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【小説】トレパク冤罪(第2話)

第四章 コスプレ・トラップ

(一)

橘が指定した二月二十日の午後、東京駅近くのカフェで彼女と待ち合わせた。
到着は俺のほうが早かった。案内された窓際の席に座り、スマホでネットニュースを読みながら待った。
十分ほどたった頃、横顔に視線を感じて顔を上げると、淡いブルーのスーツを着た、三十歳前後の髪の長い女が、恍惚とした表情で立ち尽くしていた。
「やっぱり似てますか? 日下部湊に」
俺のほうから水を向けると、向かいの席に座った橘かえでは、恥ずかしそうにうなずいた。
「ええ。さやちゃんに聞いてはいましたが、ここまでとは思いませんでした。お送りいただいたマイナカードのお写真は、スーツ姿でカチッとした雰囲気だったので……」
さやちゃん、という呼び方に、二人の親密さが表れていた。二次創作やSNSから始まった繋がりでも、さやかと彼女は学生時代からの友人のような関係だったのかもしれない。
「湊くんのファンは、原作でも指折りに美形な彼のビジュアルに夢中ですけど、さやちゃんは違ったんですね。湊くんが旦那さんに似ているから、好きになったんだと思います」
聞きながら、鼻の奥がツンと痛んだ。「抱擁をしたいときには妻はなし」……そんな言葉が脳裏をよぎり、霧のようにかき消えた。
それぞれ別のランチセットを注文し、あらためて挨拶をした。彼女の現住所が札幌だと聞くや、頓狂な声を上げてしまった。
「えっ……じゃあ、今日は札幌からからわざわざ来てくださったんですか?」
「あ、いえ。じつは私、中堅機器メーカーの営業をしてまして、本社が東京にあるので、月に一度は出張で来るんです。前回はさやちゃんと、彼女の会社の近くで待ち合わせてランチを食べて、午後のフライトで帰りました。今回も出張で来てるんです。ですので、お気にならさず」
にっこり笑った橘に、俺も微笑んでうなずき返した。
本社会議に出るために、毎月出張で東京に来るということは、相当優秀な社員なのだろう。さやかと馬が合ったのも、仕事がデキる女同士だからかもしれない。
話の接ぎ穂を探していると、橘のミックスサンドイッチが運ばれてきた。俺が手で促すと、橘は会釈をしてから卵サンドをつまんだ。
「白井さんにLINEでさやちゃんの訃報を告げられたあと、一晩中泣きました。悲しさより、さやちゃんを守りきれなかった悔しさのほうが大きかったです」
「俺もです。いや、俺の場合は悔しさより、情けなさのほうが大きいかな」
俺は自嘲のため息をついた。橘は小さくうなずき、咳払いをして先を続けた。
「翌日は会社を休み、Xのアカウントも消しました。もうこんな汚い世界にいたくない、あいつらがなんて言おうが知ったことかと思って」
緊張していた橘の口調が一気に乱暴になった。俺は不快どころか嬉しくなり、相好を崩してうなずいた。
「それが正解だと思います。さやかのアカウントは消してないので、いまだに続々と誹謗中傷メールが来ますから」
「捨て垢ってやつです。さやちゃんにブロックされた奴らが別のアカウントを登録して、そこから発射してくるんです」
俺はうんざりした気分でため息をついた。Xに生息するエイリアンどもはどこまでしつこく、そして暇なんだろう。しかもそいつらは、さやかが自殺したことも知らないのだ。苛立ちを噛みしめながらピザトーストにかぶりついた。
「さやちゃんがトレパク疑惑をふっかけられた理由は、ようするに嫉妬なんです。さやちゃんは『プティガト』の連載が終わってから二次創作を始めた、いわゆる『後発組』なんですけど、とにかく画力がずば抜けていました。Xに一枚目のイラストをアップして、たった一日でフォロワーが二千人を超えたほどなので、古くからいて彼女に負けた絵師さんたちは、面白くなかったと思います」
「さやかの画力や人気は、昨年十一月のエアイベントで俺も実感しました。イベント開始から終了まで、さやかの店にはずっと長蛇の列ができていた。さやか本人は、初めてなのに多く刷りすぎたと心配していた新刊も、たった数時間で売り切れました」
「ええ、知っています。あのイベントには私も一般で参加してたので。さやちゃんのお店、私が一番乗りしたかったけど、先客が一人いたんですよ。たしかアバターは、エプロンドレスの女の子だったわ。時計とにらめっこしながら開場をいまかいまかと待ってたから、すごく悔しかったな」
それ、俺ですと言うと、橘は、「やだ、目の前に本人がいたなんて!」と声を上げて笑った。
ランチを食べ終え、食後のコーヒーが運ばれてきたところで、本題に入ることにした。
「イベント終了間際に、さやかの店に向かって『ウザっww』と吐き捨てた絵師がいました。ペンネームは『バロン』です。ご存じですか?」
「もちろん知っています。さやちゃんにトレパク疑惑をふっかけた張本人です。あいつがあんなポストをしなければ、さやちゃんはいまも元気に湊くんの絵を描いていたと思います」
橘はナプキンで口を拭き、悔しそうに顔を歪めた。
「さやちゃんは、トレパクはもちろん、何一つ悪いことはしていない。純粋に湊くんが好きで、その気持ちを原動力に創作をしていただけです。それなのに、連中は『他人の不幸は蜜の味』とばかりに、よってたかって彼女を叩き、冤罪をかけて界隈から追放しただけでなく、ありとあらゆる手段で誹謗中傷を送りつけ、身も心もボロボロにして自殺にまで追いやった。そんなことが……許されるはずがありません」
「そのことなんですが、疑いを晴らすために、さやかにお絵描き動画を公開するようアドバイスしたのは、橘さんですよね?」
橘は目を見開いて俺を見た。「え、ええ……その件はすみません。出しゃばった真似をして……」
俺は首を振り、「責めてるわけじゃありません。むしろ感謝してるんです。あなたが最後までさやかの味方でいてくれたことを」と言った。橘はほっとした顔でうなずいた。
「さやちゃんにかけられたトレパク疑惑を晴らすには、もうそれしか方法がないと思ったんです。動画を見て、さやちゃんは白だって信じてくれた人もいましたけど、バロンをはじめとするmikaさんの信者は『この動画、絶対加工してる!』と決めつけて、なおも食い下がってきました。打つ手がなくなったさやちゃんは、それきり弁解をやめてしまって……それを降参だと解釈した連中が、『そら見ろ! やっぱり黒だったんだ!』と囃し立てて……私以外に彼女を擁護していた人たちも、手のひらを返してさやちゃんを攻撃しはじめたんです」
橘の話をメモしながら、シャーペンの芯を二回も折ってしまった。大方は峰岸から聞いていたが、それでもはらわたが煮えくり返る思いだった。
私があんな提案をしなければ……声を詰まらせ、ハンカチで目を押さえる橘と、あの晩暗い部屋でスマホを見つめながら、味方の裏切りを嘆いていたさやかが重なった。

