北海道 鉄道残照~失われた鉄道の遺産あれこれ
その14 胆振地方の話題5:二つの“103”~美唄鉄道キハ103と雄別炭鉱茂尻礦業所103
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
ことしからnoteをはじめ、「北海道の廃線跡探訪」なる、国鉄地方交通線の廃線跡を主にした記事を投稿しています。
ここでは車輌や遺構のことなど、つれづれなるまま、書いていこうと思います。個人的主観で、なるべく有名でなさそうなものを・・・
今回は、苫小牧市にあったTBS樽前ハイランド跡の、美唄鉄道キハ103と雄別炭鉱茂尻礦業所103号機です。
2.美唄鉄道キハ103
美唄鉄道キハ100形101~103は元国鉄キハ41000→キハ05(11・14・20)でした。いずれも1965(昭和40)年に美唄鉄道に譲渡されています。
美唄鉄道ではエンジンを換装、さらに機械式から液体式に改造し、総括制御が可能となりました。のちには2段上昇式だった前面窓を1枚ガラスにしています。
ところが、せっかく投入した気動車も活躍期間は短く、1970年には合理化により気動車が廃止となるという、普通とは逆のパターンで廃車、1972年には美唄鉄道自体も廃止となります。
キハ102・103はTBS樽前ハイランドに移設、活用されていましたが、樽前ハイランドは1987年閉鎖されてしまいます。
1992(平成4)年に樽前ハイランド跡地を訪れたときは、キハ102はすでになく、103は落書きされるなど荒れていたものの、まだ残っていました(美鉄当時とは塗色は異なる:冒頭写真)。
その後、雄別炭鉱茂尻礦業所103号ともども姿を消してしまいました。
3.雄別炭鉱茂尻礦業所103号機
この103号機は、大江山ニッケル鉱業(1943年日本冶金工業に合併)専用線(加悦鉄道加悦~大江鉱山)101号機(1942年本江機械製作所製造)の増備として、102号機とともに1944年に本江を改称した立山重工業で製造されています。
101~103は、C1(動輪3軸・従輪1軸)の40tタンク機で、これは本江→立山の機関車として最大だそうです。
101・102が同時に製造されたとする文献(①『SL NO.10』所載の渡辺肇「立山重工」、②臼井茂信『機関車の系譜図3』)もあります。
しかし、残された写真で見ると、101は化粧煙突、前面デッキにエアータンクが載っていますが、102・103はともに、パイプ煙突、デッキにエアータンクはありません。
ふつうに考えれば、101の増備機2輛が同形でしょう。まず101と102の2種類を使ってみた結果、102と同形機を増備したとも考えられますが。
NPO法人加悦鉄道保存会『加悦鉄道(下)』でも、101は1942年、102・103が1944年製造とされています。
103は102とともに、戦後に三菱鉱業芦別礦業所専用鉄道(根室本線上芦別~辺渓三坑)へ移っています。
101は同じ三菱系の雄別炭鉱尺別鉄道101になりました。
立山特有の規格型ともいえるよう外観で、同じ軸配置のC1タンク機でも、前回ご紹介したB6とはえらいちがいです。
B6がさまざまなスケールで製品化されているのに、こちらはまだないようです。
上芦別といえば、けむりプロの名著『鉄道讃歌』で有名な、9201号機と9237号機の活躍で知られていますが、102・103の2輛は脇役に終始、走行写真もあまりありません。
この『鉄道讃歌』には102・103の写真はありませんが、巻末の補記、臼井茂信「登場蒸気機関車について」に解説があります。
そこでも、101が1942年、102・103が1944年となっています。前述の②のほうが後年の著書なので、臼井説が変わったのでしょうか。
1964年の三菱芦別礦業所閉山後は、102ともども同じ三菱系列の雄別炭鉱茂尻礦業所に移り、ここでの写真は時代が下ったこともあり、わりと見かけます。
とはいえ、古典蒸機を求めてきた人たちには、あまり相手にされなかったことは否めません。
103号機と行動をともにしていた102号機は、長い間、江別市の個人所有となっていましたが、現在は日本鉄道保存協会の所有となっています(非公開)。
今回はこのへんで。おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
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次回は日本へ帰還したサハリン州のD51形です。