人生の破壊者、近代国家
上から下へ、この支配構造において、近代化国家は十全だ。確かバークが言っていたが、フランス国民議会の権力は、ルイ14世の権力を超越していた。同様にボリシェヴィキはツァーリズムを、ヒトラーはカイザーを、日本の官僚は士族たちを。近代国家とは、権力の絶対化であり、すべての社会システムをそこに糾合する。政治、医療、軍事、経済、学校など。徴税、健康診断、633学制、選挙・被選挙権。妥協なき強制力。
そこに生まれた者は、本当の人生を生きられない。たとえば戦争に駆り出されることと、学校に行かされることは同じである。もし家族が迎合するならば、子供たちは権力の犠牲者となる。発達障害に配慮する教育、すでにこの標語が、権力が子供たちを支配しようとする合図である。真理の探求とは何の関係もないペーパーテストのための義務教育で、子供たちは青春を奪われる。真面目で勤勉な学生たちが、どんな風に社会に裏切られるか、我々氷河期世代は痛いほど知っている。
近代国家とは、いわば究極の戦争状態である。しかし、レーニン的な構造がそのまま当てはまるわけではなく、もっと根元的な闘争情態である。つまり、それは自殺としての型式を持っている。当然だ。人生を生きられない生命が、なぜ国家のためになにかを捧げるだろうか。最後には、民衆は国家を「諦める」だろう。もし、封建君主制ならば、英明な君主が民衆に謝罪すれば、エートスは融和する。かたや、近代国家は強取システムを変更する機能を持たない。だから、民衆は自殺するしかなく、それは最後には近代国家の死となる。
行きたくない学校に行かされて自殺する子供、法定超過の労働や低賃金でで心身を壊す労働者、巧みな徴税で餓死を強いられる孤独な失職者、肺結節ベルトコンベアーでガン死に追いやられる患者、誤認逮捕や冤罪で不名誉を追わされる人。近代国家システムの殺人と搾取は、常に責任分散の仕組みでもって、民衆を自殺に追い込んでいく。
支配者たちはこう言うだろう。古き時代には、自由はなかった。しかし、もう近代国家は古きシステムと化しつつあることを、支配者たちは知らねばならない。なぜならば、もう彼らが支配しようとする民衆はいなくなるのだから。偽りの人生は、真の国家を形成できない。