寿命削減システムと安楽死システム

 我が国は安楽死システムを保有してはいないが、それは単に致死的な薬物や麻薬が市場開放されていないということにつきる。安楽死システムは、これらの道具が合法化され、またその組織的運用が自由化されれば、決して医療法人に専管されなければならないシステムではないし、国の介入が必要となるものでもない。そして、この安楽死自由化は必ずしも当人にとって危険なシステムではない。なぜなら、当人が死を望めばそれを提供するのは、自然法として合法的だからである。そこには根本的な社会契約がある。
 つまり、安楽死システムの拒絶は現在の政治権力から最も強くなされているにすぎない。したがって、その拒絶の示達は政治的な目的をもってなされていることになる。その目的は決して理念的なものではない。末期の人間に対する安楽死の拒絶でさえも、たとえば命の尊厳などの理念によってそうされているとは考えがたい。政治的権力は個別の死には関与しないのが常だからである。
 仮にそのような名目があったとしても、それは個人としての命の尊厳ではなく、社会的生命としての尊厳である。つまり、労働力というファクターを破壊しないために、疑似理念がセーフティーネットとして敷かれていなければならないのである。安楽死システムの拒絶の政治的な目的は、労働力の損失である。労働力として使役されるくらいなら死を選ぶという尊厳を、政治は絶対に許容しない。
 労働生命、それを政治的権力は命の尊厳と呼ぶ。それ以外の生命は、社会的な生命ではなく、自然生命にすぎない。この政見の最も明白な証拠として、我が国の政治的権力がすでに寿命削減システムを設置しているという事実を見漏らしてはいけない。それは過酷な徴税システムでもあるかもしれないが、それよりも直接的に生命にかかわるシステムが存在する。
 それは、医療放射線システムである。ほとんど儀式としての役目しか果たしていない一斉胸部レントゲンや胃透視オプション、また病人予備軍への即決CTスキャンなどは、それ自体が国民の自然生命を削り取るシステムであることを意味している。人工放射線蓄積が、労働生命としての役割を果たさないか、すでに終えているような社会的な存在を抹消するために、実に帳尻よく、短長期的に被曝システムが設計されているのである。
 胸部レントゲンや胃透視などの会社健診被曝は、ちょうど年金受給時にガン死させるよう晩期障害を設置され、病院にばかり通う不健康者は、CTスキャンでいち早く早期ガン死させるほうが割りに合うように政治的権力が想定しているー。これを空想と言えないほどに、我が国における医療放射線包囲網は万全かつ巧妙に社会に織り込まれている。そして放射線の絶対的な寿命削減効果を踏まえれば、これは殺人を前提にした社会システムとしての側面を避けられないのである。
 このようなシステムを代替する福祉システムを封殺する、という傾向に隙はない。医療放射線のない福祉システムの発案と実現は、我が国では禁忌である。つまり、全体的な寿命削減効果は政治的かつ合法的に容認されているのであり、病院や健診施設はその尖兵として、無規制の急性放射線を乱発する。
 このような社会において真正な命の尊厳という理念は成立しない。労働力や被験体の生命の尊厳がそこでは説かれているにすぎず、安楽死という処方すら、労働力でも被験体でもない存在には不要とされる。なぜなら、未来の使い勝手のよい社会的な生命が安楽死を希望することは、政治的権力にとっては防がなければならない事案だからだ。
 安楽死システムへの拒絶は、寿命削減システムと一体化している。それはこの国が、人間の命を物としてしか見ていない証拠である。そして政治的権力が統率する各業界は、ことごとくこの尖兵であり、医療放射線包囲網はその中でも最も恐るべきシステムである。本当は人の寿命を削減している物質が、人の命を救っていると思わせる洗脳は、最も冷血な思想計画と言っていい。
 命の尊厳という美辞は、常に政治的なものであり、血塗られているものだ。その理念のために、どれだけのサラリーマンが極秘裏に殺されてきたか。老齢となった彼らの胃ガンや肺ガンに、命の尊厳を守る勢力が手を貸してきたか。そしてこの状況は継続されるどころか、さらに高度化・複雑化する形で、今後国民の寿命短縮にますます寄与するだろう。
 
 命の尊厳を守ることができるのは、人間でも国家でもない。神と自然だけだ。

いいなと思ったら応援しよう!