〈なんでよ……なんであなたまで……ついこのあいだ、私の絵をリポストして、『ほかの誰にも絶対描けない唯一無二の湊くん』って言ってたじゃないっ……〉

「Xで『トレパク』がトレンド入りして、騒ぎが大きくなるにつれ、連中にとってトレパクが真実かどうかなんて、どうでもよくなっていったと思うんです。それよりも、どうすれば獲物を…さやかを地べたに這いずり回らせることができるか。どうすれば、より効果的にさやかのメンタルを破壊することができるか。奴らは飢えた犬が骨付き肉にむしゃぶりつくように、そのゲームに熱中していった。そのために、ありとあらゆるメッセージツールを使ってさやかを攻撃し、しまいには『家族もろとも公開処刑してやる』という脅迫文まで送りつけてきました。さやかが自殺したのは自分が逃げるためではなく、俺や母親を守るためだったんです。そして、さやかの母は女手ひとつで育て上げたひとり娘を失い、俺はこれからさやかと送るはずだった幸せな結婚生活も、彼女との間にできるはずだった子どもも、その先の未来も……すべてを奪われたんです」
橘はときおり相槌を打ちながら、独白のような俺の語りを黙って聞いてくれていた。
「脅迫文を送ったのも、バロンではないかと俺は考えています。バロンでなくても、このリストの中の誰かだろうと」
橘は近視用の眼鏡をかけ、俺が作ったリストを見ながらうなずいた。仕事中も眼鏡をかけているそうで、俺はまたも彼女とさやかを重ね合わせてしまった。
「かりに……もしかりに、こいつらを法廷の場に引きずり出せたとしても、死刑にすることはできない。死刑どころか、懲役刑や禁固刑だって無理です」
「そうですね。悔しいですけど……日本の刑事裁判は、加害者に優しいと言われていますから」
「でも、俺はあきらめません。法律が奴らを裁いてくれないなら、俺がこの手でさやかの無念を晴らします」
それが何を意味するのか、橘は即座に理解したようだ。眼鏡を外し、戸惑った表情で俺を見た。
一か八かの賭けだった。さやかのスマホで彼女にコンタクトをとったときと同じく。俺は橘が俺を警戒し、席を立って店を出て行ってしまうことも覚悟していた。
だが、ありがたいことに、彼女は今度も賭けにのってくれた。両手をそろえてテーブルに置き、真剣な目で俺を見た。
「白井さん、私にもお手伝いさせてください。こいつらはもうさやちゃんのことも忘れて、今日もせっせと湊くんの絵を描いたり、買ったグッズの自慢話をしているにきまってます。それを思うと、私も怒りで気が狂いそうなんです」
「ぜひお願いします。でも橘さんには、俺がこいつらと接触するきっかけを作っていただくだけで十分です」
「……わかりました。であれば、年に数回、ビックサイトで行われる同人即売会が絶好のチャンスだと思います。ちょっと待ってください、いま調べてみますから」
橘はスマホを操作し、一度消したXのアカウントを別のユーザーネームで取り直した。俺は彼女の横に座り、同じ方向からXを閲覧した。
「一番近いのは、ゴールデンウィークに開催されるイベントで、このリストに名前が載っている絵師のほとんどが参加表明をしています。残りの絵師や字書きも、当日は一般参加で行くと呟いてます。サークル参加者を〇、一般参加者を△にして、リストにチェックを入れてみましょう」
橘は左手でスマホを操作しながら、右手のボールペンでリストにマークをつけていった。十分ほどで作業は終わり、全員に〇または△がつけられた。
「やっぱりです。イベントには全員来ますね」
橘は微笑んで、ボールペンを胸ポケットに戻した。まるで時代劇の殺陣シーンで、襲いかかる敵を全員成敗した侍のようにカッコよかった。
「私、これまでに三回ほどサークル参加していますから、全員の顔を覚えています。一緒に写真を撮った人もいるので、あとで名前を入れた写真をLINEで送ります」
「助かります。じゃあ、俺もイベントに一般で入場すれば、こいつらと接触できるってことですね」
「ええ、そうですね。でも……」
なぜか橘は言い淀み、俺の顔をまじまじと見た。俺が首を傾げると、彼女はぱっと目を逸らし、左胸を押さえて咳払いをした。
「あ、あの、白井さん……一般ではなく、私と一緒にサークル参加しませんか?」
「え、サークル参加……ですか? でも俺、さやかと違って、絵のほうはからきしですよ」
困り果てて頭をかくと、橘はくすくす笑って言った。
「絵なんて描かなくて大丈夫です。白井さん自身が作品なんですから」

(二)

「なるほど……それで佑真くんは、日下部湊のコスプレをする羽目になったと。まさに瓢箪から駒ね」
俺の頭にライトブラウンのウィッグをつけながら、香さんがしみじみと言った。
日下部湊が「ボーイフレンドショート」という髪型だということを、香さんに説明されて初めて知った。生まれて初めて頭にかぶせたウィッグは、少しだけこめかみに締めつけ感があるものの、しっくりと地肌に馴染んで、思いのほかつけ心地が良かった。これならイベント開始から終了まで、違和感や頭痛がする心配もなさそうだった。
「そうなんです。でもコスプレって言われても、いったい何をどうすればいいかぜんぜんわからなくて……不躾ながらお義母さんに助けを求めたしだいです」
橘と会った日の夜、俺が電話で泣きつくと、香さんはすぐに専門の業者から日下部湊風のウィッグを取り寄せてくれた。パティシエ風の衣装も、知り合いが経営するアパレル会社に頼んで、たった二日で用意してくれた。
今日は香さんが仕事場として賃貸している平屋の一戸建てにお邪魔している。中央線三鷹駅から歩いて十五分ほどの場所で、けっして交通の便がいいとは言えないが、美容師としての香さんの腕前に惚れ込んでいる客たちで、予約はつねにいっぱいだという。周囲にはのどかな田園風景が広がり、家の周囲も生い茂る樹木や草花に包まれていて、まさに隠れ家という表現がしっくりくる。
家の中は隅々まできれいにリフォームされていて、とても築四十年の物件とは思えない。居間を仕切るカーテンの向こうにはシャンプー台もあり、カットやパーマはもちろん、着物の着付けやメイクまで、この空間ですべてこなせるという。さやかはここによく髪を切りに来ていたそうだが、俺は今日が初めてだった。
「あたしも三十年美容師やってるけど、コスプレの手伝いは今回が初めてよ。まあ、佑真くんはもともとが日下部湊にそっくりだから、そんなにやることもなさそうだけど」
香さんが俺と交互に見比べているのは、アニメ版『プティガト』の公式HPに載っている日下部湊のイラストだ。当然だが、アニメ画と実在の人間では、髪や肌の色がぜんぜん違う。生身の人間である俺を日下部に近づけるには、容姿以上に色味の調整が肝要だと思った。
「よし、まあこんなもんでしょ」
メイク道具を置いた香さんが、三歩下がって品定めするようにじろじろと俺を見た。
俺も手鏡を借りて仕上がりを確認した。「えっ、これが俺⁉」というほどの変身はしていない。さやかや橘、峰岸が言ったように、俺が日下部にそっくりなら、むしろ変身しては困るのだ。でも、アニメっぽくはなった気がする。
「メイクはホントに最低限のことしかしてないよ。毛穴隠し用のパウダーをはたいて、目力アップのためにアイライナーを引いて。あとは顔全体に立体感を出すために、ハイライトとシェーディングを入れたの。それだけ」
それだけでも、俺には香さんが何を使って何をしたのか、さっぱりわからなかった。これは由々しき事態だ。
「あの、お義母さん」
「ん、なに?」
「えーとですね、橘さん情報によると、イベント当日、コスプレ参加者は館内の更衣室で着替えなきゃならないそうです。更衣室はもちろん男女別です。なので申しわけありませんが、俺が当日一人で準備できるよう、メイクの仕方やウィッグの付け方を紙に書いてもらえませんか? できればイラスト入りで」
「えー、そんなの、あたしが男装すればいい話じゃない。でしょ?」
「あっ、そっか」
ぽん、と手を打った俺に、香さんは笑いながら釘を刺した。
「あたしが女だってバレないように、当日は『お義母さん』じゃなくて『先生』って呼びなさいよ」

