ありふれた日常の中にひそむ衝撃の話

私は現在32歳だ。現在専業主婦をしている。
夫は34歳。サラリーマンだ。地方都市で暮らしている。子供はいない。ふたりで暮らしていくことを決め、のんびりと日々を過ごしている。

私たちのほかには、隣県に居る両親と、住まいにしている県内には義両親がそれぞれ暮らしている。義妹夫婦は、関西でふたりの子を抱えながら暮らしている。時折会って近状を報告し合うような、どこにでもいるありふれた核家族の形態をしているのが特徴だ。

そんな、とりとめもない生活をしている私が突然noteに何かを記そうとしたことには理由がある。近状のことをつらつらと綴りながら、ひとつずつ記していこうと思う。

義父、そして母に見つかった悪性リンパ腫

わたしが筆を執ったひとつめの理由は、「いつ、だれがどうなるか分からないから、自分の感情を記し、残さなければ」と思ったことにある。

何にもない日々を過ごしてはいるが、自分にとっては大切な人生の軌跡を残している最中だ。だからもしいつか、この人生を振り返りたいと思った時。この年のこの日に何を思ったのか、少しでも分かればいいと思ったのだ。

今まで、写真は苦手だからほとんど撮らないし、SNSにもそれらしいことは何一つ残してこなかったから、改めて振り返った時、ここに至るまでの日々がひどく曖昧で不確かなもののように感じてしまった。

確かに32年過ごしてきたのに、特筆して起こった大きな出来事以外はほぼ覚えていない、あるいは、ときおりふと思い出す程度しか記憶が残っていないのだ。

20代で結婚をし、この思考に至るまでに本当に色々なことがあった。正直言って、記録を残そうだとか、思い出をいつか振り返ろうだとか。そのためにこんな風に、ブログのように残そうだとか、そう言った類のことに思考を割く余裕はなかったのだ。

けれどこうして落ち着いた日々を手に入れた今。私は、今感じていること、これから起こるであろうさまざまな事柄を残していきたいと感じるようになった。夫婦のこと、両親とのこと。義両親とのこと。そして、趣味や、なんてことない日常でふと感じたこと。それらを取り留めなく書き残し、いつか振り返りたくなったときに読み返せるようにしたい。

noteには、記憶を掘り起こしてかつての思い出を残そうとするときもあるだろう。そうして少しだけでも、自分が歩んでいる人生の思い出のひとかけらたちを記そう。そんな風に思った。

そう思い至った切っ掛けは、生活が落ち着いたことのほかにもいくつかある。

義父の病気発症

数年前まで、転勤族のため地元から離れたはるか遠くの場所で夫とふたり暮らしていた。結婚した年の2015年に、婚姻届けを提出して数か月後に夫に辞令が下ったのだ。

わたしたちは地元の大学で知り合って交際、結婚へとステップを進めたが、それ以降は関東で働きながら暮らしていた。しかしこの転勤を機に、さらに離れた場所で暮らすことを余儀なくされたのだ。

当初は、お互いの両親も「若いうちは遠くにいても元気ならいい」というスタンスで見送ってくれ、時には関東で遊んだり、我々が暮らしていた県に遊びにきてくれたり、年末年始の長期休暇を利用して地元に帰るなどして年に数回会っていた。

私たちもそれくらいで良いと思っていたし、両親たちは時折さびしそうにしていたが、特段何も言わなかった。私たちはその後ひどく仕事が忙しくなったので、長期休暇以外に帰省することに対して、また、両親たちと会うことに対してそこまで重きを置いていなかった。両親たちは幸いまだ若く、精力的に働いていたからだ。子供たちであった私たちがそれぞれの家庭を持ったあと、夫婦二人の生活を謳歌してもいた。私の両親はひんぱんに温泉旅行へと出かけていたし、義両親は釣りに山登りにと、アウトドアに精を出していた。

仕事が忙しくて喘ぐ我々をよそに、「若いうちは頑張りなさい」と笑いながら、私たちの両親は充実した日々のことを報告してきた。それが少し憎らしくもあり、そしてほほえましかったのだ。

しかしそんな生活が6年ほど続いたある日。夫のスマホに一本の電話が入った。義母からだった。

「お父さんの大腸にがんが見つかったの。肝臓にも転移していて、ステージ4らしい。余命いくばくもないと言われてしまった」

はつらつとしていて、時には厳格な義母からの、涙の滲んだ電話だった。これから闘病生活に入ること。義母ひとりでは余裕がなくなることを説明され、私たちは戸惑いを覚えつつも、地元に帰ろう、と決意をする。2021年の年明けすぐのことだった。

