北海道の廃線跡探訪 第75回 標津線(8/9)別海~奥行臼間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪第74回 標津線その8 別海~奥行臼間です。
この区間の路盤はフットパスとして整備されているところもあり、オンネヤウスベツ川橋梁やケネヤウスベツ川橋梁などが見どころです。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.別海
別海駅跡には別海町立交流館ぷらとなどの公共施設や商業施設が建ち、駅の痕跡はない。
別海町は人口1万5千人あまり、市街もこの地域では中標津につぐ規模で、以前は西別といっていた。
駅名も、開業以来1976(昭和51)年12月までは西別だったから、西別時代の方がずっと長い。本来の別海市街は海沿いにあり、今は本別海と呼ばれている。
別海の読みは、駅名は「べっかい」、町の名は「べつかい」。
以前は放送局も「べっかい」と発音していたが、「正しくはべつかいだ」という指摘があったため、突然「べつかい」となった。筆者が学生時代のことで、驚いた記憶がある。
アイヌ語起源(「ペッ」は川を意味する)だから、「べつかい」とはならないのではと思うが、自治省への届けなどにあわせたのだろう。
町当局も2007年町名呼称委員会を設置、どちらも長い間親しまれていることなどから、どちらも容認するのが望ましいとの結論となった。
ただ町施設などは「べつかい」がほとんどのようだが。
3.別海~奥行臼 その1
元の別海駅構内のはずれから、路盤は遊歩道として整備されている。
西別川橋梁も転用され、立派な手すりには「遊歩橋」「平成13年3月」という銘板がついていた。
遊歩道の先は2012(平成24)年ころ、奥行臼まで「別海フットパス」として整備されたが、今では住宅街のなかの空き地となり、物置や菜園に使われているところもある。
住宅地がつきるところからは、路盤は早くもヤブとなっている。そこから路盤を歩いてみた。
すでに木が生え始め倒木も多いが、いったんは整備されたのだから、ヤブはそれほど濃くなく比較的歩きやすい。
30分ほどでポンヤウスベツ川橋梁に到着したが、保守用通路があるのに、新たな扉が設置されチェーンで鍵がかけられている。
保守用通路に続く木の足場板も腐り(脚を掛けるとブカブカした)、案内標識も朽ちかけていた。
通路を完全に塞いでいるのではないから、将来再整備の可能性があるのかもしれない。
実際、2017(平成29)年には、途中の雪印工場裏まで、別海町グリーン・ツーリズムネットワークにより、草刈りなどの維持作業がなされている。
4.別海~奥行臼 その2 オンネヤウスベツ川橋梁へ
標津線は別海から厚床まで国道243号にだいたい沿ってはいるが、かなり離れているところもある。
国道から路盤へ向かう、新しい砂利道をたどると、ヤウシュベツ川とケネヤウシュベツ川との中間に出た。
ヤウシュベツ川へはクルマが通行できるようになっており、築堤が薄暗い切り通しとなった先に、オンネヤウスベツ川橋梁があった。
ここは6連のガーダー橋だが、保守用通路はなく、ガーダーに新たに渡した枕木の上に足場板を敷いて通路が設置され、建築現場用の単管を使った手すりまである。木の足場板も、再訪時の2021年には新しくなっていた。
案内板にある写真には整備工事中の写真や「2020標津線を巡る秋のフットパスツアー」と題した写真もあった。
ガーダーには塗装履歴がはっきり残り、「オンネヤウスベツ川」とある。ここも川名とは違っているが、橋梁名との喰い違いはよくある。
5.別海~奥行臼 その3 ケネヤウスベツ川橋梁へ
ケネヤウスベツ川橋梁までの路盤も、牧草地まで作業道に転用され、その先も低い草が生えているだけで歩きやすい。
路盤はやがて築堤となり、ケネヤウスベツ川橋梁に着く。
ここにも案内板があり、木製足場板の敷かれた保守用通路を通るようになっている。
以前は橋から先の路盤はヤブになっていたが、奥行臼までの区間は現役フットパスとして、草刈りを主とした手入れをされている。
立派な案内板はあれど途中でわからなくなってしまったり、沼地に行く手を阻まれたりする、川北~根室標津間のフットパスとはえらい違いで、設置したはいいが、その後の維持管理は、地元の熱意にかかっているのを痛感する。
別海町の場合も、別海町グリーン・ツーリズムネットワークの人たちが、おそらくボランティアでしてくれているのだろうと思う。
奥行臼の手前で国道とクロスするが、その手前にある木村川は細流で、橋もコンクリート製だった。
踏切の痕跡はなく、奥行臼方にはバス待合室が建っている。その後ろには線路が残され、駅構内まで続いている。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は奥行臼から終点厚床へ向かいます。