北海道 鉄道残照~失われた鉄道の遺産あれこれ
その26 羽幌炭礦鉄道のはなし(3)
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
ことしからnoteをはじめ、「北海道の廃線跡探訪」なる、国鉄地方交通線の廃線跡を主にした記事を投稿しています。
ここでは車輌や遺構のことなど、つれづれなるまま、書いていこうと思います。個人的主観で、なるべく有名でなさそうなものを・・・
1970年9月、羽幌炭礦鉄道は突然経営破綻してしまいます。
その経緯を新聞記事で追ってみました。
2.北海道でも炭鉱整理開始
昭和30年代になると、北海道にも、石炭から石油へと、エネルギー革命の波は押しよせ、まずは零細炭鉱の人員整理・閉山がはじまります。
それでも、暖房炭として優秀な品質の羽幌炭はまだまだ需要も多く、羽幌炭礦鉄道も大手財閥系の炭鉱に負けていませんでした。
1969年8月には、終点築別炭礦駅近くに4階建ての鉄筋アパートも建設されています。
エネルギー革命は急速に進み、大手炭鉱でも主力礦を残し、非効率礦を整理するようになりました。
それでも、石炭産業の斜陽化をとめることはできず、主力礦の閉山にまで至ります。
1970年2月には道東の雄別炭鉱(三菱系)が、特別閉山交付金制度を利用して閉山しています。
3.羽幌炭礦鉄道の会社更生法の適用申請
1970年9月、羽幌炭礦鉄道は会社更生法適用を申請します。
ほとんどの従業員も、新聞報道などではじめて知るという、突然のできごとでした。
記事下段の「羽幌の市昇格にブレーキ」にあるように、羽幌町は1965年の国勢調査で人口3万人を超え、市に昇格する準備を進めていました。
ところが、羽幌炭礦鉄道倒産による先行き不安による人口流出で、3万人を切ってしまうのは確実になります。
そこで、倒産直後(閉山前)の1970年10月の国勢調査で、6,000人近くの架空人口を計上し、統計法違反で町長などが有罪となる事件も起こっています。
4.会社再建へ向けて
かつては100万トンを超えていた出炭も、1969年度はそれを20万トンも下まわっています。ボーナスも額面の四分の一しか払われないなど、経営不安のきざしはありました。
横田社長は組合との団交で、再建へのみちすじを示します。
しかし、従業員になんの知らせもなく、突然会社更生法の適用申請をしたことなどから、会社に対する不信感はぬぐえませんでした。
羽幌、上羽幌の両坑の支部全員大会では、組合長などが組合員を説得しています。
会社は、羽幌本坑に新設備が完成する10月末には、日産2,800~3,000トンの出炭もできると見こんでいました。
地元羽幌町や商工会などの応援もあり、これから冬季に向かい、暖房炭の需要も高まることから、この時点では、再建の見とおしは決して暗くないと思われていました。
今回はこのへんで。
炭鉱のはなしばかりで、鉄道関係のはなしがなくてスミマセン。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
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