(三)

 その晩自宅に帰ってから、俺のコスプレ写真をLINEで橘に送ってみると、電工石火で返信が来た。
〈カッコいい! まさに湊くんです! こちらの写真をXにアップしてもよろしいですか? 反響の大波が押し寄せると思います〉
〈Xにですか? いや、それはちょっと怖いな……〉
〈お気持ちはわかります。でも、まったくの無名でイベントに参加するより、事前にある程度白井さんの存在を知られていたほうが、当日もスムーズに事が運ぶと思います〉
〈そういうものなんですか。わかりました。橘さんにお任せします〉
橘の言葉どおり、俺のコスプレ写真にはあっという間に数千もの「いいね」がついた。コメント欄には〈なにこれイケメン!〉〈みみみみみ湊ぉぉぉっ!〉〈やばっ、心臓もたな……〉などの賞賛(なんだろう、きっと)が溢れ返った。
一人きりの部屋でカップラーメンをすすりながら、それらの反響をひとごとのように眺めた。俺にはもちろんわかっていた。賞賛されているのはあくまで日下部湊で、俺は奴のコピーにすぎないことを。日下部抜きで俺を愛してくれたのは、さやかだけだということも。
ラーメンを食べ終わると、橘にならってコメントとリストを突き合わせ、コメントをした奴の名に※マークをつけた。写真アップから一時間足らずで二十五人中二十三人にマークがついた。
〈かっこよ! イベントで会ったら絶対失神するww〉とコメントしたのはバロンだった。
「失神? 死ねよクソアマ」
毒を吐いてXを閉じ、代わりにさやかとの共有アルバムを呼び出した。強い孤独感に襲われたり、気分がふさぎ込んだとき、在りし日のさやかの写真を眺めて自分を慰めた。
何度もスワイプして行きついたのは、まだ付き合い始めて間もないころの写真だった。セルフタイマーの撮影直前、さやかにいきなり腕を組まれ、俺はふてくされた表情でそっぽを向いた。
どうしてこんな顔をしてしまったかといえば、ようするに照れだった。俺の腕がちょうどさやかの胸の谷間に挟まって、それが嬉しくて恥ずかしくて気持ちよくて……でも、デレッとした顔で写りたくなくて、とっさにこんな表情になったのだ。
「ごめんなさい、白井さん。お付き合いして間もないのに腕なんか組んで、図々しかったですよね……」
撮影のあと、写真を確認したさやかに頭を下げられ、「いや、気にしなくていいよ」などと返してしまった。カッコつけるにもほどがある。さいわい、さやかはほっとした顔で笑ってくれたけれど。
「ごめんね、さやか。あのとき、本当はすごく嬉しかったんだ」
泣きながら、さやかの遺影に頭を下げた。クリーム色の額縁の中で、さやかは静かに微笑んでいた。


第五章 ビックサイトで網を打つ


(一)

五月四日、イベント当日の午前九時。
俺と香さんは、ビックサイトの最寄り駅である国際展示場駅に着き、改札の外で待っていた橘と合流した。香さんと橘は初対面だったが、俺を介してLINE交換もしていたので、まるで叔母と姪のように打ち解けた雰囲気だった。
サークル参加はチケット一枚につき、三人まで参加が認められるので、今日は香さんにも販売を手伝ってもらうことになっていた。
「手伝うのはいいんだけど、こんなイベントにあたしみたいなおばさんがいていいのかしら?」
「ぜんぜん大丈夫です。最近は参加者の平均年齢も上がっていて、四十代や五十代の人も珍しくないんですよ」
「そうなんだ……どこも高齢化が進んでるのね」
二人の会話を聞きながら、俺は周りを見回してみた。駅からビックサイトに向けて歩く女性の大群の中には、香さんや俺の母親くらいの年嵩の女性も少なくないのか。これはちょっと、いや、かなり驚きの事実だった。
でも考えてみれば、若い男性アイドルにしても俳優にしても、写真集を出すほど人気のフィギュアスケーターだって、いまや若い世代より金銭的に余裕のある中高年のファンに支えられているといっても過言じゃない。それはアニメやゲームの世界だって同じことで、もしこの人たちが一斉に推し活をやめたりしたら、業界の、ひいては日本の経済的損失は計り知れないだろう。
そんなことを考えているうちに、ビックサイトに到着した。「私は先に会場に入って、スペースの設営をしておきます」と言う橘と途中で別れ、香さんと俺は男子更衣室に入った。
香さんの男装がバレないかどうか心配したが、結論から言えばまったくの杞憂に終わった。それより問題だったのは、更衣室が着替えやメイクをする男たちで、ものすごく混みあっていたことだ。世の中にこんなにおおぜいの男性コスプレイヤーがいることに、俺も香さんも驚嘆しないわけにいかなかった。
「す、すごいですね……男のレイヤーなんて俺くらいしかいないんじゃないかと不安がっていたのが、逆に恥ずかしいくらいです」
「そうね……昔は沢田研二が化粧しただけで騒がれたのに、日本も変わったもんだわ。とにかくちゃっちゃと終わらせましょ。こんなところに長居は無用よ」
いつもは一軒家でゆったりと仕事をしている香さんは、この芋洗い状態に早くも辟易したようだ。手際よく五分足らずでメイクを済ませ、早々に部屋を出た。
南館四階の会場に入り、橘の待つサークルスペースに向かった。
橘から「同人誌即売会は、女オタクたちの夢の祭典」と聞いていたので、ディズニーランドのシンデレラ城のようにエレガントで乙女チックな会場を想像していたのだが、実際はまるで巨大な倉庫のように殺風景だった。まあ、考えてみれば当然だ。ビックサイトはなにも同人誌即売会のために建てられた施設ではないのだから。
広大な会場には、ふつうの会社にあるような会議机やパイプ椅子がいくつも並んでいる。橘の話では、一つのサークルに与えられたスペースは机の半分しかないので、販売する本や、キーホルダーなどのグッズの種類が多い場合は、設営にそれなりの工夫が必要だという。
俺の視界から見えるかぎりでは、スペースの設営作業をしているのはほぼ全員が女性だった。これも予想と違って、にこやかにお喋りしている人は少なく、みな真剣な顔で机に布をかけたり、段ボールから出した本を並べている。スマホの操作だけですべてが完結してしまうエアイベントと違って、リアルイベントの準備は相当な労力と気合が必要なようだ。
サークルスペース一帯には、ところどころに大きなポスターが掲げられている。ポスターのほとんどはフルカラーで描かれた男性キャラで、どれもプロ顔負けの美しさだった。なかには半裸の男同士が抱き合う、ちょっと正視できないようなイラストもあった。俺は本能的に見ないふりをしたが、香さんはわざわざ近寄っていってまじまじと見つめ、「あたし、ボーイズラブに偏見もってたけど、これだけイケメン同士なら許せるかも」とはしゃいだ声を上げた。
「橘さんが待ってますよ。早く行きましょう」
俺が腕を引っぱると、香さんはしぶしぶその場を離れた。俺に「イベント中は『先生』と呼べ」と釘を刺したくせに、「あたし」とか言っちゃってるし。
まだ一般参加の入場前だというのに、会場はすでに異様な熱気に包まれていた。さっきの半裸ポスターと同じく、好きな人にはたまらないだろうが、俺にはどうも肌に合わなかった。
「『こ』の二十四、『こ』の二十四……あ、あそこですね」
やっとテーブルの番号札が見つかった。橘もこちらに気づき、「ここですここです!」と手招きしてくれた。
俺たちのスペースは「誕生日席」といって、複数のサークルが集まった「島」と呼ばれるエリアの端っこに位置し、それなりに売れるサークルが配置されることが多いという。
「やっぱり、Xでの宣伝効果は絶大でしたね。『kuroさんはまだですか?』って、周りのサークルさんたちがひっきりなしに来るんですよ」
kuroというのは「日下部湊界隈」における俺のコードネームだ。「本名でイベントに出たらまずいでしょう?」と橘にあたりまえのアドバイスをされ、悩んだ末に高校時代に好きだったバンドのギタリストから拝借させてもらった。
テーブルに自分の小説を並べながら、橘は吐き捨てるように呟いた。
「あの人たち、私のことは絶対裏でボロクソ言ってるでしょうけど、相方が『推し』そっくりのイケメンさんとなると話は別なんでしょうね。興奮したあいつらの鼻息で、値札が吹き飛びそうでしたよ」
あ、そうか……その言葉で俺はやっと気がついた。そして、鈍すぎる自分を蹴りたくなった。
橘はさやかの友人で、最後まで彼女をかばってくれた唯一の味方だ。ゲスどもの集団リンチでさやかが壊れてしまったあとも、橘はずっとさやかの弁護をしてくれていたのだ。そんな経緯の後にイベントに出れば、またゲスどもに悪く言われるに決まっている。
それなのに、橘はそんなことは一言も言わず、自分と一緒にサークル参加することを俺に勧めてくれた。周りが敵だらけという状態で、はるばる札幌から飛行機に乗ってここに来るまでに、どれほどの勇気と覚悟が必要だっただろう。俺は周囲に気取られぬよう、心の中で彼女に礼を言った。
それから、三人で手分けをして設営を完了した。テーブルの真ん中の一番目立つところに、日下部にコスプレした俺のポストカード三種セットを並べた。
芸能人でもないのに、自分が写ったポストカードを作り、それを見ず知らずの女に売るなんて……と難色を示した俺に、橘はLINE電話で容赦なく勧告してきた。
「あのですね、白井さん。サークル参加の告知だけして、当日なにも販売しないのはタブー、下手したら炎上案件です。それになにも、写真集を出せと言ってるわけじゃないんですから」
それでも煮え切らない俺に業を煮やした橘が、出張で上京した際に、レイヤー御用達の撮影所に俺を引っぱっていった。撮影後、すぐに印刷所に写真を入稿し、一週間後に完成したポストカードが俺の自宅に送られてきた。
「いいわねぇ、このポスカ」
「ですよね! 瞬殺で文句言われても困るから、ちょっと強気に三百セット刷っちゃいました」
見本のカードを見ながらはしゃぐ二人の横で、「こんなのが売れるんだったら、世の営業マンは苦労しないよ」と俺は暗い目で呟いた。
最後に橘が、テーブルの右端にアクリル製のスタンドを置き、目を閉じて手を合わせた。首を傾げつつ覗き込むと、スタンドの中には小さな色紙が挟まれていた。ひと目でさやかが描いたものとわかる日下部のイラストに、「きつつきさんへ 愛を込めて♡ saya」とメッセージが添えられていた。
「さやちゃんと一度だけランチをしたときに、即興で描いてもらったんです。私の一生の宝物です。今日のイベントも、ホントはさやちゃんと出たかったな……」
ハンカチで目頭を押さえる橘に、かすかな嫉妬と羨望を抱きながらも、彼女の横で俺も黙とうを捧げた。
十時三十分になった。開場のアナウンスが流れ、サークル参加者からイベント開催を祝う拍手がわき起こった。
アナウンスと同時に、周りの女たちが我先にと俺のスペースに押し寄せ、あっという間に長蛇の列ができた。そこに一般の客も加わって列はさらに長く延び、背伸びをしても最後尾が見えないほどになった。
「予想以上の人気ですね。周りのサークルからクレームが来ちゃうかも……香さん、申しわけありませんが、隣のスペース前にはみ出さないよう、並んでる人たちに注意喚起をお願いできますか?」
「あいよ!」
橘の頼みに応え、香さんが威勢よく飛び出していった。ポストカードや小説の販売は、橘が手際よくさばいていった。
俺には俺の仕事があった。それこそが今日ここに来た目的だ。コスプレやポスカの販売は、そのための布石にすぎなかった。
テーブルの左端に置いたカードを指さし、八年間の会社経験で培った営業スマイルを振りまきながら、ポストカードを買い終わった客一人ひとりに声をかけた。
「こちらに僕のLINEのQRコードが載っています。よろしければ、お友だちになってくれませんか?」
目の色を変えてカードに手を伸ばす女たちが、俺には餌の入った捕獲網の中に突進する魚に見えた。

