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北海道の廃線跡探訪 第111回 手宮線(3/4)色内~道道小樽臨港線間


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます。

北海道の廃線跡探訪 第111回 手宮てみやその3 色内いろない~道道小樽臨港線間です。

この区間も遊歩道整備区間「手宮線散策路」ですが、工期が異なるため、中央通りまでとは少しちがったものになっています。

なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.色内~中央通り(遊歩道整備区間)

1/2.5万地形図「小樽東部」 昭和40年修正に加筆 手宮線は複線表記のまま

遊歩道は浅草通りから、それまでとは反対の海側となる。これは単線化当初は別として、線路は敷き替えられているのだろう。

色内駅舎に面した道路と線路の間には、ささやかな飲食店街があり、線路はその裏側を一直線に手宮へ向かう。

①色内から手宮方を望む 左に並ぶ建物は色内駅の飲食街だった 2017年10月撮影

浅草通りと中央通りの中間で、遊歩道は再び山側に移る。

中央通りは、小樽駅と港(旅客桟橋)を結ぶ、小樽のメインストリートのひとつで、第二火防線、停車場通り、桟橋通りともいわれていた

こちらはビジネス街の浅草通り(第一火防線)と違い、船と鉄道を利用する旅行者の往来が多かったため、沿道には旅館や土産店が並んでいた

港へ向かい下り坂となっている中央通りは、手宮線廃止後拡幅され、路盤を削ったため、線路は踏切の前後で不自然に上下に曲がることになった。

ここだけは新設された線路で、バラストは新しいが、枕木は古く見えるから再利用したらしい。

②中央通り手前から手宮方を望む 下がっているところが中央通り 2017年10月撮影
②同地点に残る古枕木の線路柵 2017年10月撮影

中央通りの線路も、道路交通に支障のないように、道路面にあわせて敷き直され、車輪のフランジが通る隙間もなくしている

③中央通り踏切 手宮方を望む 2017年10月撮影
③中央通り踏切から色内方を望む 左に踏切警報器、右に踏切機器室?もある 2017年10月撮影(タイトル写真は2012年6月撮影)

ここにも解説板があるが、こちらも色内のものと同様、あまりほめられたものではない。

③解説板 ここのものだけなぜか傷んでいる 2017年10月撮影

まず、下部の「最初に完成した手宮駅(現小樽交通記念館)に北海道の鉄道起点ゼロ哩標が設置されました。」を隠してある。

準鉄道記念物にもなっている北海道鉄道開通起点標が設置されたのは、1942(昭和17)年12月12日だから、訂正されたのだろう。

幌内鉄道開業時の起点は、手宮桟橋の突端だったと『北海道鉄道百年史 下巻』にあるので、開業当時そんなところにゼロ哩標が設置されたとは考えにくいし、そうした記録もない。

どうせなら、「日本で3番目の手宮線」も直せばいいのにと思う(前回の色内仮乗降場跡参照)。
行政(小樽市)でも現在は「日本で3番目の鉄道」という表現はしなくなっている。

だいたい開通当時は「日本で3番目の手宮線」ではないし、それじゃあ「日本で最初の手宮線」や「2番目の手宮線」もあるのかと、つい揚げ足とりをしたくもなる。

「後に三笠まで延長」も、「後に幌内まで延長」のほうがよいだろうが、これは「幌内」では、どこだか(現・三笠市幌内)わかりづらいからかもしれない。しかし、ここは駅名を表示しているのだから、やはり「三笠」ではおかしい。

文頭に「旧手宮線は北海道の最初の鉄道です」とあるのに、4行目に再び、「北海道最初」とあるし、やはりきちんとチェックしていないのだろうと思わせる。

幸か不幸か、色内駅跡の解説板同様、観光客は関心がないのか、脚を止めて読んでいる人は、まずいない。
雰囲気が味わえれば、歴史などは関係ないということだったら、ちょっとさびしい。まあ、これは小樽運河もそうだけれど。

