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マトリなふたり④

第四話 仕事と恋のはざまで


その後は何事もなく、特殊捜査課の全員が定刻の18時まで通常業務に専念した。

一般的に麻薬取締部というと、拳銃を手にした屈強な職員が麻薬密売取引の現場に乗り込んで派手に乱闘するというイメージがある。
だが、現実のマトリの職員は、その多くがマッチョな体育会系ではなくガチガチの理系で、勤務時間の大半はパソコンや資料と睨めっこしながらのデスクワークである。
違法薬物を扱う関係で、マトリの職員は薬学部出身者が大部分を占める。少林寺拳法の世界王者、京本麻実がトップを務める特殊捜査課も例外ではなく、京本をはじめ、彼女の部下21名のうち17名が薬学部の卒業生で、薬剤師の資格をもっている。
なかでも、違法薬物に関する知識・経験ともに豊富なのが主任の平沢で、逸材ぞろいの特殊捜査課内部でも、右に出る者がいないほどの博識だった。

18時の定時近くになって、眼鏡を外した平沢が「どっこいしょ」と立ち上がった。ホームセンターで買ったような黒いサンダルで、小太りの身体を揺らしながら京本のデスクに歩いていく。小脇に抱えたファイルには、昼休み明けからせっせと印刷していたA4コピー用紙の束が入っている。
「課長。先月押収した薬物の成分の検査結果についてですが……」
童顔に遠視用の黒縁眼鏡をかけ、目にも止まらぬ速さでキーボードを叩いていた京本は、平沢の遠慮がちな声を聞くと、すぐに手を止めて顔を上げた。
「ありがとうございます、平沢さん。ずいぶん分厚い資料ですね。内容も相当難しそうですし、ここではなく会議室で伺いましょうか」
「か、会議室……? 課長とわたしの二人で、ですか……」
平沢は反射的に池田のデスクを振り向いた。京本と密室でふたりきり……そんなシチュエーションを、彼が許すはずがない。
だが、池田のデスクはもぬけの殻だった。トイレかな? と首を傾げた平沢に気づいた来人が、白い前歯を見せて笑った。
「あ、池田さんなら衣装チェンジの最中っす」
「衣装チェンジ? あ、そうか。今日はアレの日か……ちくしょう、羨ましいなぁ」
アレの日? とこんどは愛未が首を傾げた。隣では、なぜか来夢がぷぅっと頬を膨らませていた。

そのとき、タイミングよく池田が戻ってきた。来夢が真っ先に「きゃあっ、カッコいい!」と歓声を上げ、その声につられて彼を見た職員らも、ほれぼれとため息をついた。
池田はかっちりしたビジネススーツから、大学生と見紛うようなカジュアルファッションに着替えていた。
おそらく180センチ以上はある長身に、服の上からでも相当鍛え上げているのがわかる、みごとな逆三角体型。そのハイレベルな肉体を包むのは、『MEN’S NON-NO』より若い層向けの男性ファッション雑誌、『FINEBOYS』で紹介されているようなカジュアルスタイルで、流行に敏感なZ世代の少年ファッションそのものだ。
後ろ手に入口ドアを閉めると、池田はまっすぐに京本のそばに行った。平沢はおびえた顔で一歩後ずさり、至近距離を明け渡した。
「ど、どうでしょう、課長」
池田に問われ、京本はピクっと肩を震わせた。そして、こころもち赤くなった顔を伏せ、こほっと咳払いをしてから、
「あ……い、いいと思います。わたしには、男性の流行ファッションのことはよくわかりませんけど、ちょ、ちょいワルっていうんですか、ふだんの池田さんとはひと味違った雰囲気でとてもステキですし、若い女の子ウケも最高だと思います。も、もちろん、キャバ嬢さんたちにも……」
え? 課長、いまなんて……困惑する愛未の耳に、平沢のやにっこい声が届いた。
「池田さん、今夜は新宿のキャバクラに行くんでしたね。その渋カジファッションで若いねぇちゃんたちを陥落させようって作戦ですか」
「古いですよぉ平沢さん。いまどき『渋カジ』って言いませんから……それはそうと池田さん、そろそろ俺もおともさせてくださいよぉ。キャバ嬢を落とすテクニックを勉強させていただきたいです」
「バカ言ってんじゃないわよ来人。下心丸出しのあんたがついてったら、池田さんの邪魔になるだけよ」
「——ど、どういうことですか、伊藤さん! 池田さん、課長がいるのにキャバクラなんて……」
「あ、それはね……」
愛未の問いに伊藤が答える前に、鈴を鳴らすような愛らしい声がフロア全体に響いた。
「あ~、勘違いしないでくださいね、織田さん。池田さんがキャバクラに行くのは女の子と遊ぶためではなく、潜入捜査のためなんですよ」
「そうです。織田さん、きみもマトリの一員なら、それくらい説明しなくても察してください」
身を寄せ合って苦笑する京本と池田に、愛未は立ち上がって「す、すみません!」と頭を下げた。
そうだ、すこし考えればわかりそうなものだった。ここは麻薬取締部なのだ。いまや違法薬物の温床となっている風俗店に、客を装ったマトリの職員が潜入する捜査方法については、先日の新人研修で教わったばかりだ。
「そろそろ時間ですので、行ってまいります」
池田がうやうやしく最敬礼をし、入口ドアに向かいかけた。そのジャケットの裾を、京本が小さな手でくいっと引っ張った。池田が驚いて振り返ると、京本はさらに驚いた顔をしていた。どうやら、無意識に手が出てしまったようだ。
「課長、どうしました?」
「い、いえ、あの……」
ふたりの身長差は三十センチ以上あるので、池田はわざわざ床に跪いて京本の顔を覗き込んだ。
まるで騎士と姫のような構図に、来夢は「ああもう見てらんない!」と吐き捨てつつ、そんなふたりを凝視するという矛盾した言動をとったが、ほかの職員は手元の仕事をしながらチラチラ目線を送るにとどめた。
「い、池田さんには、いつも大変な役を押しつけてしまって、申しわけありません……今夜もよろしくお願いします……」
京本は消え入りそうな声で言い、両手をそろえて深々と頭を下げた。
愛未は胸が締めつけられた。仕事とはいえ、好きな男がキャバクラに行くのを快く送り出せる女性はいないだろう。だから母は父を許せなかったし、元キャバ嬢の自分ですら、彼氏がキャバクラに行ったことを知ったら許す自信はない。
「課長……」
床に跪いたまま、池田は京本の髪にそっと触れた。もしふたりきりだったら、細い腰に腕を回して思いきり抱きしめてるんじゃないだろうか……愛未がそう思った瞬間、京本が華麗なバックステップで池田から離れ、池田を含む全員が目をみはった。
「す、すみません、池田さん……時間ですよね、行ってください。お待たせしました、平沢さん。わたしたちも会議室に行きましょう」
「あ、はぁ……」
平沢は遠慮がちに池田を見ながら、小走りで京本を追いかけた。
池田は無言で立ち上がり、「では」と言ってフロアを出ていった。幅の広い背中には、なぜか哀愁の気配が漂っていた。

