北海道 鉄道残照~失われた鉄道の遺産あれこれ
その27 羽幌炭礦鉄道のはなし(4)
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
ことしからnoteをはじめ、「北海道の廃線跡探訪」なる、国鉄地方交通線の廃線跡を主にした記事を投稿しています。
ここでは車輌や遺構のことなど、つれづれなるまま、書いていこうと思います。個人的主観で、なるべく有名でなさそうなものを・・・
羽幌炭礦鉄道は突然経営破綻、再建をめざしますが、結局は閉山することになってしまいます。
2.再建計画の挫折
9月の会社更生法の適用申請後、地元羽幌町などの支援を受けながら再建に取り組んだ羽幌炭礦鉄道でしたが、早くも10月には計画どおりにならなくなってきました。
会社の先行きに対する従業員の不安がひろがったため、坑員の出稼率が大幅に下がってしまいます。羽幌本坑では50%、上羽幌坑では20~30%にまで落ちています。
このため、新設備の完成で日産2,500㌧もいけると見こんだ出炭は、最低ラインだった1,200~1,300㌧ほどになりました。
さらに、好景気で人手不足の時期であり、離職しても再就職には困らないという事情も重なり、離職者が増えてきます。
好条件のところだけ別会社を設立し、なんとか採掘を続けようと模索しますが、それも難しくなりました。
こうして、羽幌炭礦鉄道は企業ぐるみ閉山の道へむかうことになります。
4.閉山決定
10月25日には、羽幌炭礦鉄道の職員組合・労働組合が大会を開き、特別閉山交付金制度による救済を求める基本方針を決めました。
下記の記事にもあるように、ふつうは閉山に反対する組合側から、会社側へ閉山を提案するという異例の事態でした。
3.羽幌炭礦鉄道の閉山
従業員から見放されたかたちになった羽幌炭礦鉄道羽幌坑・上羽幌坑は、10月31日が最後の操業日となります。
11月1日が日曜日だったためか、閉山式もなく、あっけなく終焉を迎えてしまいました。
記者に感想を話した坑内員は、「ヤマで二十九年間働いてきた」とありますから、羽幌炭礦鉄道の開坑以来、生え抜きの人だったのかもしれません。
閉山で大きな影響を受ける羽幌町とも連携し、第二会社設立の動きもありましたが、結局それもならず、羽幌炭礦鉄道は30年で終焉をむかえてしまいました。
最新鋭のDD1301号機投入から1年あまり後のことでした。
4.鉄道線の廃止
炭鉱町は住宅、水道や電気といった基本的なインフラは、すべて自前(会社もち)でした。そのため閉山すると、遠からず転居せざるをえないという厳しい現実が待っています。
しかも、閉山したのは、これから年末、厳冬期を迎えるという最悪の時期だったので、なおさらたいへんだったでしょう。
いま記事を読んでみても、同情を禁じえません。
1941年12月14日の開業日にあわせたのでしょうか、羽幌炭礦鉄道の最終運行日は1970年12月14日となります(1970年12月15日廃止)。鉄道は30年に満たない生涯でした。
突然の閉山、鉄道廃止だったのにもかかわらず、記念乗車券が発売されています。
この記念券は、築別炭礦近くにあった元の太陽小学校を利用した、羽幌町「緑の村」の炭鉱資料の展示室に、束になって置いてあるのを見たことがあります。
不相応に大量に発行しすぎたのか、はたまた会社がなくなってしまったので売りようがなくなったのか・・・。
欲しかったのですが、まさか、こんなにあるのだから1枚くださいともいえないし。
写真のものは、後年まったく別に入手したものです。
今回はこのへんで。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
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