(二)

イベント撤収後、国際展示場駅にほど近いレストランに入った。時刻は午後二時を過ぎていた。イベント中は水分補給しかしなかったので、三人ともお腹がペコペコだった。
「あー、疲れた疲れた。たかだかポストカードを売るのに、こんなにくたびれるとは思わなかったわ」
冷水を一気飲みしたあと、片手で肩を揉む香さんに、橘が笑ってうなずいた。
「開場から完売まで、ずっと列が途切れなかったですからね。三百セットでも足りないなんて、イベント初参加で大快挙ですよ、白井さん。今日参加したコスプレイヤーの中では、間違いなくトップだと思います」
「はあ、そうですか……」
気のない返事を聞いて、橘がコホンと咳払いをした。今回のイベント参加の目的はポスカ完売ではないことを思い出してくれたようだ。
それぞれの料理が運ばれてきた。三人ともお腹が空きすぎていたので、食欲のままに黙々と食べた。
食後のドリンクを飲みながら、次の作戦に向けた会議が始まった。橘は今夜はホテルに泊まり、明日は友人と観光をして夕方の便で東京を発つが、札幌に帰ってもできるだけのことをすると約束してくれた。
まずは、俺の「kuro」名義のLINEに、新たに「友だち登録」されたメンバーをチェックした。数えてみると、百人を超えていた。この中に、Xやピクシブからさやかに誹謗中傷メールを送った奴が全員含まれているはずだ。
「たった三時間半で、百人以上の女子とLINE交換か……すごいわねぇ、佑真くん。ダンナがこんなにモテるんじゃ、さやかも気が気じゃなかったでしょうね」
「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。『白井佑真』の俺はぜんぜんモテないし、一生さやかひと筋ですから」
むきになって言い返すと、なぜか香さんが悲しげに微笑んだ。
橘は眼鏡をかけ、俺のスマホ画面を見ながら、友だち登録された名前と電話番号を「公開処刑リスト」に書き込んでいった。
「名前は、本名での登録が半分、残りはペンネームですね。でも、全員の電話番号は掴んだ。これは大きいですよ」
香さんが俺の顔を覗き込んできた。
「ねえ佑真くん。あなたの次の作戦って、この子たち一人ひとりに電話をかけて、デートに誘って、そこで……ヤるの?」
「ヤるって……お義母さん、どっちの意味で言ってます?」
「もちろん、気持ちいいほうじゃなくて、痛くて怖いほう」
「……そうしたいのは山々だけど、暗殺のプロでもない俺には難しいと思います。一人目で足がついて捕まっちゃいますよ」
香さんがズズッと音を立て、ストローでコーラを吸った。俺と橘はホットコーヒーを飲んだ。
しばらくして、香さんがうなずいた。
「たしかにそうだね。じゃあ、暗殺のプロに頼むの?」
「いえ。それはさすがに破産しますし、人によって罪状も違います。ヤるなら、さやかの自殺の原因をつくったバロンです。ほかの奴らは、社会的に抹殺するだけで十分だと思います」
「社会的に抹殺? それって、具体的に何をするの?」
その先の説明は橘が引き受けてくれた。この案を提案してくれたのも彼女だった。
橘の説明を聞き終えた香さんが、複雑な表情で腕組みをした。
「……なるほど。それはたしかに『社会的抹殺』だわ。でも、果たしてうまくいくかしら? だって現時点では、この人たちの住所もわからないわけでしょう?」
「はい。住所を知るためには、興信所への依頼が必要になります。電話番号はわかっているし、住所を知りたい理由として『家族を自殺に追いつめた人たちに対して法的措置をとりたい』と話せば、引き受けてもらえると思います」
「なるほど……ちなみに、興信所の依頼料って、いくらぐらいかかるのかしら?」
「全部で二十五人分として、多く見積もっても三百万円前後かと。その点は、白井さんにも確認いただいてます」
橘と俺は目を合わせてうなずいた。香さんは思案顔で黙り込み、やがてぱっと顔を上げた。
「三百万ね……オッケー。そのお金、あたしが出すわ」
「そんな! いいですよ、お義母さん。さやかの復讐だって俺が言い始めたことですし、お義母さんにはコスプレを手伝っていただけただけで十分です」
「いいのよ。初孫のために貯めておいたお金だから……もう使い道がなくなったから、せめてさやかの無念を晴らすために使わせてよ」
「お義母さん……」
香さんへの二重の申しわけなさで胸が詰まった。最愛の娘を守りきれず、初孫を抱かせてあげられなかったことを。橘も泣き出してしまい、ハンカチを目に押し当てて嗚咽をこらえていた。
「ごめん、湿っぽくしちゃったね。さ、作戦会議の続きをしようか」
香さんに促され、泣き止んだ橘が補足の説明を始めた。
老眼鏡をかけてリストを見ていた香さんが、ちょんちょん、と俺の肩をつついてきた。
「ねえ佑真くん。私の記憶がたしかなら、このmikaって人、一回もXとかにさやかの悪口を書き込んでなかったよね? 佑真くんが転送してくれたスクショに、この人のは一個もなかった気がするもの」
「言われてみれば……同僚の峰岸の話では、ほかの奴らがもれなくmikaの信者だから、mika本人も当然書き込んでいると思って、リストに入れちゃいました」
「何もしていない人に復讐っていうのもどうかと思うし、さやかがかけられたトレパク冤罪も、取り巻きたちが勝手にしたことだとしたら、mikaさんは標的から外すべきじゃない?」
「そうですね……じゃあ橘さん。封筒の送り先、mikaは外してください」
「わかりました……でも、変ですね。mika本人が騒いでいないのに、なぜ彼女の信者たちは、あれほど執拗にさやちゃんを攻撃してきたんでしょう……」