このころ、コロナ禍で中々帰省もままならず、両親たちにも数年会えていなかったから、まさかそんなことになっているだなんて露も思わなかった私たちは、すぐに行動に出た。

私は退職し、夫は転職先を見つけた。電話を貰ってから、3週間ほど経ってのスピード決断だった。私は地元に戻って職を探せばいい。2020年になり、持病を発症してから生活リズムを変え、パート生活をしていたこともあり、退職も、次の職場選びも問題ないだろうという判断だった。

夫は私が退職する際「少し休憩して、専業主婦になったって良いよ」と、微笑んでくれたので、今はその言葉に甘えている。

夫の方も、運よく地元で転職先が見つかったため、すぐに職場に退職の申し出をした。早ければ一月、遅くても二か月後には退職し、引っ越しができるだろうと思ってのことだ。

しかし、現在働いている職場が「そういう事情ならば」ということで転勤を打診してくれたため、夫は転職をやめ、転勤して地元に戻ることができた。キャリアを捨てず、今の職場に残れる。夫は少しほっとしていた。はじめて、全国転勤のある職場で良かった、と思ったのと同時に、地元が地方とはいえ、そこそこ大きな都市であったことも大きい。

私たちは、そういう経緯を経て、割とスムーズな形で地元へ帰ることができたのだ。

いつかは地元に戻りたい。そう思っていたので、義父の病気をきっかけに戻れたのはいい機会だと思った。

義父が余命半年と言われたことでさまざまな心構えを持って引っ越したが、義父はさいわいなことに、現在も治療は続けつつ、まだまだ元気に過ごしている。義母も務めていた会社を辞め、パートに出ながらも、「夫と余生を穏やかに過ごすのだ」と言って、新たな趣味である家庭菜園を楽しんでいる。

私たちは時折顔を出しながら、義両親を見守っている。

引っ越して2年が経過した現在。義父の容体は落ち着いていて、私も、そして夫も時折心配はしつつも、現状維持の現在を心穏やかに暮らしていた。

しかし先日、母からの唐突な電話によってそのありふれた日常にもう一度衝撃が走った。

母の病気発症


「脳に悪性リンパ腫が見つかったみたい」

電話越しに明るく声を発した母から言われたのは、そんな、雷の落ちるような告白だった。てっきり、「そろそろそちらに行って食事でもしない?」だとか、「洋服を買いにいきましょうよ」だとか、そういったお誘いの電話だと思っていたわたしは、呑気に夕食を作りながら、スピーカーにして通話していた。

その時の、心臓が不整脈を起こしたようにどくりと音を立てた衝撃は、未だに忘れられない。

確かに今月の頭に実家へ帰省した折、母が「最近手足がしびれる」と言っていたことを思い出し、私は背筋が凍るような気持ちになった。脳に異常があったことによる麻痺だったのだ。

母は、病院にかかったおり、「運動のし過ぎで神経に傷がついたのでしょう」と診断されたことを語り、最近熱中していたランニングを少し休む、と元気な声で言っていた。まさかその伏線が、悪性リンパ腫によって回収されるとは思っていなかったのだ。

日に日に手足のしびれが広がり、違和感を覚えた母が再度病院に行くと、主治医からは「神経痛ではないかもしれない」と言われたと言う。

そこから大きな病院に移り検査をしてもらい、脳腫瘍があると診断されたのだそうだ。

まだ、精密検査に至る前の段階のためはっきりしたことは言えないが、これから大学病院で検査入院をすること。おそらく、悪性リンパ腫であるだろうということを告げられ、わたしは暫しの間二の句が継げなかった。

母は医療関係者だ。きっと、自分のCT画像を見てピンときたこともあっただろう。医者とは顔見知りだったため、長い時間はなし合ったのだと言う。

電話越しに母は涙声になりながら、それでも笑って言った。私はその説明を聞き終わる頃には、相槌に涙が滲んでしまっていた。

「もう。お父さんもさっきからずっと泣いてるのよ。ご飯だって食べないし。泣きたいのは私で、まだ病名もついてないから何とも言えないってのに」

そう言って、少しばかりの弱音を吐いて見せたのだ。涙があふれて喉から言葉は中々出てこなかったが、私はこらえながら「そうだよね、私まで泣いてごめん。できる限りのサポートはするから」と言った。

母は隣県に住んでいるが、治療のため、私の住まい近くの大学病院へ入院することになると言う。父が仕事で中々来れないことを予想し、私がサポートを買って出たのだ。と言っても、未だ続くコロナ禍のため、面会は15分だけ、会えても洗濯ものを預かったり、持って行ったりする程度しか会えないらしいけれど。

