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北海道の廃線跡探訪 第10回 天北線最終回(10/10) 樺岡~南稚内間


1.はじめに

ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪 天北線の最終回(第10回)です。

今回は樺岡から南稚内へ向かいます。
樺岡までと一転して、路盤は道道や国道に沿っているので、探索ははるかに容易です。
そのかわり、感激するような遺構にとぼしいのは、しかたありませんが。

なお、これからの投稿予定路線などは、下記記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.樺岡

樺岡天北線が、再び道道に沿ったところにあった。
かつては道路反対側のバス停脇に駅名標が立っていた。

バス停横にあった本物の駅名標 落ちかけた照明灯がなんともいえない 2012年8月撮影

元の構内は民家の敷地となり痕跡はないが、駅名標は民家の裏側へ移され、たいへんきれいになっている。

字体は少し違っているし、次駅も左が恵北、右が沼川だったのが、向きが反対になったため、逆になっているから、新たに作り直したようでもある。

民家裏にある駅名標 2022年5月撮影

路盤は樺岡南方の川から駅北方の道道踏切跡まで作業用道路となっていた。

樺岡から恵北方を望む 2022年5月撮影

3.樺岡~恵北けいほく

1/5万地形図「沼川」 昭和53年修正に加筆

路盤は樺岡の先で道道とクロスして東側に移るが、その手前に小さなコンクリートの橋があった。

樺岡北方のコンクリート橋 2022年5月撮影

2019(令和元)年5月には送電線建設の工事用道路となり、大きく改変されているところもあった。

送電線建設工事の作業用道路に転用された路盤 2019年5月撮影

恵北までの道道と並行している区間では、樺岡近くと同じような、コンクリートの小さな橋が残っているのが、道道からも観察できる。

コンクリートの小橋 2022年5月撮影

樺岡恵北のちょうど中間あたりには、天北線建設工事で苛酷な労働に従事させられた、「タコ部屋」(飯場)跡地があり、標柱と解説板が設置されている。
その前後はクルマも走れる未舗装道となっていた。

天北線タコ部屋跡 2022年5月撮影
タコ部屋跡の前から恵北方を望む 2022年5月撮影
1/5万地形図「稚内」 昭和53年修正に加筆

恵北近くの、作業道となったところでは、擁壁に銘板のついた、雪崩防止柵も残っている。

作業道となった区間にのこる雪崩防止柵 2019年5月撮影

路盤は恵北の手間で道道と交叉、再び西側へ移り、駅へ入っていく。
踏切でクランク状になっていた道路は、ゆるく改変されている。

踏切跡から樺岡方を望む 2012年8月撮影

恵北は1963(昭和38)年10月、開業時の幕別から恵北と改称されている。
これは根室本線止若やむわっかが、翌11月に自治体名(幕別町)に合わせて改称するためだった。

