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北海道の廃線跡探訪 第57回 胆振線(5/6)御園~京極間(訂補版)
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪第57回 胆振線伊達紋別~倶知安間その5 御園~京極間です。
御園からは平地に出て田園風景になります。そのため路盤は農地化され、消失しているところが多くなります。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.御園~喜茂別
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御園は、かつて一面ヤブに覆われていた駅構内が整地され、2023年5月には長い上りホームと短い貨物ホームがよく見えるようになっていた。
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貨車移動機かモーターカーの車庫でもあったのか、コンクリート製の基礎とピットも残っていた。
上りホームと喰い違った下りホームのあった新大滝方は盛土がなされている。
代替バスの通る国道276号から離れている御園へも、倶知安や喜茂別からバス路線があったが、2014(平成26)年10月廃止となり、代わりに喜茂別町営バスが運行されている。
今では北鈴川方の農村地帯を含めても、御園地区の人口は50人あまりだから、民営バス事業が成り立たないのも無理はない。
御園を出るとすぐ小さなコンクリ橋があるが、路盤は農地化され消えているところも多くなる。
南沢川には小さなIビーム橋が、畑地のなかのヤブに埋もれて残っていた。
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北鈴川手前の第3尻別川橋梁は、地形図で見ると今の道路橋のところらしく、跡はない。
北鈴川は、駅跡に新しい集合住宅が建っており、近くに農業倉庫があるだけで痕跡なし。
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北鈴川の先で、再び尻別川を渡る。
この第2尻別川橋梁も、ここも河中に橋脚の土台らしきもの(自然石にもみえるが、位置はだいたい合っている)があるだけで、橋台などは撤去されている。
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橋の先でいったん消えた路盤は、町道から国道276号まで作業道となって現れるが、国道の跨線橋は平面化されている。
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登延頃川橋梁・第1尻別川橋梁も痕跡なく、築堤が部分的に残るだけで、路盤は畑地になったところが多い。
喜茂別の手前の国道オーバークロスは、道路自体は変わっておらず、胆振線が通っていたところは埋められている。
国道から見ると、築堤が北鈴川へ向けて一直線に続いているのが見える。
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この先で喜茂別川橋梁を渡るが、跡はない。
喜茂別市街では一部が緑地帯のように残るほかは、大半が道路や住宅地となっている。
国有化時に西喜茂別から改称された喜茂別は市街の西端にあったが、今では新しい住宅が建ち、駅跡を示すものは公園にある説明板しかない。
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静かな町はずれで、今でも商店街などはないから、胆振縦貫鉄道接続時に、せっかく駅を中心にして発展してきた市街の存亡に関わるとして、駅の移転やルート変更への反対請願がなされたのも無理はない。
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最初の予定線は、国土地理院の1/5万地形図「留寿都」(戦後発行)に記された、胆振鉄道喜茂別から直進し、喜茂別川を渡ってすぐトンネルで丘を抜け、北鈴川(ここも駅位置が異なる)附近に至るルートと思われる。
ルート変更の理由はトンネル建設回避だろうが、喜茂別の人にとっては最初の計画の方がずっとよかったのだろう。
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喜茂別は旧駅、後の国道の南西側を通り、尻別川を渡る手前に北鈴川がある
1/5万地形図「留寿都」昭和24年資料修正より
3.喜茂別~京極
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喜茂別から旧・喜茂別までの路盤も、市街地のなかの道路となり、旧・喜茂別駅の跡も公園やAコープ、保育所などになっている。
附近は市街の中心といった感じで、人やクルマの往来も多く、喜茂別駅跡とは雲泥の差がある。
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旧・喜茂別は廃止後、喜茂別の構内扱いとなり、日鉄鉱業喜茂別鉱山への専用鉄道が出ていた。
ここもほとんど痕跡はないが、鉱山終点の手前に築堤や橋台が残っている。
旧・喜茂別駅跡の公園を散策していると、プール施設の片隅に留産の駅名標が半ば放置されていた。何基か重なっていたが、2017年にはなくなっていた。廃棄処分されたのでなければいいのだが。
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喜茂別から倶知安までは峠越えもなく、どちらかといえば平凡な農村風景が続く。
喜茂別から留産までは、並行する道道696号に取り込まれたり農地になったりして消えている。
留産は、駅前通りが農家への私道となっているだけで、痕跡はない。
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留産からも、路盤は耕地整理でほとんど消えている。
南京極手前の用水路にIビームの小鉄橋が残っており、橋台は複線分となっているので、かつては側線がここまであったらしい。
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南京極は空き地になり、郵便局がかつての駅前を偲ばせるくらい。
今でも国道276号沿いに旧駅名になっていた、川上温泉があるが、駅名にやたらと「温泉」をつけたがる現代とは逆に、国有化時に川上温泉停留場から南京極駅となっている。
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ここからも路盤は同じような状況がつづき、中野沢川やカシプニ川にも橋の跡はない。
東京極手前のオロッコ川には橋台が残っていたが、路盤が用水路に転用されたとき撤去されている。
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文字どおり京極市街の東端にあった東京極も空き地になっている。
東京極は胆振鉄道東倶知安停留場として設置、胆振縦貫鉄道に合併されたとき東京極と改称、国有化時に廃止されたが、1962年12月、駅として復活している。
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この先のワッカタサップ川橋梁の痕跡はないが、京極方には築堤の一部が住宅地のなかに残っている。
住宅地を抜けると、京極町公民館・生涯学習センター「湧学館」などの施設が建ち、路盤は消失、国道276号のオーバークロスも埋められている。
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京極は大規模な農業施設になっており、駅があったことを感じさせるものはまったくない。
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旧駅前通りから眺められる羊蹄山だけが、変わらぬ偉容を見せている。
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今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は京極から支線脇方へ、終点倶知安へ向かいます。