北海道の廃線跡探訪 第43回 興浜南線興部~雄武間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪 第43回 興浜南線興部~雄武間です。
興浜南線は、全長12キロたらずの短い路線ですが、興部~沢木間にはガーダー7連の御西川橋梁が残っています。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.興浜南線小史
興浜南線は興浜線の一部として1933(昭和8)年6月起工、1935年9月15日興部~雄武間11.6㎞全線が開業、戦時中の休止を経て戦後復活の過程も興浜北線と同じだった。
短い盲腸線ということもあり、第一次特定地方交通線に選定。興浜北線廃止2週間後の1985年7月15日廃止されている。
興浜北線については、下記投稿もご覧ください。
3.興部~沢木
興部については北海道の廃線跡探訪第34回 名寄本線西興部~興部間もご覧ください。
興部を出た興浜南線は、構内はずれからサイクリングロードとなり、国道の興部跨線橋をくぐる。
名寄本線とはすでに離れはじめているので、跨線橋の3スパンのうち、左端を興浜南線、右端を名寄本線が通っていたが、名寄本線部分はヤブになっている。
跨線橋を過ぎたサイクリングロードは左へゆるく曲がり興部川へと向かう。興部川橋梁は痕跡はなく、対岸を眺めても路盤すらはっきりとはわからないほどだった。
海岸沿いを走っていた興浜南線は、国道238号とは大きく離れているので、海岸への道をたどると路盤に行き当たる。興部方はヤブだったが、雄武方は未舗装道となり、牧草地への出入りに使われているようだった。
それもちょうど雄武町へ入るあたりで再びヤブとなりオニシ沼(おにしとう)へ続いている。
オニシ沼がオホーツク海とつながっているところに架かる御西川橋梁は、航空写真でも残っているのがはっきり確認できる。
並行道路や近づける道はないが、興浜南線最大の遺構だから、なんとしても見たい。国道から川沿いのヤブを歩き、なんとかたどりつくことができた。天候もよく、オホーツク海をバックに堂々たる7連のガーダー橋が映えていた。
オニシ沼を過ぎた路盤はやがて沢木市街へ入る。
開業当初唯一の中間駅だった沢木は小公園や空き地になり、かつて保存されていた駅名標も見あたらなくなっていた。
2023(令和5)年10月には公園は再整備されていたが、やはり現地には駅を示すものはなく、地図上の沢木駅跡公園という名前だけになっている。
4.沢木~雄武
沢木を出ると、路盤は市街地のはずれから日之出岬まで散策路となり、2013年には案内板も設置されていたが、すでに草が生い茂りとても歩けるような状態ではなかった。
反対側の日の出岬方にも案内板があり、通信施設まで未舗装道になっていたが、その先はヤブだったから、やはり歩行困難だった。
2023年10月には廃止されたのか、案内板もなくなっていた。
散策路が終わるホテルの前から元沢木の先までは、丘に沿った一般道となり、1955年12月設置された元沢木仮乗降場の跡もない。
元沢木を出るとすぐ元沢木川橋梁を渡る。ここには元沢木方の橋台の一部が残っていた。
ここから路盤は国道の海側を並行し、国道からはシケトシナイ川のコンクリート橋が見えたが、オタコムシュベ川橋梁の痕跡はない。
1948年7月設置、1956年9月駅に昇格したものの、仮乗降場並の設備しかなかった栄丘も、取付道路だけになっている。
栄丘の先で路盤は山側へ移るが、踏切で曲がっていた国道は直線化されている。
雄武共栄手前のトーフツ川橋梁も撤去され、橋の手前の踏切から見ると、雄武方の築堤は一部が崩されていた。
元沢木と同時に設置された、雄武共栄仮乗降場にも痕跡はなく、ヤブになった路盤が確認できるだけ。
その先で連続して渡っていた、第一・第ニ雄武川橋梁も堤防がきれいに改修され、橋の痕跡はない。
路盤は雄武市街の手前から、未舗装道や新しい住宅地の道路となるが、やがてヤブになった掘り割りを進み、オコツナイ川へ向かっている。
オコツナイ川には、雄古都内川橋梁の築堤の擁壁と橋台の名残が両側に残っていた。以前は近寄るにはヤブこぎ必須だったが、近年河岸改修で両側に歩道ができ、行きやすくなっている。
5.雄武
雄武駅跡は道の駅おうむとなっている。2013年にはロビーには雄武町の古い写真が展示され、興浜南線の写真もあったが、2023年10月には見当たらず、駅だったことを示すものは記念碑しかない。
記念碑は、自然石に曲げたレールと駅名標を配したデザインで、「歴闘50年 興浜南線終着駅 おむ」「1985.7.14休轢」とある。
町名「おうむ」ではなく、駅名「おむ」(漢字で書かなかったのは、「おうむ」と読まれてしまうからだろう)と正確に記している。「廃止」ではなく「休轢」いう表現には、北見枝幸までの全通を果たせなかった無念さがにじんでいる。
国道を横切っていた引込線の跡もなくなっているが、未成線である興浜線のトンネルは残っていた。
興浜線の遺構も、かつては北見音標あたりまで、並行する国道からコンクリート橋や築堤を見ることができたが、撤去が進み、未成線跡から廃線跡並になってしまった。
わざわざ金をかけて撤去するまいと思っていたのだが、やはり農作業の邪魔になるのだろう。
大金をかけてつくっておきながら、一度も列車が通ることなく撤去されてしまうとは、地元の人にとってもなんともやりきれない思いであろう。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は岩内線を予定しています。