に黒文字の運転用の駅名表示標「岡女堂」が残っていたが、2023年には路盤に重機が入り、表示標もなくなっていた。

⑮残っていた運転用駅名表示標 2017年9月撮影

岡女堂はその名のとおり、銀河線開業後、設置費用を岡女堂(豆菓子製造会社)が負担し、1995年9月同社本別工場に直結して設けられた。
駅は国道のすぐ横にあり、廃止後はホームなど一式が、岡女堂により保存されている。

⑯岡女堂のホーム 左端が本別町観光情報センター 2024年9月撮影
⑯駅名標や時刻表もそのまま残されている 2024年9月撮影

駅を設置した岡女堂自体も経営破綻し、本別工場も苦難の道を歩んでいたが、現在は「合同会社豆屋とかち 岡女堂本家」となっている。

駐車場にはクルマが三々五々集まり、観光客が土産を買っていたから、銀河線と対照的にこちらは再生できたようだ。

駅跡は、駐車場からは本別町観光情報センターの裏側で見えないためか、関心を向ける人がいなかったのも対照的だった。

本別方には観光情報センターや駐車場のため、路盤はなくなっているが、すぐ整備された姿で現れ、本別まで続いている。

⑯岡女堂の駐車場から本別方を望む 樹林の間が路盤 2017年9月撮影

本別市街に入ると、路盤は次第に築堤となり、ところどころに勾配標や距離標、さらには通信柱や信号機まで残っている。バラストもそのままで、草もそれほど生えていないことや本別川橋梁の保存を考えると、町の手で整備されているようにも思える。
国道274号の跨線橋は撤去・平面化されている。

24⑰築堤となった路盤 勾配標が残る 2017年9月撮影
⑱場内信号機?も残る 2017年9月撮影

やがて運転用駅名表示標「本別」が見えると、本別川橋梁となる。
赤いガーダー2連の鉄橋は「百年鉄橋」として保存され、解説板も整備されているが、渡ることはできない。

⑲本別川橋梁手前から本別方を望む 白い柵が本別川橋梁 2017年9月撮影
⑳本別川橋梁 2017年9月撮影
⑳同解説板 2017年9月撮影

せっかく、ここまできれいにしているのだから、岡女堂あたりまで遊歩道としたらどうかと思うのだが。

路盤は橋の先で道路化され、そのまま本別へと入る。

今回はここまでです。

おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。

次回は本別から足寄あしょろ向かいます。

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