今日は少し嫌な事があった それは私の思慮が浅く 相手に期待したからであって 自業自得なこと まあいっか と思いながらも リカバリーの為に 何か面白い事考えよう 気分が落ち込んだ時の 復活の呪文のような言葉が 誰しもあるように思う そのような言葉は 未来へ残していかなければ ならないとも思う 理由はわからないけれど 元気の出る言葉 そして そういう言葉というのは 本質を突いている事が多く 表現や形は違えども その根底にある思いは 受け継がれ 明日へと繋がる
最近 Xの大喜利にポストして思ったのは お題の絵が強いと たいがい面白くなる その傾向はあるように思う このおばちゃんの 絵が強いので いろいろ考えてみました けっこう 面白い自信あったけど いいね❤️ 付かず ちょっと凹む😁
たまに 「なんでこの人売れないのかな?」 と疑問に思う人が居て その一人が オジンオズボーンの篠宮さん やっぱり時代の流れに乗れるかとか タイミングなんかな~? なんて思ったりするけれど いいかげんな推測をいえば 日頃の行いの何かに 要因があるんでしょうかね 交番に行って 駅までの道のりを聞いた時 お巡りさんが このフレーズで教えてくれたら ちょっと笑える 日本共産党が このフレーズ使って選挙運動したら ちょっと笑える (最後に志位さん出てくるとか😁) 面白いと思
今後情報も「 偏食 」とならないような 考え方が必要となってくる ただ偏食に気づいたとしても どうするかは個人に委ねられる そんな記事をみて 腹落ちする なんでもかんでも 丁寧な説明がある事が良いとも言えず 多少は 自分で調べて 考える 余白があった方が良いのかもしれない アテンションエコノミー フィルターバブル エコーチェンバー 情報化社会だから こういうスタイルの記事も 面白いかなと思いながらの ちょっと変わった投稿😆
この本を読んで有益だと思った内容は 「お好み焼きは蒸し料理です」 の例え話かもしれない 焼くのではなく、蒸す そこ納得感高し😆
MZDAOのコミュニティに入り ちょうど1年になりましたので なんとなく今の気持ちを残しておこうと この記事を書いています 振り返ってみれば 最初スタートしたカオス時期 好き勝手言いたい放題のメンバーへの MZ(前澤友作さん)怒りの鉄槌時期 が面白かったのかもしれないな~と 個人的には思います 最近は安定軌道に乗りつつあり 後は地道に実直に取り組んでいれば 自ずと結果はついてくるように思う ちょっと物足りなさを感じるのは もっとリスクを取られるのかなと 思っていま
怖いもの見たさで ついつい読んでしまいたくなる 誉田哲也さんのシリーズ見っけ🤩 週末読むと決める 誉田さんの本は 描写がエグい内容もありますので 過度にお勧めはしませんが アングラ系統好きな人にはドストライクかも
よくよく考えてみると つっこみのセンスがある人は 冷静さと感受性の高さを兼ね備えている そのように思う 先ず現象を色んな角度から見て 虫の目、鳥の目の両方で見る そして客観的事実を把握する そして どのアングルと距離感で見るのが 一般的な普通と独創的な特別との 盲点になるのかを冷静に見極める その盲点が見つかれば その次に感受性の高さが登場する 見えているようで 見えていない盲点を わかるわ~ それな ピンポイントで撃ち抜くのは 感受性の高さが無いとできない
「偽善」と「必要悪」 なにかと語り継がれている テーマでもあり 人による解釈の幅があるワード よくよく考えてみると 偽善と必要悪を 交換してみると 面白い事に気づく 例えば、一般的なあるあるとして 売名行為で寄付をする 偽善だと受け止めますか 必要悪だと受け止めますか はい 話しはすこし変わり 今回の表題「脱炭素」についての 矛盾を考えてみる そして それを偽善と受け止めるか 必要悪と受け止めるか もしくは 第3の受け止め方があるのかは みなさんの受け止め
テールランプの電球が切れている たまたま そんな車の後ろに付いた時 ああ、どうしようか 毎回逡巡してしまう そして 毎回なにもしない クラクションを鳴らすわけにもいかず パッシングするわけにもいかず 赤信号で止まった瞬間に 車から降りて ダッシュで言いに行く程の 義理人情もない ただだだ 見つめる事しかできない でも、気にはなる そんなのは 当人の自己責任とは思うけれど ちょっと 見て見ぬふりした罪悪感が残る あれ? この記事 誰の共感を求めてるのかな?
アンテナを張っていると面白い事がある 目的とか堅苦しい話は置いといて シンプルに「 意識して見る 」という意味合い 何気ない日常において とある光景を目にする時に その光景を見てどのように受け止めるのか?は 人それぞれで その受け止めた内容が良い悪いはどっちでも良く 「 ああ、そのように受け止めたんだ 」 で 私は良いと思う 文章表現の上手・下手や明快・難解による 読み手認識のズレも トータルで見ればプラスマイナスゼロ と自己解釈しています😁 そういう意味において
面白い記事が書けない それは「 面白い記事を書こう 」 なんて事を過度に意識してしまい そこから抜けられなくなってしまっているから なんだと思う 今まで書いてきた私の記事が 客観的に「 面白い 」と思っているのか? と言われると そこまで自信過剰でもなく あくまでも自己満足の範疇としての 意味合いではある なぜ面白い記事が書けないのか?を 考えてみた所 ・他人の考え(常識)を気にしている ・書くことを楽しめていない あたりに落ち着く じゃあ うだうだ言わず 記事
その意味について考えてみる 根源的な事から推測すると 「そんな線引きは無い」 ように思われる それは原始人になったつもりで イメージをするとわかりやすいかもしれない 原始の時代は難しく考えなくても 「今を生きる」が当たり前の状態であり そこに仕事もプライベートもあるはずもない 恐らくは 物々交換とか貨幣が登場したあたりから 仕事とプライベート という概念ができたのではないかな 「今を生きる」 を突き詰めれば 「自分を生きる」 に繋がると思うので 仕事とプライ
最近ふと思うのは 「世の中の大半の人は良い人じゃないか?」 という事である 何かしら集合体の殆どが 2:6:2=良い:普通:悪い に分類されるという パレートの法則 初めて知った時は 「この法則スゲーな😳」 と 素直に感心したものの よくよく冷静に考えてみたら その割合の線引きの仕方において マインドコントロールされとりませんか? と 否定してみた 皆さんも 一度冷静に考えてみてください 会社 学校 地域 ネット世界 色んな集合体において 価値観や考
余計な事はしたくない 誰しもそのように思う事はあると思う 昨日会社で 人事制度に関する話し合いを行った 頑張った人が報われるようにと 五年前に新しい人事制度になり 「本当に良くなったのか?」 管理職者間で意見交換をした 結果 「 良くも悪くも、変わっていない 」 そんな感想 過去に労働組合の執行委員をしていた事や 人事制度の設計にも関与した事もあり それなりの知識を得て経験を積むと 人が仕事で報われ やる気を出すかどうか と 人事制度が良いか悪いか は あま
同じ本でも 読む年齢や その時の状況によって 受け止め方は変わる そんな言葉が 印象に残っている お気に入りの一冊として 私が残している本に 菜根譚 があります いつ購入したのかは 忘れましたが 発行日が2007年ということから 約15年ぐらい前かな 行き付けの 喫茶店に入るイメージで たまにふらりと 菜根譚を読む そうすると なんとなく 心が安らぐ 多分私が好きな noterさんは 好みが似ている 気がするので その中で 最近心に残った 内容を以下に引用し