③解説板 ここのものだけなぜか傷んでいる 2017年10月撮影

3.中央通り~道道小樽臨港線(1904年7月以前の旧線)

移設前の線路と移設予定線路(方位:北は左方)
「小樽区 明治三十七年五月八日大火災地 同市区改正地域明細図」(部分)に加筆

かつて手宮線は、龍宮りゅうぐう通り(第三火防線)から手宮駅構内まで、道路の片側に敷かれていた

すでに沿線には民家や商店が建ち並び、列車の振動や騒音に加え、積雪期には、線路内の雪が道路や家屋前に排雪され、住民との軋轢が絶えなかった

融雪期になると、道路が泥濘となって歩きづらくなるため、線路を歩いて死傷事故が起こることもしばしばだった。
ついには、業を煮やした当時の北海道炭礦ほっかいどうたんこう鉄道が、線路と道路の間に木柵を作るという強硬手段に出、行政(当時は小樽区)が乗り出すという事態になる。

解決には線路移設しかないとはわかってはいても、移転費や土地買収の問題があり、北海道炭礦鉄道や小樽区も苦慮していた。

しかし、1903(明治36)年4月、約1,000戸が焼失した手宮地区の大火を契機に、第二火防線から手宮駅構内までの線路を、山側(現在地)に移設することになり、翌年7月竣工式をしている

この旧線は元から道路端だったうえ、竣工式の2か月前の1904年5月、今度は中心地区で大火があり、市区改正(区画整理)もされたため、痕跡はまったくない。

4.中央通り~道道小樽臨港線(遊歩道整備区間)

1/2.5万地形図「小樽東部」 昭和40年修正に加筆

中央通りからは、しばらく廃線跡のままだったが、2006(平成18)年小樽市が路盤を買い取り、2016年10月竣工、翌月開通式が挙行されている

④中央通りの先の公園化整備区間終点 手宮方はまだ未整備 2010年9月撮影
④整備後の同地点 解説板は色内方にある解説の隠された部分を削除しただけ! 2017年10月撮影

この区間は、於古発川おこばちがわ橋梁~中央通り間よりも整備の度合いが進み、古枕木の線路柵はほとんど鉄柵に替えられている。さほど腐朽していない柵まで撤去されたのは残念だが、長期間の維持を考慮したのだろうか。

⑤舟見通り踏切と龍宮通り踏切の間には古枕木の線路柵が残っていた 2012年6月撮影
⑤公園化工事中の同地点 画面手前は龍宮通り踏切にある休憩スペース 2013年9月撮影

舟見ふなみ通りや龍宮通りの踏切は、クルマの進入防止にレールが立てられているくらいで改変されず、龍宮通りには踏切遮断機の一部らしい鉄柱も残されている

⑥舟見通り踏切 手宮方を望む 2017年10月撮影

龍宮通り踏切にある解説板は、さすがに懲りたのか、博物館の手が入り、文章・内容ともきちんとしたものになっている

うるさいことをいえば、「始めての鉄道」は「初めての鉄道」のほうがよいだろうし、戦時中の旅客取扱廃止は、休止の誤りだが。

⑦龍宮通り踏切にある解説板 2017年10月撮影
⑦龍宮通り踏切 手宮方を望む 2017年10月撮影
⑦龍宮通り踏切に残る遮断機の一部? 2017年10月撮影

龍宮通りから遊歩道は海側となり、道道小樽臨港線踏切となる。

手宮線廃止後の1988年6月全面開通した6車線の臨港線は、交通量が格段に多いためか、線路の復元もされていない

手宮線の痕跡?は路面のひび割れくらいしかない。

⑧道道小樽臨港線踏切跡
正面ビルの左が遊歩道化された手宮線、画面右端が旧線のあった道路 2023年3月撮影
⑨手宮方から道道小樽臨港線踏切跡を望む 2017年10月撮影

今回はここまでです。

おしまいまで読んでくださりありがとうございました。

次回は、道道小樽臨港線から終点手宮へ向かいます。

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