北海道 鉄道残照~失われた鉄道の遺産あれこれ
その16 胆振地方の話題7:王子製紙苫小牧工場専用鉄道(王子山線)の保存車輌
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
ことしからnoteをはじめ、「北海道の廃線跡探訪」なる、国鉄地方交通線の廃線跡を主にした記事を投稿しています。
ここでは車輌や遺構のことなど、つれづれなるまま、書いていこうと思います。個人的主観で、なるべく有名でなさそうなものを・・・
今回は王子製紙苫小牧工場専用鉄道(王子山線)の保存車輌です。
2.王子製紙苫小牧工場専用鉄道(王子山線)
王子製紙苫小牧工場専用鉄道は、1908年(明治41)年開通しています。
王子製紙が苫小牧に進出するにあたり、その電力を供給するため千歳川に発電所を建設、その資材運搬をはじめ、紙の原料となる原木輸送がおもな仕事でした。
当初の駅名が、六哩(苫小牧駅からの距離を示す)、分岐点、湖畔(支笏湖畔のこと)、水溜、(みずため?)、第四発電所など、ふつうの鉄道では考えられないような、安直な名前だったのも特徴です。
当時から景勝地として有名だった支笏湖に通じていたため、工場を訪れる貴賓客の接待にも使われています。
1922(大正11)年からは一般人も便乗(有料)できるようになりました。
王子製紙の社内通達文書によると、廃止(運行停止)は1951(昭和26)年5月10日限りで、翌11日から会社従業員専用バスに代替されています。
3.4号機
王子山線の廃止時、早くから蒸気機関車と貴賓車各1輛を保存することになりました。最後まで残っていた蒸気機関車は、1907年アメリカ・ポーター社製1・2号、1936・42年橋本鉄工所製4・5~6号、1948年市川重工業製7・8号、7輛でした。
王子山線最初の蒸気機関車である、ポーター社製1・2号機もあったのに、なぜコピー機の4号(3代目)が選ばれたのか。単に残存機中、国産機として最も古かったからでしょうか。
コピー機とはいえ、中小メーカーだった橋本鉄工所製の車輌としては、現存唯一ですから、結果的にはよかったといえるかもしれません。
1956年5月、4号機は王子製紙発祥の地、東京の製紙博物館(現・紙の博物館)へ送られます。設置場所の都合でテンダーはなく、機関車本体だけとなりました。
紙の博物館は東北本線沿いだったので、京浜東北線の車中などからもよく見えました。
4.貴賓車
貴賓車は1922(大正11)年、摂政宮(のちの昭和天皇)行啓の際、王子製紙苫小牧工場鉄工部で製造されています。鉄道車輌メーカー製の客車にも負けない立派な出来で、工場開設以来15年しか経っていないのに、たいしたものです。
外観はアメリカ様式で、デッキの手すり、車体コーナーの処理、幕板(窓上部)、台車の一部の部品が木製など、北海道炭礦鉄道の客車と同じです。
車内は3/7と4/7に仕切られ、現状では二三等車ほどの区別はなく、ロングシートの奥行も同じです。広いほう(貴賓室?)の絨毯が豪華で、シートにカバーがあることくらいです。もっとも、製造当時のオリジナルなのかはわかりませんが。
王子山線廃止後の鉄道趣味誌の記事によると、貴賓車は支笏湖畔にあった王子クラブで保存されていましたが、1963年7月、紙の博物館へ移っています。
各地に残る国鉄の旧型客車でさえ、屋根の傷みが進み、多くが鉄板で覆われるなどしているのにたいし、この貴賓車はカンバス張りが維持されています。紙の博物館での手入れがよかったのでしょう。
5.王子山線車輌の苫小牧帰還
紙の博物館で揃って保存されていた4号機と貴賓車は、1996(平成8)年9月苫小牧市アカシア公園に移設されました。
40年にわたり露天に置かれていたにもかかわらず、状態は悪くなく、立派な上屋も設置されました。
当初は紙の博物館当時のままでしたが、後にテンダーが復元されています。
このテンダーは王子製紙苫小牧工場で製作されたもので、戦前、自社の客貨車を製造する能力があった鉄工部の伝統が感じられます。
4号機と貴賓車の帰還にともない、苫小牧駅前商店街の人たちの手で、「山線まつり」が開かれました。当日は、「山線まんじゅう」(ふつうの「温泉まんじゅう」だった)なども販売され、「山線Tシャツ」までありました。
近年は、開催されなくなってしまったのは残念です。
苫小牧市アカシア公園は、苫小牧駅から徒歩10分くらいです。新千歳空港からも近いので、機会があったら、ぜひどうぞ。
今回はこのへんで。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
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次回は北海道にいた本州形気動車です。