(三)

それからひと月後。バロンをのぞく「公開処刑リスト」の標的たちは、まるで申し合わせたように次々とXのアカウントを消した。
彼女らの最後の呟きは〈一身上の都合により、本日をもってこちらのアカウントを消すことにしました〉や〈さようなら。いままでお世話になりました〉などの類で、無言で消えた者も数名いた。
橘が提案・実行してくれた「社会的抹殺」の方法は、簡単に言うと「標的たちの自宅や職場に、奴らが描いたエロ漫画を送りつける」というものだった。きわめて低俗で下劣な方法だが、いわれのない冤罪で自殺したさやかの復讐を果たすには、こちらも手段は選んでいられない。それに成功すれば、三百万円前後の金銭的負担だけで、一片も手を汚すことなく奴らのメンタルや家族との信頼関係、および社会的地位を破壊することができる。裁判に勝訴してなけなしの賠償金をもらうより、はるかに胸のすく方法だった。
さいわいというべきか、標的の全員が、日下部湊のエロ漫画をイベントや通販で販売したり、フォロワー限定ではあるもののネット上で公開していたので、ブツの入手はたやすかった。
「発送する前に、白井さんも彼女たちの漫画を見てみますか?」と電話で橘に訊かれたが、断固として拒否した。なにが悲しくて、自分そっくりの男キャラが夢中で腰を振ってる漫画を読まなくてはならないのだ。「湊くんがされてる・・・・ほうの漫画もありますよ」と言い添えた声には、俺をわざと怒らせて楽しんでいる匂いがした。
標的の全員がXのアカウントを消したことを確認した、その翌週の日曜日に、橘が俺のマンションにやってきた。さやかの弔問と、俺への事後報告のために。
リビングに入ってすぐ、橘は「さやちゃん!」と叫んで泣き崩れてしまった。故人として祭壇に祀られているさやかを見て、親友の死を実感として理解したのだろう。俺はあえて彼女を一人にし、キッチンに入って昼食の仕上げにとりかかった。
料理は先月半ばごろから再開していた。香さんとは相変わらず毎晩一緒に夕食を食べていたが、レトルト食品やスーパーの総菜にもいい加減飽きてきた。会社を辞めてから時間をもてあまし、料理くらいしかすることがないという理由もあった。
リビングに昼食を運んでいくと、橘はハンカチで目を押さえながら、「取り乱してごめんなさい」と頭を下げた。
「いえ、むしろお礼を言いたいくらいです。身内以外でさやかの死をこんなに悲しんでくれるのは、あなただけですから」
俺が作ったスパゲッティカルボナーラを、橘はさかんに褒めてくれた。「ベーコンをよく炒めることと、卵黄と生クリームの配合がコツです」と言うと、料理の写真とともに、俺の説明をメモアプリに記録した。
食後のコーヒーを飲みながら、橘が「社会的抹殺作戦」の顛末を話しはじめた。
「興信所の調べによると、標的の全員が職場を退職したそうです。既婚者のうち、家族に隠れて二次創作をしていた三名が離婚。独身者のうち四名が実家から出て、一人暮らしを始めています」
「全員が退職ですか……お見事です。勝算はあったんですか?」
「ええ。勤め先の上司に、自分の顔写真つきのエロ漫画を突きつけられてしらばっくれられるほど、神経の太い人間はなかなかいませんから。写真は、作戦の破壊力を倍増させるために、あとから思いついた武器です。まだ彼女たちと仲がよかった頃に、イベントやその後の食事会で一緒に撮ったものと、手元にない人の分は興信所に入手をお願いしました」
俺は橘の頭の切れ具合に感服した。同時に、絶対に敵に回したくない女だと思った。
「漫画の中には性器のモザイク処理をしていない絵もあったので、当人は穴があったら入りたいどころか、机に頭を打ちつけて死にたくなったと思います」
そこまで話すと、橘はふっと微笑んだ。「ざまあみろ」という笑い方だった。
「封筒が本人の手にわたってしまうと作戦は失敗なので、宛先は本人以外の人間にしました。興信所に追加の料金を支払い、同居人や上司の名前を調べてもらったんです。それでも予算内におさまったので、その点は安心してください」
俺はうなずいた。橘が興信所に支払った費用の領収書は、すべて香さんに送付され、俺も内訳を確認している。
「これだけでも彼女たちのメンタルと生活を破壊する自信はありました。でも、それだけでは面白くないと思い、もう一つ策を仕掛けました。なんだと思います?」
「まったくわかりません」
「諦めが早いですね。少しは考えてくださいよ」
橘が呆れた顔でため息をついた。でも目は優しく笑っていて、こういうところもさやかに似ていた。
正解を言う前に、橘は鞄から四つ折りにしたA3のコピー用紙を取り出し、広げてテーブルに置いた。紙いっぱいに大きな楕円が描かれているが、それを構成しているのは、橘が封筒を送った標的二十四名の本名と、それぞれの名前の間に記された右向きの矢印「→」だった。
「矢印の左側が封筒の送り主、右側が封筒の宛先を表します。わかりやすいようにアルファベットで説明すると、AはBに封筒を送り、BはCに、CはDに……最後に、XがAに送る、となります。もちろん、実際の送り主はすべて私で、封筒の裏書きをいじっただけです。本当はいけないことですけど……それと、相手の本名を知らない人もいるので、裏書きにはペンネームも入れておきました。白井さん、これがどういうことか、わかりますか?」
「え、えっと……つまりこういうことですよね? Bを例にとると、上司や家族から自分の描いたエロ漫画を突きつけられたBは、当然大パニックになる。そして、こんなものを送ってきた奴は誰だと憤り、封筒の裏書きを見る。そこにAの住所と氏名、ペンネームが書いてあるので、Bは当然、送り主はAだと思い込む……」
「そうです。いま白井さんが仰ったことが、AからXの全員に起こったはずです。結果として、誰もが誰かの加害者になり、同時に被害者になった、ということです」
そういうことか……ぐるぐるしていた頭の中を整理し、橘に向けてうんうん、とうなずいた。
「作戦の内容は理解できました。そうすると、BはAを責めると同時に、Cから責められることになりますね」
「そうです。彼女たちはLINEや電話で繋がっていますから、ふつうに考えれば被害者側が加害者側にLINEなり電話をしたはずです。しかし、相手からすれば身に覚えがないことを責められるわけですし、自分は自分で同様の被害を受けている。いったいなにがなんだかわからない……大混乱に陥った彼女たちの間で、壮絶な罵り合いが展開されたはずです」
「な、なるほど……」
「もし勘の良い誰かが、『これは部外者の仕掛けた策略ではないか』と気づいて、それが誰なのかを突きとめようとしたとします。しかし内容が内容ですから、警察に被害届を出すわけにもいかないし、同じ理由でXにポストもできません。情報や同情を集めるどころか、生き恥をさらすだけですから。そこまで予測を立て、失敗する可能性はゼロだと判断したので、この作戦を実行することにしました」
以上で報告は終わりです、と満面の笑みで締めくくった橘に、「お、お疲れ様でした。このご恩は一生忘れません」と頭を下げた。やはり、絶対に敵に回したくない女だ。
西日が沈みはじめた頃、橘を最寄り駅まで送っていった。今回は俺に会うためだけに来たので、このまま羽田に直行して、午後八時の便で札幌に帰るという。
改札での別れ際、橘は寂しそうに微笑んだ。俺もとても寂しかった。彼女に会うのも、これが最後になるだろう。どちらからともなく握手を交わし、「元気で」と互いの肩を叩いた。
「残る標的は、トレパク冤罪の首謀者であるバロンですね。なにか私にお手伝いできることはありますか?」
どこまでも親切な女性だ。だが、俺は即座に首を振って答えた。
「いえ。お申し出はありがたいですが、バロンは俺だけで仕留めます。さやかの夫として、これだけは誰にも譲れません」