道路から少し入ったところにある駅跡には、恵北開基百年記念碑が建てられ、碑の裏側には天北線恵北駅跡地に建てられたとある。

恵北駅跡 2012年8月撮影
記念碑の裏側 恵北駅跡に建立とある 左に大木 2012年8月撮影

元駅前には天北線の歴史を見続けてきたであろうイタヤの大木も残されている。

4.恵北~声問こえとい

恵北から先は、しばらく通水管敷設のため掘り返され、路盤に砂利が固く敷き詰められているため、歩くこともできた。

通水管埋設工事終了直後?の路盤 2012年8月撮影

さきほど恵北手前の踏切跡で、砂利が新しく敷かれているように見えたのは、この工事の跡だったのかと納得。

ただし、時間が経つと草木が繁茂してしまうのは、踏切跡での状況から想像できる。

2012年には、稚内空港の誘導灯近くはまだ工事中で、むき出しになった路盤に、バックホー(ユンボ)や通水管が置いてあった。

1987(昭和62)年6月1日、稚内空港ジェット化にともない、忽然と現れ翌日消えた、東声問臨時駅はこのあたりだろうか。

この駅については、連載時に地元の新聞などを調べてみたが、設置についての記事を見つけられなかった。

この先で、宗谷湾に沿った国道238号と並ぶようになる。

跨線橋跡から恵北方を望む まだ工事中 稚内空港の誘導灯がみえる 2012年8月撮影
同地点から声問方を望む こちらはヤブだった 2012年8月撮影

国道南側に築堤をあざやかに残しながら、路盤は声問に向かうが、やがて路盤は国道にすりつくように消えていく。

国道に取りこまれていく路盤 2012年8月撮影

ここから、しばらく路盤は国道に生まれ変わり、声問へ至る。

4.声問~南稚内

1/5万地形図「稚内」 昭和53年修正に加筆

声問駅跡は元の駅前通りにわずかな面影があるくらいになっている。

元の声問駅前通り 国道からも入れる 2012年8月撮影

ちょうど国道の声問橋のところにあった、声問川の橋も痕跡はない。

声問岬を越えたあたりから、路盤は国道南側に現れ、工場敷地などになっているところもあるが、はまなす地区からは、はまなす通という道路になっている。

はまなす通起点 宇遠内方を望む 2012年8月撮影

ほどなく道路の山側には、いかにも路盤といった風情のヤブが現れる。

天北線営業時と今の空中写真を比べると、道路が少し北にずれている稚内東中学校附近までは既存の道路を拡幅、路盤はこのヤブではないかと思われる。

道路並行区間 左の築堤が路盤か? 2012年8月撮影

もともと道路のなかった中学校手前から西側は、道路と路盤は一致している。

はまなす通は、かつて天北線をオーバークロスしていた、国道40号から天北通と名前を変えている。

この南稚内方には、仮乗降場からの昇格組、宇遠内うえんないがあったが、跡形もない。

宇遠内から声問方を望む 2012年8月撮影

天北通宗谷本線と出会う手前で、T字路となって終わる。

そこからわずかな間、路盤が残っているが、宗谷本線と並行する直前で市立図書館の敷地に取りこまれている。

図書館敷地の直前にわずかに残る路盤の面影 2012年8月撮影
同地点から南稚内方を望む 2012年8月撮影

南稚内に入る手前の踏切路面には、レールを撤去した跡がはっきり残っていた。

南稚内東方の踏切に残るレールの跡 左は宗谷本線 2012年8月撮影

5.南稚内

南稚内は、宗谷線(後の天北線)稚内として開業。
2年たらず後の1924(大正13)年6月天塩北線(今の宗谷本線稚内兜沼かぶとぬま間が開業、分岐駅となる。

1939(昭和14)年2月には、稚内港稚内と改称されると同時に、南稚内となった。

当時の駅は、現地点より稚内方にあり、移転したのは1952(昭和27)年11月。

駅舎は正面の改築が著しく、古いのか新しいのかわからないような外観になっている。

南稚内駅舎 2012年8月撮影

待合室には宗谷本線天北線興浜北線の駅舎の写真が展示してあり、硬券入場券も売っている。

南稚内の待合室に展示されていた駅舎の写真 2012年8月撮影

駅舎に附属したかつての天北線ホームは、JRの規定変更により、今では2番ホームとなり、宗谷本線のホームとして使われている。

天北線のホームだった2番ホーム 2012年8月撮影

ホーム側の改札口横には天然木を使った駅名板もあり、天北線の終点だったことを伝えているかのようだった。

6.おわりに

天北線探索は自宅から遠いうえ、上音威子府~小頓別間小石~曲淵間沼川~樺岡間と、難所が複数あり、ほんとうに大変でありました。

栄川に架かる小頓別川橋梁群(天北線第2回)探索のとき、河岸を迂回したとき、川に落ちることさえなかったものの、かなり難行だったので、無謀にも、第4小頓別川橋梁を渡ることにしました。
もちろん、ガーダー上を歩いて行くなど、とても無理です。
途中でうっかり下を見てしまい(といっても、下の写真のように、高さも水深はそれほどない)、一時は進退きわまり、わずか6mほどなのに10分近くかかりました(いったい、どうやって・・・。あまりにはずかしいので・・・)。

上音威子府~小頓別間の第4小頓別川橋梁 2020年5月撮影
写真でみると、自分でも、たいしたことない、渡れるかもとは思いますが・・・

おまけに、小石~曲淵間の宇流谷川(梅谷川橋梁群)では、ダニにも喰われたし。ん十年廃線跡に行っていても、初体験でした。

さて、ようやく終わりました。天北線全10回を、最後までおつきあいくださった方々、たいへんお疲れさまでした。

また、今回も、おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。

なお、天北線終了にあたり、第1回目からの記事を見直し、写真を追加したり、文章と写真を入れかえたりして、ちょっと変更してあります(誤記も発見!)。

これも、note初心者のゆえと、大目にみてくださればと思います。

次は興浜北線です。天北線よりずっと軽めです。

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