信仰だろうが虐待は虐待〜宗教虐待と法律〜
先月(3月)29日、宗教2世らが宗教虐待の禁止の法整備を求める要望書を厚労省に提出しました。
要望書の全文は探しても見つからなかったので詳細はわからないのですが、信仰の強制などを児童虐待として法律に明記するように主張しているのだと思います。
この記事では現行の児童虐待防止法に沿って宗教虐待について考えていきます。
1 まずは虐待の定義から考える
まず宗教虐待について考える前にそもそも虐待とは何かを見ていきます。
前提としていわゆる虐待と呼ばれる行為の多くは犯罪です。
殴る蹴るなどの暴行は暴行罪(刑法208条)や傷害罪(同204条)といった刑法犯に該当します。当たり前ですが、虐待以前の問題で他人を殴ってはいけません。そもそも犯罪です。
これは大人子ども関係なくいわゆる犯罪をまとめた刑法の話です。
さらに、児童虐待の対処のためには他に児童虐待防止法や児童福祉法という法律があります。そして児童虐待防止法2条に虐待の定義がまとめられていて、以下の4つに分類されています。
1 暴行などの身体的虐待
2 わいせつな行為を強要する性的虐待
3 ネグレクト
4 著しい心理的外傷を与える言動
基本的にはこの枠内に当てはまるものを児童虐待として認定していきます。ちゃんとこの問題を考えたい人は条文を読んでおくことをお勧めします(2条です)。
2 宗教と虐待
昨今、宗教を発端とした児童虐待の事例が多く報道されています。
こういった流れを受けて厚生労働省は宗教虐待について指針を示しました。
いろいろな事例についてそれが虐待に当たるのかどうかということがQ&A方式で列挙されています。
指針で示された事例から共通して読み取れるのは「背景に宗教があるかどうか関係なく虐待は虐待である」という考え方です。
つまり、前節で挙げた4つの定義に当てはまる行為があれば、それは宗教上の行為であっても関係なく虐待です。
あくまでも客観的にその行為を見て虐待の定義に当てはまるかどうか判断するべきという姿勢が読み取れます。
宗教虐待と信教の自由(憲法20条1項)との兼ね合いが懸念されることもありますが、これに関しては「加持祈祷事件」という有名な判例が参考になります。
これは僧侶が宗教上の加持祈祷行為として18歳の女性を叩くなどの行為をして死亡させてしまった事件です。
この事件で最高裁判所は宗教上の行為であっても著しく反社会的な行為は許されず、信教の自由として保護される範囲を逸脱すると判断しました。
当然といえば当然です。
宗教上の行為だからと言って犯罪が許されるわけではありません。
同じように宗教上の行為だからと言って虐待の正当化にはなりません。
3 宗教アレルギー状態では虐待に対応できない
では、法律を変えるべきか。
ここまで来て肩すかしかもしれませんが、個人的には「宗教虐待」というものを法律の条文に組み込むことには積極的に賛成はしません。
というのは前説で述べたように「虐待かどうかということに宗教は関係ない」からです。
いわゆる宗教虐待としてあげられる例の多くは現行の4つの定義のどれかに当てはまると考えられますし厚労省の指針からもそれが読み取れます。法律そのものを変えるよりも解釈指針を徹底することによって虐待としての認定は可能だと思います。
「本来は虐待として認定するべきなのに現行の4つの定義に当てはまらない宗教虐待の事例」が報道されている中からは見当たらないというのが正直な印象です。
また、虐待に至る動機というのは様々です。単純に子育てに向いていないという場合もあるでしょうし、むしろそういうパターンが大多数なような気がします。
その中で宗教虐待のみを法律に特別に書き込むことは合理性に欠きます。
また、宗教虐待の問題の多くは他の児童虐待にも共通する問題であり、宗教虐待を防ぐということは、児童虐待を防ぐ取り組みに集約されるものと考えられます。
ただ、宗教虐待の特殊性として一つ考えられるのは、宗教が絡むことによって虐待に対応する行政の職員が、対応を躊躇することです。
以前プロテスタントの牧師と話したことがあるのですが、彼は「日本は宗教アレルギー」だと言っていました。そもそも宗教というものに触れていないから宗教に対して無条件に拒否反応を示す人が多いです。その結果、信教の自由というものについて考えた経験がなく、虐待事例に対しても宗教が絡むということだけで及び腰になることは考えられます。