第六章 殺意こそ愛


(一)

興信所の調査によれば、バロンこと木元真由の年齢は三十八歳。独身の一人暮らしで、住所は中野区鷺宮、仕事は個人病院の医療事務ということだった。
年齢や職業はさておき、住所が中野区と知って安堵した。彼女と接触するために、最悪北海道や沖縄への遠征も覚悟していたからだ。
一緒に夕食を食べているとき、興信所の調書を見ながら香さんが言った。
「近場の人でよかったね、佑真くん。この子とヤるとき、三鷹のあたしの仕事場を使いなよ」
「お義母さん。この子と、じゃなくて、この子を、に言い直してください」
俺は苦い顔で手を差し出した。香さんは「ごめん、いまのはホントに言い間違えた!」と、俺とさやかの遺影に謝ってから、仕事場の鍵を渡してくれた。
俺が木元真由をデートに誘ったのは、それから二週間後のことだった。
あとから知ったが、五月四日のイベントで、俺のスペースに真っ先に並んだ客が木元だった。〈はわわ……超イケメン湊レイヤーのポスカを一番にゲットしてもうた……〉という木元のXのポストを、橘はうんざりした顔で見せてくれた。
木元に電話をかけたとき、俺はまずその話を持ち出した。バロンの本名については、もちろん知らないふりをしたが、本人から難なく聞き出せた。
「木元さんのことは、ほかの誰よりもはっきり覚えています。初めてのイベント参加の、初めてのお客様だったので」
「そっ、そんなー、嬉しすぎますー! ていうかkuroさん、電話のお声もめちゃくちゃセクシー! 録音したいくらいですぅ!」
木元の喋り方は、金切り声で有名な女芸人そっくりだった。いまどきの女子高生だって、もっと落ち着いた話し方をするだろう。興奮による上擦りもあいまって、非常に聞きとりづらかった。
さやかの遺影を見て気合いを入れ直し、用意した台本を読み上げた。
「木元さん、もしよろしければ、もう一度お会いできませんか? イベントでは、ゆっくりお話しする時間がなかったので」
「で、でも……イベントでは、kuroさん、おおぜいの女性とLINE交換されてましたよね? ほかの女性もこんなふうに、デートに誘っているんですか?」
すぐに飛びついてくるかと思ったが、意外にも木元は慎重な反応を示した。声も一オクターブ下がり、探るような口調になった。
面食らって黙り込んでいると、木元のほうから言葉を継いできた。
「あ、ごめんなさい! べっ、別にいいんです、私! kuroさんに憧れている湊ファンはおおぜいいますから。kuroさんに誘っていただけただけで、天にも昇る気持ちです!」
脱線しかけたシナリオが軌道修正された。俺はほっとして、台本の続きを読んだ。
「よかった、OKしていただけて。じゃあ来週の週末、ディナーにお誘いしてもいいですか?」
「ディ、ディナーですか? う、うれしい! ぜひお願いします!」

(二)

予約していたイタリアンレストランでの食事中、木元はずっと熱に浮かされたような顔で俺を見つめていた。パスタを巻いたフォークを手にしたまま、目線は向かいの席で食事をする俺に釘付けだった。
気まぐれに俺が目を向けると、慌てて目を逸らし、フォークを口に運んでちゅるちゅるとパスタをすする。俺が料理の皿に目を落とすと、また視線を向けてくる。ずっとその繰り返しだった。
木元の緊張とどもりがすごいので、会話もままならなかった。仕方なく俺は黙ってワインを飲み、パスタを食べつづけた。
「すみません、木元さん。さっきの料理、お口に合いませんでしたか? デートの前に、お好きな食べ物を聞いておけばよかったですね」
会計を済ませて店の外に出たあと、しょんぼりした顔で謝ると、木元は鞄が俺に当たりそうなほど両手を振り回して言いわけをした。
「あっ、ちっ、違うんです! い、いつもは私、め、めちゃくちゃ大食いなんですけど、きょ、今日はkuroさんに見惚れちゃって……む、胸もお腹もいっぱいになっちゃって……」
「……そうですか、ならよかった。僕はお腹は膨れたんですけど、グラスワインだけじゃ飲み足りなくて……もしお時間が許せば、二軒目に付き合っていただけませんか?」
ベストセラー『ホストに教わる! 絶対落とせる口説き文句』に出ていたフレーズだ。「口下手な佑真くんのために買っておいたわ。木元に会うまでに、これでしっかり勉強しておくように!」と香さんに渡されたのだ。できるだけ甘い声音を意識し、日下部風のにっこり笑顔も忘れなかった。
木元の反応は凄まじかった。顔の紅潮も鼻息の荒さも口のどもり具合も、それまでより格段に激しくなった。
「じっ、時間はぜんぜん大丈夫です! あっ、じゃ、じゃあ……バ、バーにでも……行きましょうか……わ、私……お酒は強くないんですけど……ビ、ビールか、甘いカクテルなら……」
「う~ん、バーもいいですけど……よかったら僕の家に来ませんか? 酔ったり眠くなったら、ソファか僕のベッドを使ってもらえばいいし。ただ……朝まで何もしないって保証はできないですけど……」
木元が弾かれたように顔を上げた。俺はぱっと顔をそむけ、咳払いをして照れているふりをした。これも本に載っていた「テクニック」だ。
「く、kuroさん……あ、あの……それって……」
「恥ずかしいから二度は言わせないでください。木元さんが嫌なら、無理には誘いません」
い、いやじゃないです……と答えた木元は、膝が震えてまともに立てなくなった。妄想の世界で何百回と抱かれていた男と、もうじき本当に寝ることができる……そんな思考を読み取りながら、俺は木元の豊満な腰を抱き寄せ、通りかかった流しのタクシーに手を上げた。
ここからが正念場だ。車窓を流れる夜景を見ながら、そう自分に言い聞かせた。さやかの無念を晴らすためなら、俺は俳優にも鬼にもなれる。

