私は多分広河隆一氏は「非難されて当然なレイプおじさん」ではないと思ったりする件

私は「多分」としか言えないし、こうした発言を自分の名前をさらしてまで出来るほどの勇気はない。

なぜなら、私は20年以上前に、性的な屈辱を何度も受け、今までそれを片時も忘れられずにいるにも関わらず、それについて声高々に公言できたためしがないからだ。

20年以上前のことではあるが、当時20代前半だった私にとって、年上の男の人が、セクハラ?レイプ?良く分からない性的関係を求めること自体が、昼ドラのようで自分事としてとらえることが出来なかった。

しかも、その当時、私はとある有名美術大学に通っていて、イマ的に言えば、広瀬隆一氏のように「性的加害者」と非難されても仕方がない行為をした男の人は、一番信頼していたゼミの担当助手だった。

ゆえに、立派に成立するパワーバランス関係の中で、私は彼を受け入れやすく、簡単にそのような関係を持つような事態になってしまった。

それ以来、男性との関係は常にセクハラやレイプのような、いかがわしい状況を麻痺させる手段として恋愛感情を発生させなければいけないような、そんな体質になってしまったのではないか?と思うほど、くるくると相手ばかりが変わっていく、、、波乱万丈セクハラオンパレードな20代を過ごした。

セクハラやそれに派生する性的関係が何十回も続くと、一気に奈落の底に落ちていくイメージで、ただそれを受け入れるしか、出来なくなってしまう。

問題は私にあるのではないか?と、被害者独特の捉え方をして、今日まで生きてきて、レイプのニュースを見るたびに、自己嫌悪する。その当時の自分を思い出すようなそんな感じ。

だから、私も世間一般と同じく、広河隆一氏のレイプニュースは、見た瞬間に「こいつは悪人だ!」と思ったわけです。

しかし、と同時に、なぜ、Me Too運動が出来る女性たちは、あんなに自分の過去について堂々と話し、堂々と「ひどい!」と訴えることが可能なのか?という、変な気持ちもありました。

私には到底出来ないことなので、うらやましいというか。どこからそのエネルギーが湧いてくるのだろうか。とか、それを叫んでいて、毎回そのことを思い出すことになぜそこまで執着できるのだろう?と、不思議でもあったのです。

私は、性的なことでさんざんな目にあってきたので、それを誰かに言いたいし、誰かに理解してほしいし、助けて欲しかった。けれど、どうしても、そのことを口から出すことが出来ない。

心が助かりたいだけなら、多分、口に出すよりも、もっとやらなければいけないことがある。だから、話せないし、話さないんだろうと思っている。

そんな私が、何故か、広河隆一氏のnote記事を読んで、

この人、そんなにみんなから寄ってたかって責められ、からかわれるような「レイプおじさん」ではないんじゃないかな?って思ってしまった。

多分、違うと思う。って思うことは間違っているのだろうか。

散々、事実みたいなことを盾に「お前は謝罪するべきだ!」とか言って、弱い者いじめみたいに集中攻撃するのはOKで、「それって違うんじゃないの?」というのはいけない事なのか。

性的被害にあったことのある私は、その苦しさを知っているし、いまだにその苦しさと戦いながら、毎日ひきこもりながら静かに生きている。

そんな私が、性的加害者として袋叩きにあっている人に向かって、「私はあなたの味方になりたいし、あなたはそんなに責められる必要はないと思う。そんなにみんなから言われるほど悪いことしてないよね」と言ってはいけないのか。

だとしたら、私のことを散々もてあそんでおきながら、今、あの美術大学で教授に媚びを売りまくった結果、仲間の助手たちを蹴落として、悠々自適な教授ライフを送っているアイツや、国の経費を使いまわしながら、好き勝手に遊びながら仕事をしていたあのおっさんたちは、なんなんだろうって思っちゃう。(今となっては彼らがどう生きようかすらどうでもいいけど)

私の発言なんて、この宇宙、地球、世界、、、広がる空間からしたら、ものすごくちっぽけで、なんのチカラもないけれど、せめて広河隆一さんに、この地球上にこういう人もいるということを伝えたくて、記事を書きました。

本当に、性的な加害者だからという理由で不特定多数から制裁を受けるべき人間がこの世の中にいるの?

本当は、違う思惑で広河隆一さんを陥れたいと思う人が、性的加害者という名目でこのようなリンチを巻き起こしているとしたら、みんな共犯にされちゃうよ。

私には、なんにも分からないけど、多分、こんなことで広河さんが悩んで活動を停滞させる方が、世界にとって不利益だと思う。

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