北海道の廃線跡探訪 第20回 歌志内線(1/2) 砂川~西歌間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪 第20回 歌志内線その1です。
歌志内線は焼山~歌志内間が、サイクリングロードや一般道路となり、あまり見どころはありませんが、近年、歌志内市内各駅跡に駅名標が復元されています。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.歌志内線小史
歌志内線は1891(明治24)年7月5日北海道炭礦鉄道空知線として岩見沢~歌志内間が開業、1906年10月1日国有化され、1909年10月12日砂川~歌志内間14.5kmが歌志内線となった。
のちに函館本線となる滝川・旭川方面より先に開業していることから、いかに炭鉱開発が重視されていたかがわかる。
沿線には歌志内線建設の主目的である北海道炭礦汽船(北海道炭礦鉄道の後身、通称北炭)歌志内・神威炭鉱をはじめ、住友歌志内・上歌志内炭鉱や中小炭鉱もあり、専用線が分かれていた駅も多かった。
戦後、石油へのエネルギー転換により沿線の炭鉱閉山が相次ぎ、歌志内線の輸送量も減少、国鉄再建法による第二次特定地方交通線に指定されるが、最後に残った歌志内空知炭鉱(北炭歌志内炭鉱の後身)の石炭輸送のため、第三セクターへ転換する方針を決定。
ところが、国の石炭政策により炭鉱自体の縮小が避けらず、経営の見通しが立たなくなり、第三セクター化は断念、国鉄分割民営化直後の1988(昭和63)年4月25日廃止された。
歌志内線廃止後、ダンプカーにより石炭輸送をしていた歌志内空知炭鉱も1995(平成7)年3月閉山している。
3.砂川~焼山
歌志内線が出ていた函館本線砂川駅は、こぢんまりとした駅舎に改築されているが、有人駅であり、まだまだ本線の貫禄を感じさせる。
ホームは2本3面で、歌志内線が発着していた3番線も健在だが、かつてセキ(石炭車)が並んでいた側線は1本を残して撤去されている。
歌志内線はしばらく旭川方へ函館本線と並んで北上、ペンケスナ川(ペンケウタシナイ川旧河道)には赤いガーダー橋の上歌志内川橋梁がある。
やがて濃いヤブとなった路盤は東へ向けて離れていく。
歌志内線廃止後、新たに掘削されたペンケウタシナイ川で路盤は一旦途切れるが、その先はまたヤブや農地への作業道になっている。
北光一の沢川に架かる第二号川橋梁へは、路盤が作業道となっているところから入ってみたが、作業道が終わると次第にヤブが濃くなる。
河岸近くはササが生い茂りはっきりとは見えなかったが、航空写真を見ると橋自体は撤去されている。
焼山方は北海幹線用水路の水路跨線橋までは作業道になっているが、動物避けの電気柵で囲まれ、北光一の沢川までは行けなかった。
路盤は焼山まで道路にほぼ並行しているが、一部には民家が建っている。
4.焼山~西歌
1961(昭和36)年12月開業、道道627号とクロスしたところにあった焼山には、焼山コミュニティーセンターが建っている。
駅の痕跡はないが、動輪を模したモニュメントがある。
路盤はここから、道道に並行したサイクリングロードになっている。路盤を外れているところもあるが、いずれにしろ鉄道を感じさせるものはない。
サイクリングロードは、歌志内市に入ると、文珠工業団地として整地された空き地の間を行くが、市街地が近くなると、一般道路になっている。
上砂川町へ抜ける道道114号をくぐるところにも面影はない。
1946(昭和21)年11月、仮乗降場として設置、3か月ほどで駅に昇格した文珠は跡形なく、新しい住宅が軒を連ねている。
路盤は道路化されたとき、既存の道路と合わせるために大幅に改修され、鉄道跡の雰囲気はまったくない。
2022(令和4)年には復元駅名標が設置され、かつての駅跡を示す唯一の存在となっている。
工事用の単管や樹脂板で作られたものだが、字体にもさほど違和感はなく、裏面には駅舎の写真をバックに駅の歴史が記され、復元駅名標としてはよくできている。
路盤は、2010(平成22)年閉校した歌志内市立西小学校の手前から、再びサイクリングロードになる。
市街地であるため、焼山~文珠間よりも整備が進んでいて、市民にもよく利用されている。
1961年2月設置の西歌は、芝生が美しい公園となり、手前にある鉄橋も架け替えられている。2021年、ここにも復元駅名標が設置された。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は歌志内線その2、西歌~歌志内間です。
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