見出し画像

工員からの脱獄②

-先輩その2-


「オネーチャンのいる飲み屋」は小さな店舗であった。
中は薄暗く、中年から老年の男性客が多い。
まだ18才であった私は当然ながらこんな店に来るのは初めてであった。


誘った本人である初芝はカウンターに座り、お気に入りの「オネーチャン」がついていて上機嫌であった。


「お前何飲む?ビールでいい?」と未成年に躊躇なくビールを薦めてくる先輩は「山村」という男だった。
私はこの男によく批判されていたことを今でも覚えている。
性格もあるが、私は比較的ドライな表現で会話をし、18才であった当時もそれは同じであった。
山村はそういった表現を極端に嫌う上に、教養のある人間を良く思わないタイプであった。
加えて「ゲームの攻略本買いたいんだけど本屋に入るのが恥ずかしくてさあ・・」というよくわからない感性の持ち主であった。
「大卒のあいつらは冷房効いた部屋で楽な仕事してやがって」とよくボヤいていた。
災難な事に、私は家庭の事情で高卒となっているが学校の座学の成績自体は優秀で、かつて学年でトップをとったこともあった。
それでも18才の私の教養など知れたものであるが、色々気に入らないことが多かったのか。
「おまえのしゃべり方、なんとかならんの?理屈っぽくてムカつくわ」
山村に何度も同じ内容で批判された。
このことがきっかけで私の生き方が大きく変わることとなった。


「あえて馬鹿を演じなければ、この会社で生きるのは難しい」


それ以降、私は「総理大臣の名前がわからない人」となる。


-寮生活-


美味くもない酒を飲んだ後、フラフラになりながら当時住んでいた社員寮であるT寮に帰った。
この寮は風呂トイレ共同、ガスコンロ等の調理設備禁止という仕様であり、電気水道代は会社負担で月々2万円もない寮費が給料から天引きされる。
環境はともかく、お金を貯めたい人からすれば悪くない条件であった。


住人は正社員だけではない。いわゆる「期間工」も同じT寮に多数居住していた。期間工とは、有期雇用で期間が満了すれば退社する従業員のことである。なお、大卒の総合職は完全に別の寮となる。


私は酔っぱらって入浴ができなかったので翌朝シャワーを浴びた。
実際の体の汚れ以上に精神的に何か汚れた気になっていたので、熱いシャワーで体を洗い流す行為は、そういう意味でも癒しであった。


脱衣所に帰ってきた。
私の衣類と鍵が・・・・無い。
誰が欲しがるのか、一部を除いた部屋着と鍵が盗難にあっていた。
鍵は部屋鍵のほか車の鍵もあったので大変なダメージであった。
幸い財布などは持ってきていなかった。
しかたなく、一時的に別棟のA技術校時代の同級生の部屋のドアを叩いて、その部屋でやり過ごすこととなった。


この寮の盗難はこれだけではなかった。
ほかにも現金や郵便物、限定シューズなどいろいろなものが盗難にあった。


こんな治安の悪い空間で過ごしたことがなかった私は大きなショックを受け、数か月後にT寮を出て隣のO市にある家賃6万円ほどのアパートに移住することとなる。


-奉仕活動-


職場では、給料の出ない「交通安全活動」というものがある。


貴重な昼休みに交通安全についての話し合いに参加させられたり、どこかの誰かの事故体験の読み上げをさせられる。
疲れている中、始業1時間前に集まって工場前の交差点で交通安全のプラカードを持たされて立たされることもあった。
繰り返すが無給である。


恒例行事として会社主催の運動会や、祭りのような大きなイベントへの参加、地域のごみ拾いなどもあった。
これももちろん無給である。


ではなぜ参加者がいるか?


賢い読者は既に察しがついていると思うが、簡単に言えば「同調圧力」と「査定」である。
「あくまで任意の参加」と謳い、しっかり参加のプレッシャーをかけてくる上司や同僚が確かにそこにいた。
不参加の経済的不利益はない。ない、のだが上司の評価による査定に響くのではないかと案じ、結局参加することとなる。


なるほど、思ったとおり機械設備であれ人間であれ、限界まで使い倒されるものだと再認識する。


-会社の日常-


辞めたい、と誰かが言う。


「なんだかんだここが一番安定してるぞ」と誰かが釘を刺す。


転職したい、と誰かが言う。


「ここでダメならほか行ってもダメだぞ」とアドバイスを頼んでもない誰かが答える。


エアコンの効いた部屋で仕事したいね、と誰かが言う。


「俺ら頭悪いから無理だって」と誰かが「俺ら」に巻き込む。


早く定年にならないかな、と誰かが言う。


「おれもそう思う」と同調の声があがる。


いつもの風景、日常。


「俺は35歳になったらマジで辞めるわ」そう言った同僚は40過ぎてもまだ働いている。


こんな会話を時々しながら、変化の無い日々をひたすら過ごしていた。
永遠とも思えるその様は本当に、本当に恐怖だった。

「俺ら」はもう仕方がないから一緒に定年まで愚痴を吐きながら過ごそうぜ!
「俺ら」の選択は間違いじゃないし仕方なかったんだ!

誰かのそういう思いが、刺さる。


いつしか私はそういった思いに触れるたび、激しい怒りを覚えていくことになった。


他人の足を引っ張る、その病に。

-変化-


私は就職後早々に結婚していた。


妻がいた。


そんな妻がある日言った。
「あんた理屈っぽいから、法律系とかそういう資格取ってやってみたら?向いていると思うよ」


理屈っぽい、と。
そこにあったのはかつて山村に言われた「理屈っぽくてムカつく」での意味ではなく、極めて前向きな意味で「理屈っぽい」と言われた。


今まで溜まっていた怒り、悔しさ、悲しさ、そういった負のエネルギーが噴出した。


「じゃあ、やれるとこまでやってみようか」素直にそう思った。


私は「総理大臣の名前がわからない人」から「暇があれば六法ばかり読む人」に変わった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?