北海道の廃線跡探訪 第58回 胆振線(6/6)京極~脇方・倶知安間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪第58回 胆振線伊達紋別~倶知安間その6 京極~脇方・倶知安間です。
京極からは畑や水田の平坦地を倶知安に向けて進んでいきます。
北岡には待合室が残り、旧胆振線では唯一の駅舎です。
六郷は旧胆振線唯一の鉄道記念公園となり、保存車輌もあります。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.京極~脇方
京極から脇方への脇方支線は、1919(大正8)年北海道製鉄が倶知安鉱山の専用鉄道として着工した。北海道製鉄を引き継いだ日本製鋼所が、竣工と同時に鉄道院(国鉄)に寄附、1920年7月に開業した路線で、途中駅はない。
脇方支線は国道276号をアンダークロスした先で、東京極へ向かう胆振線と離れ北東へ向かっていた。
そのあたりは生涯学習センター「湧学館」の裏手となり、その先も道路化あるいは宅地化されている(国土地理院の空中写真を見ると、旧路盤は新設道路の南側のようにも思える)。
住宅地を過ぎると舗装道路となり、椵沢川橋梁が道路橋として再利用され、ガーダーの両側に新たにコンクリートの桁をつくり拡幅されている。
道路は1㎞ほどで終わり、路盤は農地となって消えているが、用水路(野沢の川?)にコンクリート橋が残っていた。
最初の踏切跡近くでは第1脇方川橋梁でワッカタサップ川を渡り、ここには京極方の橋台と橋脚が残っているが、脇方方は道路橋建設のため失われている。
ここから次の踏切までは丘際に築堤が見え、路盤にはいまだにバラストも残っていた。
次の踏切の先でまたワッカタサップ川(第2脇方川橋梁)を渡り、ここにも高い橋台と橋脚が残っているが、道路からはヤブこぎをして行くしかない。
築堤は次第に高さを増し、橋台が残る白井川橋梁を渡り、脇方へ着く。
脇方はかつて産業廃棄物処理場となっていた。その当時は、いかにも荒涼とした雰囲気だったが、今ではきれいに整備されている。
脇方には戦時中の最盛期には6,000人近くもいたとは信じられないような変わりようで、積込施設の一部や元の駅前附近にある鉱山記念碑くらいがかすかな名残だろうか。
ただ、そこかしこに赤茶けた岩石が転がっているのが、鉄鉱山だった昔を偲ばせる。
3.京極~六郷
京極を出ると、路盤は農道となっているが、最初の踏切跡からヤブとなり、ペーペナイ(平々内)川へ続いている。
平々内川橋梁の痕跡はなく、すぐ先の軽川トンネルは、農家の横の小道を少し入ったところにあり、入口は塞がれている。
トンネルから逆にたどると、路盤はこの小道ではなく、その横のヤブや白樺林になっているところだった。
軽川トンネルを出た路盤は、やがて寒別発電所の横に出てきていたはずだが、どうもはっきりしない。
畑地横の道を京極方へ行くと、左下方に路盤らしきヤブとなった堀割があり、トンネルまで続いている。
しかし、そこを歩かなくてもトンネル西口のすぐ上に農道があり、そこから斜面を下りると出会える。
以前、堀割のなかを苦労して歩いたのはなんだったのか。やはり予習は大事。
北岡は1960(昭和35)年10月、参郷と同時に設置されている。
今でも畑のなかに待合室だった小屋がポツンと建っており、手前の道路には踏切跡がはっきり残っていた。
ここから寒別までも路盤は農地化されているところが多く、畑の区画でかろうじてわかる程度となる。
ヌップリ寒別川は胆振線廃線後に流路が変えられ、ヤブとなった旧河道の両側に、寒別川橋梁の小さな橋台が埋もれかけている。
寒別の旧構内には、駐在所や消防分署が建っており、その裏側にホームがかろうじて姿をとどめている。
寒別を出ると、用水路にIビーム橋があるが、路盤はほとんど畑になり、砂利川も護岸が改修され、橋の跡はない。
北岡と同様、仮乗降場並だった参郷にも痕跡はないが、踏切跡がはっきり残っているので路盤の位置がわかる。
その先の国道のオーバークロスは埋められ、手前には大規模な農業施設が建っている。
国道の先から路盤はだいたい残り、そのまま六郷へ続いている。
4.六郷
六郷は、倶知安方には真新しい集合住宅が建ち、参郷方は六郷鉄道記念公園となっている。
駅に突き当たって行き止まりだった道路も貫通し、駅自体の痕跡はない。
六郷鉄道記念公園には旧胆振線沿線で唯一の保存車輌がある。
オハ46 501とヨ7913が新たに造られたホームに並べられ、近年再整備・修復されている。
せっかくここまできれいにしたのなら、番号のレタリングにも気をつかって欲しかったというのは贅沢だろうか。まさしく、画竜点睛を欠く感が否めないのだが。
オハフはデッキのみ入れるが車内は立入禁止。窓からのぞいて見ると、雨漏りがしたらしく、天井の部材が剥がれて垂れ下がっていた。
屋根は雨樋を含めて鉄板で覆われており、多少不細工だが保存のためにはやむを得まい。
ほかにも9600形の動輪や駅名標・信号・踏切警報機も保存され、胆振線敷設に尽力した中村與三松の功績碑もある。
5.六郷~倶知安
六郷を出ると、路盤は砂利道となっているところもあるが、やがてヤブとなり、国道5号に至る。
国道の跨線橋は平面化、倶知安方には路盤が少し残り、古枕木の線路柵もある。その先は近年宅地化され、北陽小学校裏手にわずかに面影を残すだけになっている。
函館本線と並行するあたりは、北海道新幹線延伸工事が始まり、胆振線の痕跡どころではない。
倶知安は、胆振線のあった当時とは、キヨスクが2015年(平成27)年閉店したくらいでさほど変化はなかった。
しかし、2021(令和3)年10月には北海道新幹線のホームを建設するため仮設ホームが設置され、胆振線が使っていた1番ホームは、半ば埋められたようになっている。
駅のすぐ横には道南バスの営業所と小さなターミナルもある。
かつては伊達紋別まで直通していた代替バスも、2022年10月、倶知安~喜茂別間、伊達紋別~新大滝間に分割され、喜茂別~新大滝間は廃止されている。
倶知安町役場近くの倶知安町公民館には、落石や雪崩の多い胆振線を走るため、前照灯を両側のデフレクター支持腕につけた、二つ目96(ふたつめきゅーろく)79615号機が保存されている。
近年、荒廃が進み、行く末が心配される。六郷鉄道記念公園の保存車輌のように、再整備されればいいのだが。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は相生線です。
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