そもそも信教の自由とは何か普段から考えていれば、虐待をする親に信教の自由を主張されたときにちゃんと反論できます。反論ができれば、自信を持って虐待に対応できます。
だから、私は法律を変えるというよりは「宗教関係なく虐待かどうかは行為を客観的に判断する」という解釈指針を徹底していくことが宗教虐待の事案の対処に必要だと思っています。
もっというと、信教の自由とは何か、どこまでが信教の自由として保護されるべきなのか、国民が考えておくことが重要だと思います。
4 宗教教育と宗教虐待の違い
とは言ってもどこからが宗教虐待かということは案外難しいものだと思います。
というのは信教の自由に加えて親には子どもを教育する権利があるからです(民法820条)。
子どもにどういう教育をするかは基本的には親の自由です。
宗教教育についても同じで、子どもに宗教に基づいた教育をする権利は親に認められています。しかし、特定の宗教を強制することは親であっても許されないと考えられます。子ども自身の信教の自由を侵害するからです。
ただ、実際問題子どもであれば宗教を信じるかどうか自分の頭で判断することは難しいでしょうし、親の影響で宗教を信じる子どもが多いと思われます。
そうだとすると、宗教教育と宗教の強制の違いは簡単に決められるものではありません。
この違いについて考える上で日本も加盟している「子どもの権利条約」の14条が参考になります。
〈子どもの権利条約〉
14条
1 締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。
2 締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。
結構よく考えられた条文だと思っています。
まずこの条文は思想、良心及び宗教の自由が児童にあることを明記します。
そして、親の宗教教育は「児童が1の権利を行使するに当たり」行われるべきとしています。
この「児童が1の権利を行使するに当たり」という文言が結構重要です。
宗教を決める自由は前提として子どもにあり、親の教育は子どもが信じる宗教を決めるための補助であるということが条文から読み取ることができます。
しかもそれは「その発達しつつある能力に適合する方法で」行われなければなりません。
つまり、判断力の弱い子どもは自分で主体的に宗教を選ぶ能力がないのですから、それを考慮した上で宗教教育をしなければなりません。
子どもの宗教について、親にどこまでの権利があるのかということはこの条約の条文がかなりヒントになるでしょう。
5 こども基本法に子どもの権利明記を
さて、少し宗教虐待の本題から離れて、今年4月から施行された「こども基本法」に触れておきます。
こども基本法は前節で触れた子どもの権利条約を前提として作られたもので、こども施策の指針を定めたものです。
ただ条文を読むとこども基本法と児童の権利条約はかなり性質が異なります。
子どもの権利条約では「子どもの権利」がかなり細かく列挙されているのに対してこども基本法の子どもの権利についての記載は分量的にもあまり多くありません。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=504AC1000000077_20230401_000000000000000
条約では表現の自由、思想・良心の自由、結社の自由など、かなり子どもの権利が詳しく述べられていて、子どもを権利を持った存在として認める考え方が見て取れます。
一方こども基本法は「保護される」「機会を与えられる」といった受け身の表現が多く、「権利を有する」という表現が多い条約とは性質が異なります。
確かに、条約は条約であり、日本の法律は日本の文化に合わせたものであるべきなので条約と全く同じ法律を作るべきではないです。
ただ、子どもの権利を明記することは今回の宗教虐待の事例からも分かるように、現在の社会問題を考える上でヒントになることもあります。
こども基本法がどのような議論で成立したのか、条文を読んだだけではわからないのでまた時間のあるときに調べてみます。
その上で何か言えることがあれば記事にしたいです。