女性の戦争

今日、三ヶ根山で「お町さん」の石碑を見ました。
帰宅して調べてみると満州で体を張って日本兵を助けた女性でした。
満州では、ソ連兵が狼藉を働いたことは非難され続けてますが、中国人、朝鮮人も酷かったようです。
言えることは、日本人以外は別物だと言う事です。
日本人だけが特別だと言う事だと思います。

ノルマンディー上陸作戦では、道端で米兵が仏女性に暴行してたと言います。道端などお構いなし。

終戦の詔、直前、米国からの最初の要求は「オンナ」だったそうです。
それで出来たのが、大森海岸「小町園」などのRAA、資本金は1億円で、その内の5500万円は大蔵省が保証して日本勧業銀行が融資している。開業時には、幹部が皇居前で宣誓式と万歳三唱を行っています。

名誉のために言えば、ソ連兵の多くは囚人だったとか?日本以外は兵隊は最下位層の役割のようです。

碑  誌

 お町さんは、佛都福井県吉崎御坊近くの在家に生まれ、後、旧満州国安東市に渡って、湯池子温泉の女中頭となり、この地に終戦を迎えた。昭和二〇年八月十五日、敗戦国民と化した在満日本人は、家を奪われ、財を失い、悲惨な俘虜の運命へと追い込まれて行った。   奥地より陸続と伝えくる無残な同胞の悲報。然し此処にして、誰に何が出来るだろうか?若し出来得るとするなれば、それは機智縦横度胸あり、身を捨てて、同胞のために死んでくれる、そんな女人でなければならない。国境、北辺より避難南下の人々を抱えて、ふくれ上がった 安東幾十万の日本人の命運を背負っての責は、あまりにも重く、報いられる保証は全くない。 このときお町さんは人々に請われて「 挺身娘子隊 」を編成し、その総監となり、ソ連軍進駐し来たるや、慰安慰撫に奮闘、司令官の信頼を一身にして、日本人の被護活動に挺身した。奉天陸軍病院五龍背分院の重度症病兵、三上勝弘中尉以下一〇八名が、八路軍の分院接収により退去を余儀なくされ「 止まるも死、進むも死ならば、一歩でも日本に近づいて死ぬべし 」と、道を求めて彷徨、終に得られず、半死半生安東へ辿りついた彼等を迎え、「 お町も日本の女でございます。此の目玉の黒い間は滅多に餓死させるものではありませんお町は唐人お吉ではございません、お町には国府も八路もございません。日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。時を経て、一顧だにされないだろう事は覚悟の上でございます。」 お町さんの活躍は、満州電電安東支社長稲津宗雄氏の回顧録 「 望郷 」 中の随所にかかれているが、彼女が、心神困憊、絶望のどん底にあった三上中尉以下に、生きる気力と体力、故国帰還の夢と希望を與えた事には全くふれられていない。                                        あれから三十余年、いよいよかなしく、あはれに、お言葉が忘れられず、ソ連軍撤退して、八路軍により鴨緑江河畔に銃殺刑となったお町さんの、死をかけた平和の祈りと冥福の久遠をこめて此処に碑を建立す。                                            

         昭和五五年九月

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