(三)

タクシーが到着したのは、もちろん香さんの仕事場だった。タクシーを降りてから、香さんに〈着きました〉とLINEしておいた。
周囲に人家の明かりもなく、薄闇にぽつんと佇む平屋の一戸建てを見た木元は、「こ、ここが、kuroさんのおうちなんですか?」と上擦った声を上げた。
「ええ、そうです。すみません、垢ぬけない掘っ立て小屋で。瀟洒な高層マンションを想像されてましたか?」
「い、いいえ、とんでもない! も、森の奥の隠れ家みたいで、とっても素敵です!」
俺は木元の手を握り、門を抜けて庭に入った。木元の手はなにかの発作のように、激しく震えていた。
玄関から居間に入ると、木元は感激の声を上げた。日下部湊のポスターが、三方の壁に隙間なく貼られていたからだ。香さんに手伝ってもらい、昨日のうちに用意しておいたのだ。
「ステキ! く、kuroさんって、湊くんにそっくりなだけじゃなく、ほ、本当に彼が好きなんですね……」
「ええ。どうすればもっと湊くんに近づけるか、日々研究しています」
居間には三人掛けのソファのほか、香さんが自宅から持ち込んだ家具が並び、廊下の奥にはトイレやシャワー室、簡素なキッチンもついている。居間の奥のカーテンを開けてシャンプー台を見せないかぎりは、ここが美容院だと気づかれる要素はなかった。
窓際のソファに木元を座らせてからキッチンに行き、調理台の引き出しから折りたたみ式のフルーツナイフを取り出してズボンのポケットに突っ込んだ。冷蔵庫から冷えた缶ビールを二本取り出し、スティックチーズやミックスナッツの小袋とともにトレーに載せて居間に戻った。
酒に強くない、と言っていたとおり、ビールをいくらも飲まないうちに木元の顔は真っ赤になった。俺に会ってからずっと赤かったのだが、興奮による紅潮に酔いの火照りが加わって、熾火かがりびのような紅蓮ぐれん色になった。
酔いの勢いか、木元の様子が変わってきた。俺への恥じらいが薄れ、態度や言葉遣いが大胆かつ粗暴になった。さっきは手を握っただけで震えていたのに、ぞっとするほど甘ったるい声で「あぁん、酔っちゃったぁ! もう、kuroさんったら! 私がこうなるのわかってて誘ったんでしょ!」と喚きながら腕を絡ませてきた。
俺は左腕を木元に預けながら、反対の手をポケットに入れてナイフを握りしめた。もうこの女は前後不覚だ。こいつで首の動脈を切り裂けば、赤子の手をひねるようにたやすく殺せるだろう。
そのとき、木元が背もたれから身を起こし、妙に据わった目で俺の顔をじっと見つめた。不意を突かれてたじろぐと、木元はあざ嗤うような笑みを浮かべ、ふっとため息を吐き出した。
「やっぱり、kuroさんだけですよ、この世で『リアル湊』って呼んでいい男性は。なのにあの女ときたら……何をトチ狂ったか、自分のダンナを『湊くんに瓜二つ』なんてポストしやがって……」
耳がピンと立った。木元が誰のことを言っているのか、もうわかったが、あえて尋ねた。
「へえ……誰ですか、その女って」
「sayaって女です。そいつ、『プティガト』の連載が終わってから界隈に入った新参者のくせに、ちょっと人気が出たからって、いい気になって。私が崇拝する絵師さんのトレパクまでしたんですよ。内部告発でパクリがバレても、反省の色もなく言いわけばっかしてたんですけど、ついに降参したのか、半年くらい前からXにもピクシブにも姿を見せなくなったんです。まあ、いい気味です。ダンナのノロケも含めて、あいつ、めっちゃ調子こいてたんで」
クソアマ……俺は拳を握りしめ、暴発しそうな殺意を抑えた。
調子に乗った木元はスマホを取り出し、勢いよくスクロールを繰り返した。
「あー、あったあった、このポストです。saya自身は素顔さらしてますけど、ダンナの顔はハートマークで隠してます。とりあえず見てみてください。sayaのバカっぷりがよくわかりますから」
渡されたスマホに映っていたのは、Xのさやかのページだった。写真とポストは、去年の四月に投稿されたものだった。
写真にははっきりと見覚えがあった。一昨年の夏休みに旅行で訪れたグアムで撮ったもので、二人とも笑顔でVサインをしている。だが木元の言うとおり、俺の顔はハートマークで隠されていた。
写真にはポストがつき、追加のポストもツリーで繋がっていた。

〈私が湊くん推しになったのは愛しのダンナ様に瓜二つだったから♡(プライバシー保護のためダンナ様の顔をお見せできないのが残念……)〉
〈でも出会ってから一度も「愛してる」って言われたことない……最終回で湊くんに告白された颯香ちゃんが羨ましい……〉
〈でもいいの! 私がダンナ様に言ってほしい甘い言葉、ぜ~んぶ湊くんに囁いてもらうことにしたから。だからsayaは今日もせっせと漫画描きます!〉

「さやか……」
呆然と呟いた俺の横で、木元は甲高い笑い声を上げた。
「ね? バカでしょ、この女。なぁにが『私がダンナ様に言ってほしい甘い言葉、ぜ~んぶ湊くんに囁いてもらうことにしたから』よ! マジで頭おかしいんじゃないの? ついでに絶対目もおかしい! こいつのダンナの顔なんて、どうせたいしたことないに決まってる! だって、この世に湊そっくりのイケメンなんて、kuroさんしかいないもん!」
喚きつづける木元を無視し、俺は目を閉じて記憶の泉に手を入れてみた。
この投稿には、前触れがあった。あのとき、俺が彼女の気持ちにきちんと応えていれば、さやかはこんな投稿はしなかったはずだ。

「ねえ佑くん、どうして一度も『愛してる』って言ってくれないの?」
「い、言わなくたってわかるだろ、そんなこと……そもそも、好きでもない人と結婚なんてしないよ」
「じゃあ、教えて。佑くんは、私のどこが好き?」
「ん、んーと……ぜ、全部!」
「全部……? な、なにその答え! 真面目に答えるのがそんなにめんどくさいの? もういい! 佑くんのバカ、ドケチ! 私も金輪際、佑くんに『好き』とか『愛してる』なんて言ってあげないから!」
さやかは怒って席を立ち、リビングを出ていった。大きな音を立てて閉められたドアに向かい、俺は力のない声で呟いた。
「な、なんで怒るんだよ。全部って、さやかが俺の理想の女って意味じゃん。はあ……マジわかんねぇ、女って……」

