ヒトと比べる無意味さ


これをすると基準が相手に向く事になる。
自分自身を見失うのだ。

自分本来の持ち物を捨ててまで他人の物を欲しがると。
しかし他人は他人であって、それは永久に手に入らない。
手に入らないから腹を立て、奪う、破壊するようになると。
ロクでもない因果の起点になり、悪意の連鎖、犯罪の連鎖を引き起こす。
これが比べる事の不毛さだ。
本来それぞれの価値観を同じにする必要はない。
協調というのはあくまで価値観のすり合わせであって、同化ではないのだ。
同化すればカルトになる、思考停止になるだけだ。
自分のルールは自分だけの物のハズであり、人はそこに関係ない。
これが比べる事の無意味さだろう。

比べる人間は執着心が凄まじい、いつだって逆恨みが凄い。
ワードや場面の切り取りから、都合のいい悪意を発生させる。
こんなものは本人自身すら理解できないフェイクだろう。
周囲に同意を求め、更に脚色し、ウソがやめられなくなっていく。
こうやって皆が混乱し、方向性を見失っていくのだ。
よく他人にそこまで執着できるなと。

価値観なんて千差万別であって、ただ他人に損害を与えなければいいだけ。
それさえ守れば誰が何を考えてたっていいだろと。
もう社会のルール自体が原理原則から外れた詐欺の口実になった。
それを律儀に守るほど人間性を失っていき、破滅するだけだ。
ならばそんな法は逆に拒絶した方がいいと。

つべで武田邦彦先生がペットボトル分別の話をしていたが、まさにこれだ。
法や規律を律儀に守る事で逆に混乱し、不幸になるなら意味が無い。
個人個人がそれぞれがルールを守る必要があるのか考えるべきだろう。
もう周知されているように、ルールを作る側も責任を負うつもりが無い。
ここまでデタラメならそのルールはとっくに何の意味もないのだ。
自転車乗るのにまた「ヘルメット着用」ってなんだと。
ああいうのは皮膚感覚が損なわれ、むしろ危険にさえ感じる。
取り締まりの口実、職務質問用の口実か?
レジ袋、マスクといった息苦しい社会。
監視社会の構築の為どんどんルールを増やしてはそこに利権をこじつける。
循環を阻害し、手間を増やしては不当に金を抜いてゆくのだろう。
庶民のストレスを増やし、心を縛り、不自由に慣れさせて奴隷化すると。
この全ては囚人の足に付けられた鉄球だ。

他人を見習ったところで、相手と自分の条件は違う。
同化する必然は無く、自分に有利な何かを見つけた方が近道だろう。
だから他人と比べる必要はない。
ただ自分の中に潜っていって、自分の価値を見つける事だけだ。
そしてそれを見つけた瞬間から他人と比べる必要が無くなるのだ。
それが思考停止の一般論というカルトから抜け出す方法だろう。

比べるならその人は洗脳されていた事になる。
ブームも専門用語、一般常識も何者かの作為であって、それを見抜くだけ。
ワードの切り取りじゃなく、それを演出した「誰か」の意図が本体だ。
作られた価値観を真に受けるんじゃなく必要なモノかどうかが重要だろう。
周りと同化する意味なんて無い。
ただ、本当にそれが必要ならば受け入れてもいいというだけだ。
そう、ヒトは他人と比べれば比べる程バカになる。

そういう話。

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