ありきたりだが「原罪」について


人間の原罪は当り前だが、家畜を食らう事だろう。


これにより、善と悪は普遍では無く相対的な物となる。
この矛盾を気付いてしまった時、何が正しいか判らなくなる。
多くの人が幼少期に気付いてしまう、人としてのジレンマだ。

おそらくエヴァンゲリオンの庵野秀明もこれが気になっていると思われる。
ベジタリアンの基礎部分、綾波レイもナディアも、作者の矜持として、
この原罪を忌避しているがゆえにヒロインになり得た気がする。
他の登場人物達は彼女たちから観たらきっと不純で業の深い動物だろう。
この辺に共感してしまう人も多いと思う。

特にスターシード系の人にとってはテンプレじゃなかろうか?
庵野氏もスターシードの様な印象があるし、
この辺はスターシードを見分けるポイントになるかもしれないと。

話を戻す。
例えばひどい失恋をして一人焼肉を食う女性がいたとする。
めそめそ泣きながら肉を食うと。
この時、家畜の視点からすれば自分達への人間の裏切り、
人を親だと思い、信じ切ってトサツされた子の心とは無関心に、
これと天秤にかけて尚、個人的で挽回が利くような些事で泣いていると。
この人間はなんて無慈悲だ、心が無いのかと。
ただの失恋如きと比べ、自分達の苦しみが判る物かと思うに決まっている。

「人間とはなんて邪悪な悪魔なのだろう」と思って然るべきだ。

善というのが神であるなら、家畜に対しても神なのかという話になる。
人間にのみ対応した神であるなら、家畜にとっては同時にそれは悪魔だと。

つまり、善というモノは悪が発生した時に同時に出現するのだ。
切り取りによっては神になったり悪魔になったりと豹変すると。
全てが善であればそれはもう既に善ではないという事になる。
悪と相対化しなければ善はそもそも存在しないのでは?という事だ。
キリストは魚とパンを出現させて人々に与えた絵を思い出す。
じゃあキリストは、魚にとっては何なのか?という話。
魚は救う対象から外れるのかと。

自分もやはり、子供の頃は肉に抵抗があった。
特に弾力のある脂身を噛む瞬間、動物に歯を立てている気持ち悪さに
何度も吐いた。
それが今ではホルモンまで美味いと感じてしまっている。
元々あった罪悪感を自分の初心からパージしたという事だ。
つまり変化し過ぎて既に原罪に慣れてしまっているのだ。
何処かで妥協し、正しくある事を放棄した気分になってしまう。
しかし、それが現在の自分で間違いはない。
何らかのデフォルト状態から書き換えられてしまっている。
だから平気で他者を食い物にする悪人も同じ感覚なのかもしれない。
やはり彼等も何らかの形でどこかで妥協してしまったと。

じゃあ善人も悪人も居ないのかとも思う。
自分はそれでも弱肉強食の共食い行為には気分が悪い。
同族で弱者を欲するのはおかしいと思う。

もしかすれば、共食い行為こそが人間にとっての悪なのかも知れない。
そう考えると、やはり今の学校制度には悪意を感じてしまうと。


そういう話。


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