旧文化とデモクラシー

 デモクラシーの時代においては人間は全てに通った形を持つのだろうか? つまり、自由な経済活動が許された社会の中で、全ての人間はある程度理性的で、軟弱で、孤独で、自己中心的で、といった人間性のみに全ての国民的性格が形成されていくようになるのであろうか?

 ところが実は、これとは逆の現象を我々は往々にして目撃する。つまりデモクラシー的人間の性格が強くなればなるほど、それとは対極にある文化的な性格の力もまた強くなるという現象をである。たとえば自由な経済活動そのものを見ても、そこに現れる文化的性格が、その活動の効果を全くちがうものにするのである。経済組織をとってみても、そこにはある国民の、民族の文化的性格が強く現れる。そしてその個性こそが、経済組織の特長や財の特長を生ぜしめる可能性を持つのである。もし全ての経済組織が、同質的に多文化的・多民族的であるならば、恐らく画期的な新結合は生じないだろう。経済主義者は往々にして、このような人間的性質を見失い、生産性の問題を外面的要素のみに絡めて議論を進めるが、経済の基盤はある種の共同体と結合する時に最も強固なものになりうるのである。

 同じようにデモクラシーもまた、文化的固有性と結合する時に初めてその明確な効果を呈する。文化的固有性を抹殺した社会においては恐らくデモクラシーは機能しない。なぜならその時、デモクラシーの基盤たる国家原理が秩序を失うからである。



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