そんなこんなで、我が家の家族は決して多くないのに、直近で2人もがんの治療を行う人が増えてしまったのだ。

ありふれた日々と、少しの非日常感

義父、そして母からの告白は、私にとって大きな出来事となった。医療関係の職に就いている母は以前から、「私は夜勤があって不規則な生活をずっと続けてきた。同業者はあまり長生きをしていないから、きっとそう遠くない将来早く死ぬと思う」と、あっけらかんと言っていた。

昼夜逆転生活を長年続けてきた余波について、いつも話していたから、私は「そういうものなのだろうか」と思いつつ、漠然と意識して暮らしていた。

サラリーマンとして規則正しい生活をしていた義父に至っては、青天の霹靂だったことだろう。彼に至っては、コロナ禍により人間ドッグを受けなかったたった1年の間に病気が進行してしまっていた。

そのことをいつも後悔しながらも、「なってしまったものは仕方がない」と言い、自身で車を運転し、抗がん剤の投与を行っている。

まさか、まだ50代である母や、還暦を迎えたばかりの義父に病魔が降りかかるだなんて予想はしていない。

相次いでやってきた衝撃とこれからのことを思うと、胃がキリキリと痛むのだ。きっと一番衝撃を感じているのは親だと思うけれど。

私はふと、このことを、詳しく記しておこう。そんな風に思ったのだ。
そんな衝動にかられたのは、ひとしきり泣き、眠れない夜を過ごしていた昨晩のことだった。

昨今、悪性リンパ腫に羅漢する人は増えているという。何人かに一人はがんによって亡くなっている、というニュースを時々目にすることはあった。それが、自分の両親、あるいは義両親にも及ぶのだ。

ふわりと見ていたニュースが身近になったことで、さまざまな事を考える機会が増えた。しかし、私は当事者ではない。母、あるいは義父の治療を見守る立場でしかないが、そこからでも見えるもの、感じることは多くあるだろう。

忘れないよう、いつか振り返り、こんなこともあったと思えるよう。私はこれからのことを、できるだけ書いていこうと思ったのだ。

見守る立場から見えてくるもの


義父には義母がいる。そして、母には父がいる。お互いまだ若く、はつらつとしているから、きっと大まかなサポートはそれぞれがやるのだ。今後病状が悪化し、大変になった時。私たちはより親身になって手伝いをするのかもしれない。あるいは、……。まだそうなっていないから何とも言えないのだけれど。正直、大病を患った家族が身近にいたことがないから、分からない、というのが本音でもある。

時折、イメージトレーニングをしてみたり、闘病の日記などを読んでみたりするけれど、まだピンと来ていない。それほど、母や義父はまだ元気に過ごしているからだ。きっとその時になったら分かるのだろう。そうしたら、またこんな風に綴り、彼らの過ごした軌跡を忘れないようにしたい。

私たち夫婦は時折顔を出したり、助けを求められたときにサポートする程度しか力添えできない。両親たちも「大きな負担はかけられない」という。

義両親に至っては、もうすでに義父の葬儀の手配から墓の用意まできっちりと済ませている。終活だ、と言っていた。自分の死と向き合う義父は強い。そして、それを支える義母も。向き合い、戦っている。

一方私の両親は、父は元気いっぱいで明るいが、そう言った方面にはめっぽう弱く、きっと泣いたり、気がめいったりすることが多いと思う。母は病気と長年向き合ってきたから心構えがあるが、涙もろい一面もある。義両親のようにリアリストな向き合い方はできないかもしれない。

けれど、向き合っていくという心構えはあるようだった。だから私も、そんな彼らの娘として、精いっぱい母の病気に向き合おうと思う。

自分を育ててくれた母が死ぬかもしれない。まだ付き合いは10年に満たないが、良くしてくれた義父が近い将来死ぬかもしれない。そんな不安を抱えながらも、どうにかして過ごしていくのだろう。


まとめ

まとまりはなくなってしまったが、とりとめなく現在の状況や心情をつづると決めて作った場所だからこれでいい。これから少しずつ大変になることが増えていくかもしれない。辛い日々が待ち受けているだろう。

けれど、それを乗り越えたり、向き合ったりしながら。きっと私はこれから、この場所にさまざまな事を記していくだろう。

私は明日からも、ありふれた日常を続け、その延長線上で母や、義父と向き合っていくのだと思う。時に夫の力を借りながら。時に、夫を支えながら。

そうして自分の人生が続いていくんだ。と、自覚を深めた深夜1時なのだった。次回は、私が夫と出会ったことや、結婚に至ったこともまとめられたらいいと思う。

もしここまで読んでくださった方がいるならば、心から感謝を。

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