北海道の廃線跡探訪 第95回 白糠線(5/5)下北進~北進間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪 第95回 白糠線その5 下北進~北進間です。
この区間にも茶路川を渡る橋がたくさん残っています。再利用されている第22・23茶路川橋梁を渡ると、ようやく北進に着きます。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.下北進~北進
下北進の先のサカエ川にも少し大きなコンクリート橋があるが、再利用されておらず、前後の路盤もヤブになっている。
再び国道を跨ぐが、この道道白糠本別線跨線橋(国道格上げ前の名称)も上茶路跨線橋と同時期に撤去されている。
架道橋を過ぎるとすぐ第20茶路川橋梁があり、隣接する道の橋からもよく見える。ここも下北進方の橋台部分の築堤が崩落していた。
第21茶路川橋梁は、国道から作業道を入ると、近づくことができる。
この作業道は白糠線の築堤につながり、第22・23茶路川橋梁を経て北進まで続き、第22橋梁上には鉄製のキロポストも残っていた。
ここまで同じようなコンクリート橋が連続し、そろそろ飽きてきた(なにもないことを考えると贅沢だが)が、ようやくあと1か所となった。
第23茶路川橋梁も通行できるので、白糠線跡探訪の最後を飾るにふさわしい。
川原から見上げると、建設以来半世紀が経つのに、まだ新しさも残っているように見えた。
下北進・北進とも旅客専用駅だったから、上茶路~北進間には貨物列車はなく、これらの橋には竣工以来、重量のある機関車は、建設工事や除雪以外では通らなかったはずだから、痛みも少ないのかもしれない。
しかも11年しか本来の鉄道橋としての役割を果たさなかったのだから、つい白糠線に投入された資金の大きさを思い、なんともいえない気持ちになる。
3.北進
北進は上茶路基線の集落から一段下がった茶路川の近くにあった。
路盤転用の作業道は構内入口で少し曲がり、元の駅構内は樹林のなかにぽっかりと開いた空間となっている。
草むらのなかには、ホームの支柱の基礎だったのか、四角いコンクリートの土台が顔をのぞかせていた。
構内の終端部分は浅い堀割となって続いているが、茶路川の手前で終わっている。
一面低いササに覆われたなかに、ところどころ清算事業団の白いポールが立っているのが印象的だった。
駅と集落を結ぶ道もつづれ折りの坂道で、道幅いっぱいの大きな水たまりがあるなど路面は荒れ放題、ほとんど林道と変わらず、とても終点駅への道だったとは思えない。
北進小中学校跡地の前に北進簡易郵便局があるのが、駅を思わせる唯一の名残ともいえる。本来は2001(平成13)年3月閉校した学校の名残なのだろうが。
北進という駅名は、「北へ進む」という願いをこめて名づけたといわれているが、北進小中学校は1953(昭和28)年に改名しているから、校名のほうが先輩格となる。
ちょうど校名が国鉄の意図と合って採用されたのかもしれない。
白糠線は盲腸線ではなく短絡線として計画されたのに、両端の白糠と足寄、あるいは釧路と十勝の名をとった線名にしなかった。線名からは足寄まで到達する強い意志が感じられず、結局白糠町内だけで終わってしまう運命を暗示しているようでもある。
両端の駅名をとった美幸線が、開業こそできなかったものの、仁宇布~北見枝幸間も橋梁やトンネルを含む路盤が竣工したのと対照的に思える。
それでも、約4年間とはいえ雄別炭鉱上茶路礦からの石炭輸送に活躍した白糠線は、両端の国名(根室国と北見国)をとったのに、開業区間はほとんど利用価値のないまま廃止された根北線よりはまだましだったといえる。
もちろん橋梁の連続する白糠線と橋らしい橋のない根北線では、建設費には大きな差があるけれど。
上茶路までの開業時は4往復あった列車も、1972年3月改正で3往復となり、北進までの延長後は3往復で終始した。
末期の下り最終列車は18時ちょうどだった(4往復時代は18時30分だったのに、3往復になった時には17時25分となる)。
根室本線の列車に乗ったとき、夏などまだ明るいのに、「白糠線は明朝の接続となります」(「明朝の接続」という言いかたは北海道独特らしい)という案内放送に驚いたことが忘れられない(始発は6時33分発=釧路からの直通だから、列車が来るのは12時間半後)。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は万字線志文~万字炭山間です。