北海道の廃線跡探訪 第10回 天北線最終回(10/10) 樺岡~南稚内間
1.はじめに
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪 天北線の最終回(第10回)です。
今回は樺岡から南稚内へ向かいます。
樺岡までと一転して、路盤は道道や国道に沿っているので、探索ははるかに容易です。
そのかわり、感激するような遺構にとぼしいのは、しかたありませんが。
なお、これからの投稿予定路線などは、下記記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.樺岡
樺岡は天北線が、再び道道に沿ったところにあった。
かつては道路反対側のバス停脇に駅名標が立っていた。
元の構内は民家の敷地となり痕跡はないが、駅名標は民家の裏側へ移され、たいへんきれいになっている。
字体は少し違っているし、次駅も左が恵北、右が沼川だったのが、向きが反対になったため、逆になっているから、新たに作り直したようでもある。
路盤は樺岡南方の川から駅北方の道道踏切跡まで作業用道路となっていた。
3.樺岡~恵北
路盤は樺岡の先で道道とクロスして東側に移るが、その手前に小さなコンクリートの橋があった。
2019(令和元)年5月には送電線建設の工事用道路となり、大きく改変されているところもあった。
恵北までの道道と並行している区間では、樺岡近くと同じような、コンクリートの小さな橋が残っているのが、道道からも観察できる。
樺岡と恵北のちょうど中間あたりには、天北線建設工事で苛酷な労働に従事させられた、「タコ部屋」(飯場)跡地があり、標柱と解説板が設置されている。
その前後はクルマも走れる未舗装道となっていた。
恵北近くの、作業道となったところでは、擁壁に銘板のついた、雪崩防止柵も残っている。
路盤は恵北の手間で道道と交叉、再び西側へ移り、駅へ入っていく。
踏切でクランク状になっていた道路は、ゆるく改変されている。
恵北は1963(昭和38)年10月、開業時の幕別から恵北と改称されている。
これは根室本線止若が、翌11月に自治体名(幕別町)に合わせて改称するためだった。
道路から少し入ったところにある駅跡には、恵北開基百年記念碑が建てられ、碑の裏側には天北線恵北駅跡地に建てられたとある。
元駅前には天北線の歴史を見続けてきたであろうイタヤの大木も残されている。
4.恵北~声問
恵北から先は、しばらく通水管敷設のため掘り返され、路盤に砂利が固く敷き詰められているため、歩くこともできた。
さきほど恵北手前の踏切跡で、砂利が新しく敷かれているように見えたのは、この工事の跡だったのかと納得。
ただし、時間が経つと草木が繁茂してしまうのは、踏切跡での状況から想像できる。
2012年には、稚内空港の誘導灯近くはまだ工事中で、むき出しになった路盤に、バックホー(ユンボ)や通水管が置いてあった。
1987(昭和62)年6月1日、稚内空港ジェット化にともない、忽然と現れ翌日消えた、東声問臨時駅はこのあたりだろうか。
この駅については、連載時に地元の新聞などを調べてみたが、設置についての記事を見つけられなかった。
この先で、宗谷湾に沿った国道238号と並ぶようになる。
国道南側に築堤をあざやかに残しながら、路盤は声問に向かうが、やがて路盤は国道にすりつくように消えていく。
ここから、しばらく路盤は国道に生まれ変わり、声問へ至る。
4.声問~南稚内
声問駅跡は元の駅前通りにわずかな面影があるくらいになっている。
ちょうど国道の声問橋のところにあった、声問川の橋も痕跡はない。
声問岬を越えたあたりから、路盤は国道南側に現れ、工場敷地などになっているところもあるが、はまなす地区からは、はまなす通という道路になっている。
ほどなく道路の山側には、いかにも路盤といった風情のヤブが現れる。
天北線営業時と今の空中写真を比べると、道路が少し北にずれている稚内東中学校附近までは既存の道路を拡幅、路盤はこのヤブではないかと思われる。
もともと道路のなかった中学校手前から西側は、道路と路盤は一致している。
はまなす通は、かつて天北線をオーバークロスしていた、国道40号から天北通と名前を変えている。
この南稚内方には、仮乗降場からの昇格組、宇遠内があったが、跡形もない。
天北通は宗谷本線と出会う手前で、T字路となって終わる。
そこからわずかな間、路盤が残っているが、宗谷本線と並行する直前で市立図書館の敷地に取りこまれている。
南稚内に入る手前の踏切路面には、レールを撤去した跡がはっきり残っていた。
5.南稚内
南稚内は、宗谷線(後の天北線)稚内として開業。
2年たらず後の1924(大正13)年6月天塩北線(今の宗谷本線)稚内~兜沼間が開業、分岐駅となる。
1939(昭和14)年2月には、稚内港が稚内と改称されると同時に、南稚内となった。
当時の駅は、現地点より稚内方にあり、移転したのは1952(昭和27)年11月。
駅舎は正面の改築が著しく、古いのか新しいのかわからないような外観になっている。
待合室には宗谷本線や天北線、興浜北線の駅舎の写真が展示してあり、硬券入場券も売っている。
駅舎に附属したかつての天北線ホームは、JRの規定変更により、今では2番ホームとなり、宗谷本線のホームとして使われている。
ホーム側の改札口横には天然木を使った駅名板もあり、天北線の終点だったことを伝えているかのようだった。
6.おわりに
天北線探索は自宅から遠いうえ、上音威子府~小頓別間、小石~曲淵間、沼川~樺岡間と、難所が複数あり、ほんとうに大変でありました。
栄川に架かる小頓別川橋梁群(天北線第2回)探索のとき、河岸を迂回したとき、川に落ちることさえなかったものの、かなり難行だったので、無謀にも、第4小頓別川橋梁を渡ることにしました。
もちろん、ガーダー上を歩いて行くなど、とても無理です。
途中でうっかり下を見てしまい(といっても、下の写真のように、高さも水深はそれほどない)、一時は進退きわまり、わずか6mほどなのに10分近くかかりました(いったい、どうやって・・・。あまりにはずかしいので・・・)。
おまけに、小石~曲淵間の宇流谷川(梅谷川橋梁群)では、ダニにも喰われたし。ん十年廃線跡に行っていても、初体験でした。
さて、ようやく終わりました。天北線全10回を、最後までおつきあいくださった方々、たいへんお疲れさまでした。
また、今回も、おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
なお、天北線終了にあたり、第1回目からの記事を見直し、写真を追加したり、文章と写真を入れかえたりして、ちょっと変更してあります(誤記も発見!)。
これも、note初心者のゆえと、大目にみてくださればと思います。
次は興浜北線です。天北線よりずっと軽めです。