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北海道の廃線跡探訪 第80回 池北線(北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線)(1/10) 池田~高島間


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます

北海道の廃線跡探訪第80回 池北ちほく線(北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線)その1 池田~高島間です。

池北線は三セク「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」転換後、主要駅の駅舎の多くが改築され、そのほとんどは現存しています。それに反して、上利別かみとしべつ大誉地およちに残っていた国鉄時代の駅舎は、姿を消しています

利別川に架かる橋梁はすべて撤去されていますが、小河川のものは残っているところもあります。トンネルはなく、路盤は多くがヤブとなっています。

これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.池北線小史

池北線は、網走線として1910(明治43)年9月22日池田~淕別りくんべつ(改称/陸別)間、翌年9月25日淕別~野付牛のつけうし(改称/北見)間が開業した。1912(大正元)年10月5日には網走に達し、同年11月18日開業した湧別ゆうべつ軽便線が支線となり、網走本線と改称されている。
1932(昭和7)年石北線が全通すると、網走方面の長距離列車は、次第に石北線に移り、ついに1961年4月1日、新旭川~上川~北見~網走間が石北本線となると同時に、池田~北見間は池北線と改称された。

単なる長大ローカル線となったものの、1962年には帯広~陸別・北見間に準急(のち急行)「池北」も登場、北海道のなかでも豪雪・酷寒地を通る池北線は、沿線地域にとって欠かせない存在だった。
足寄あしょろ・陸別・置戸おけとからは森林鉄道も出ており、林産物の輸送も盛んだった。

しかし、道路整備や沿線町村の過疎化が進み、旅客・貨物ともに池北線の輸送量は減少していく。
特定地方交通線のなかでも長大路線ということで、冬季のバス転換の調査のため保留扱いとなったが、結局第二次特定地方交通線に選定された。

池北線は通学での利用が比較的多かったこともあり、北海道内で唯一、第三セクター化することに決定。1989(平成元)年3月北海道ちほく高原鉄道が設立され、ふるさと銀河線として6月4日開業している。
会社は、北海道と北見市をはじめとする沿線自治体1市6町が80%を出資、本社は北見市に置き、社長は北見市長が兼務するなど、北見が経営拠点となっていた。
車輌はJR北海道キハ130形と同系のCR70形8輌・75形3輌を新製している。

開業翌年にはイベント対応可能なCR75形101が増備されるなど順調な滑り出しをみせ、1991年11月には帯広への乗り入れを開始、CTC化などの近代化も進められた。

しかし、少子化により通学生は減少、自動車への旅客の転移や過疎化も止まらず、輸送量は最盛期の半分までになる。さらに超低金利により、経営安定基金の運用益金による赤字補填も不可能となり、経営困難となっていく。

ついに2005年4月廃止が決定、三セク転換後17年近く持ちこたえたものの、翌2006年4月21日全線が廃止された。

3.池田

1/5万地形図「十勝池田」平成11年修正に加筆

北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線(通称 銀河線)の分岐駅、根室本線池田は、以前と変わらないたたずまいを残しているが、なんとなく駅前は活気が薄れたような気もする。

①根室本線池田駅舎 2017年9月撮影

それでも、古くから池田駅立売をしていた、バナナ饅頭やステーキ弁当で知られる「レストランよねくら」には、旅行者のものらしいクルマが何台も停まっていた。もはや鉄道利用客だけではとても商売にならないだろうが、盛業中なのはなにより。

銀河線は島式ホームの帯広方が切り欠かれた4番線から出ていた。
現在でもホーム自体は残っているが、柵が設けられ線路は撤去されている。

①銀河線ホームだった4番線跡 2017年9月撮

かつて駅の裏手にあった多数の側線や、釧路方にあった機関庫などは姿を消し、一部は宅地化されているが、銀河線時代に建てられた気動車庫はJR北海道帯広保線所が使っている

①元の銀河線気動車庫 2017年9月撮影

4.池田~様舞さままい

池田を出た銀河線は、根室本線と並んで北へ向かう。
最初の踏切から観察すると、バラストもそのままの路盤が続いていた。

②最初の踏切から様舞方を望む 2017年9月撮影

市街地の清見二線川には橋の跡はないが、大きくカーブして根室本線と離れるところもきれいに路盤が残っていた。
踏切跡の路盤には建築現場用の単管で柵がしてあるので見分けやすい。

③並行していた根室本線と離れるところ 様舞方を望む 2017年9月撮影

銀河線はこれから小利別しょうとしべつの先まで、利別川沿いをさかのぼっていく。

南二線踏切手前の小さな川には橋台があり、路盤は高島まで道道237号とほぼ並行するようになるが、次第にヤブが濃くなってくる。

④南二線踏切近くに残る橋台 2017年9月撮影

清見一線川にはコンクリートの橋(銘板には「一線川橋梁」とある)があり、北二線附近の小河川には橋台が残っていた。

⑤一線川橋梁 2017年9月撮影
⑥北二線附近にある橋台 2020年9月撮影

様舞手前の様見川には、小さいながら立派なレンガのアーチ橋が残っており、やはり味気ないコンクリートとは一味も二味もちがい、「網走本線」の風格を感じさせる。

⑦様見川のレンガ造小アーチ橋 2017年9月撮影

1950年設置の仮乗降場で、1959年5月駅に昇格した様舞は、近くの様舞集落案内板にはまだ描かれていた。

⑧駅が描かれている案内板 2017年9月撮影

並行する道道からの取付道路は、道路と路盤との間にある溝?が埋まっているところがらしいが、もはやまわりのヤブと区別がつかないほどになり、駅の痕跡はまったくない

⑨取付道路跡?から見た様舞駅跡 2023年10月撮影

5.様舞~高島 

1/5万地形図「十勝池田」平成11年修正「高島」平成7年要部修正(鉄道)に加筆

様舞からも路盤はヤブに覆われ、鴨居川には赤いガーダーの鉄橋が残っている。鉄橋はレールを外しただけで中央の網板通路や犬釘、枕木両側の補強?もそのままだった。

⑩鴨居川に残るガーダー橋 2020年9月撮影

この先で銀河線廃止後にできた道東自動車道をくぐるが、その橋脚はごていねいに路盤も跨いでいる。単に橋脚の間隔の都合なのかもしれないが。

近牛川に架かる大沢川橋梁は一線川橋梁と同じようなコンクリート橋で、並行する道道からも見える。
小さな橋台のある沼見川を過ぎると高島となる。

⑪大沢川橋梁 2020年9月撮影
⑫沼見川に残る橋台 2017年9月撮影

元の駅前通りを入ると、大きなヤマモミジを中心とした、円形ロータリーのようなモニュメントがある。

正面側に国鉄時代の駅名標、駅舎側には銀河線時代の駅名標と線路が設置され、銀河線の駅名標の裏には高島駅の歴史が記されている。

⑬高島駅の駅前広場にあるモニュメント 2023年10月撮影
⑬同 銀河線駅名標 2023年10月撮影
⑬同 裏側 2017年9月撮影

しかし、元の駅構内には面影はなく、大森おおもり方は広々とした空き地となり、様舞方も整地されていた。

⑬高島駅跡から大森方を望む 2017年9月撮影

今回はここまでです。

おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。

次回は高島から本別ほんべつ向かいます。

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