それまで淡々と事務作業をしていた伊藤が、ギシッと背もたれを鳴らして呟いた。
「めずらしく本音が出ちゃったのかな、麻実ちゃん。ジャケットを引っぱられた瞬間、池田さん、ちょっと嬉しそうな顔したよね」
「えっ、そうですか? さすが伊藤さん。わたし、ぜんぜん気づかなかった。でも……そっか。やっぱり課長も、本音では池田さんを風俗に行かせたくないのよね」
「そりゃそうよ。でも上と協議した結果、うちの課の男性陣に池田さん以上の適任者がいないからという理由で、仕方なく受け入れたの。その晩は部屋でずっと泣いてたって、彼女の叔母さんから聞いたわ」
「そ、そうだったんですね……課長、かわいそう……」
「潜入捜査の日は、池田さんもいつも憂鬱な顔してるもの。世の男性、とくにサラリーマンには『キャバクラ行くのも仕事のうち!』なんてウキウキ行く人も多いけど、池田さんにとっては拷問に等しいと思うわ。早くほかに適任者が見つかったらいいんだけどね」
「それについては、ほんと申しわけないです、うちの弟が頼りにならなくて……母のお腹にいるとき、理性と知性はぜんぶわたしがもらい受けちゃったからなぁ」
伊藤と来夢の女子トークを聞きながら、愛未は父と母のことを考えていた。
度重なる父のキャバクラ通い、それを「仕事の一環」と言い張る父と母の大喧嘩、そして家庭崩壊……
一方、先ほどフロアの中央で目にしたのは、それとは真逆の光景だった。たったいま伊藤から聞いた話も。
あのふたりなら、自分でもいやというほど自覚している、男や愛に対する歪んだ価値観をぶち壊してくれるかもしれない。そうなったらどんなに爽快だろう。
愛未は秀麗な美貌に微笑みを浮かべ、デスクワークの続きを始めた。


こんな仕事、さっさとやめたい。ほかでもない、愛する彼女の頼みでなければ――
帰宅ラッシュで大混雑する新宿駅を出て、青信号になった花道通りの横断歩道を渡りながら、池田はため息をついた。

「どうして俺なんですか、麻実さん。うちの課には、ほかにも候補の男性職員がいるでしょう。平沢さんや来人くんなら喜んで行きますよ」
一年前、風俗店への潜入捜査について彼女から初めて打診されたとき、池田は傷ついた表情を隠せなかった。
京本はベッドの上で池田の手を握り、なだめるように言った。
「部長や主任とも話し合ったんだけど、捜査の難しさと成功率を考えたら、お願いできるのは抜群のルックスと知性を兼ね備えた大樹くん以外にいないの。過去の検挙率を見ても、大樹くんがうちの課内で断トツだし」
「けど……麻実さんは平気なんですか。仕事とはいえ、俺がそんな店に行っても」
京本は哀しげな微笑みを浮かべてから、池田の頭を優しくかき抱いた。そのまま裸の胸に引き寄せ、聞き分けのない子どもをあやすようになでてくれた。
先刻抱いたばかりの美しい肉体から、南国のフルーツのにおいがした。とれたてのみずみずしい果実は、一皮むけば熟れきった果肉が現れる。その甘さを堪能できる男は、この世で自分だけだ。
「わたしは大丈夫。大樹くんのこと、信じてるから。部下としても、恋人としても」
反論しようのない答え。池田は己の器の小ささを思い知った。
もし逆の立場で、彼女をホストクラブに潜入させるとしたら……そんなこと、想像するのも耐えられない。
頭を振ったはずみに、左乳房の傷痕が唇に当たり、動揺した心ににがさと切なさが広がる。鋭い刃物で刺したような痛々しい傷痕の理由は、この十年間ずっと聞けずじまいだった。無理に聞いたら、やっと手に入れた彼女との関係が壊れてしまう気がした。
池田は唇を噛みながら、贅肉の欠片かけらもない細い腰にしがみついた。「大好きよ、大樹くん」——京本が泣きそうな声で囁いた。


(第五話につづく)


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