「……愛してるよ」
スマホの共有アルバムから探し出した、Vサインで笑うさやかに囁いた。同時に涙が溢れ出た。
どうして一度も言ってあげられなかったんだろう、こんなに単純で簡単な言葉を。いまさら百万回囁いたところで、君の耳には届かないのに……
「あ……愛してるよ。俺は君を……君さえいれば、俺にはほかに何もいらなかった……え、永遠に……愛してるよ……」
「kuroさん……嬉しい……そんなに私のことを……」
シャツの袖で涙を拭った。そして、胸の前で両手を組み、潤んだ目で俺を見つめる木元の眼前に、スマホをぐっと突き出した。
「勘違いするな、クソアマ。いまのはおまえに言ったんじゃない。愛する妻に言ったんだ」
スマホを見る木元の目が大きく開かれていく。すぐに自分のスマホをタップし、さっきの写真と見比べた。
「えっ、えっ……も、もしかして、kuroさんなの? さ、sayaのダンナって……」
「そうだバロン。sayaは……おまえがトレパク冤罪をふっかけた、「日下部湊界隈」最高の絵師は、俺の妻だ」
木元の胸倉を掴んでぐいっと引き寄せ、ポケットから出したナイフの刃を首筋に押し当てた。
「やっ、やめて!」
「おまえのせいでさやかは自殺した。おまえがあんなデタラメな投稿をしなければ、さやかが誹謗中傷にさらされることも、そのせいで心が壊されることもなかった。おまえが……おまえさえいなければさやかは死なずに済んだんだ!」
首筋にナイフをぐっと押しつけ、そのまま一気に手前に引いた。ぐにゅっと肉を切る感触、ついで赤い鮮血が勢いよく噴き出し、返り血を浴びた俺の顔や胸も真っ赤に染まった。
木元は激痛の叫びを上げ、ソファから落ちて床の上を転げ回った。
「……ち、ちがっ……ト、トレパクは私が言い出したんじゃない……み、mikaさんが……」
「mika……mikaだと?」
胸倉を掴んで床から引き起こした。首から大量の血を流しながら、木元は懸命に言葉を継いだ。
「そ、そう、mikaが……sayaの絵を、じ、自分のトレパクに見えるように……う、うまく加工して……その画像を……え、Xに上げろって……」
「mikaはどうして、そんな指示をおまえに?」
「た、たぶん……新参のsayaに、あっという間に……フォ、フォロワー数を抜かれたから……く、悔しかったんだと思う……あ、あの人、プライド高いから……そんなこと、絶対言わないけど……」
「mika自身は一度もトレパクの件でポストしていない。さやかの誹謗中傷もだ。つまりmikaは、おまえたち取り巻きに汚れ役を押しつけたってことか?」
「そ、そう……あ、あの人、界隈の……じょ、女王様だから……そ、それに、自分が黙ってたほうが……か、かわいそうな被害者に……見えるでしょ……」
思わず固唾を飲んだ。木元の言うとおりだとすれば、mikaはなんという計算高い女だろう。
「だ、だから、mikaは私たちに……さ、sayaの悪口をどんどんポストしろ……sayaにダイレクトメッセージを送りつけろ……そ、そしたら……報酬として、あ、あんたたちの絵を、バンバン……リ、リポストしてやるからって……」
「リポスト? どうしてそれが報酬になるんだ?」
「み、mikaみたいなフォロワーの多い大手に……リポストしてもらうと……お、おおぜいの人に閲覧されて……い、いいねもブクマも、け、桁違いに増えるの……だ、だから……」
「……おまえは……おまえらはそんなことのためにさやかを……」
呆れが怒りを凌駕し、それ以上なにを言う気も失せてしまった。「大金につられた」という理由のほうが、まだ納得できた。
木元の身体が激しく震えはじめた。体内から夥しい量の血液が失われ、もう喋ることも不可能な状態になった。
顔に浴びた血をティッシュで拭いながら、痙攣する太った肢体を冷めた目で見つめた。こいつは死ぬ、もうじき死ぬ。だが、さやかの復讐はまだ果たせていない。
「佑真くん!」
入口のドアが開き、香さんが飛び込んできた。「見ちゃダメです!」と叫んだが、かまわず俺のそばに駆け寄ってきた。
床に倒れた血だらけの木元を見て、香さんはうっと呻いた。だが、すぐに俺のほうを向き、胸に抱えた紙袋を差し出した。
「ずいぶん浴びちゃったね、返り血。色男が台無しだから、すぐにシャワーを浴びてきなさい。着替え、持ってきたから。いま着ている服はビニール袋に入れなさい」
「……わかりました。警察には、着替えてから通報します」
香さんにはあらかじめ、木元を殺したらすぐに自首すると伝えてあった。復讐の決意を伝えたときから、香さんもわかっていたのだろう。取り乱すこともなくうなずいてくれた。
居間を出ていこうとして、大事なことを思い出した。部屋の隅に置いた鞄を探り、厚みのある封筒を取り出した。
「あ、あの、香さん……これ」
「ん、なに? その封筒」
「リフォーム代です。血のついた床の張替えや、壁紙の交換に使ってください。百万円じゃ足りないかもしれないけど……」
香さんは肩を揺すって笑った。
「佑真くんって、変なところで気が利くよね。でも、いらない。このお金は、次の女性に贈る結婚指輪にでも使いなさい」
さやかの遺書で受けたショックがよみがえった。俺は思わず叫んでいた。
「お義母さん、前にも言いましたが、俺は再婚なんてしませんよ! それに俺はもう殺人犯だし……」
「いいから、シャワーを浴びてきなさい。一一〇通報は私がしておくから」
香さんに追い立てられ、俺はしぶしぶ居間を出た。

(四)

脱衣所で血に汚れた服を脱ぎ、ビニール袋に入れて口を縛った。熱いシャワーを浴び、木元の血を洗い流していると、徒労感にも似た感情が襲ってきた。
さやかの復讐は今日で終わるはずだった。木元を殺せば、さやかの無念を果たせると信じていた。
それなのに、木元の後ろにmikaという黒幕が控えていようとは……このまま自首して警察に捕まれば、mikaへの復讐の機会は永遠に失われてしまうだろう。
香さんにmikaのことを話すべきか、悩みながらシャワールームを出た。どうせもうmikaを殺めることができないなら、香さんにも悔しさを味わわせるだけだ。やはり俺一人の胸にしまっておいたほうがいいかもしれない。
居間のドアノブに手を伸ばしたとき、香さんの声が聞こえてきた。それは耳を疑う言葉だった。
「……はい、そうです。髪を切りに来たお客様と、ささいなことで言い争いになって、ついカッとなってしまって……現場は、三鷹駅から徒歩十五分ほどの場所にある、平屋の一戸建てです。これから住所を申し上げます。東京都三鷹市下連雀……」
「お義母さん!」
ドアを開けて居間に飛び込み、香さんからスマホを奪い取った。
「い、いったいなにを言ってるんですか? まさか、お義母さんが罪をひっかぶるつもりじゃ……」
向うずねに激痛が走った。香さんに蹴られたと気づいたときにはスマホを奪い返されていた。すぐに香さんは居間を飛び出し、トイレに入って鍵を閉めた。
痛みをこらえ、蹴られた足を引きずりながら廊下を進み、トイレのドアを叩いて必死に呼びかけた。
「やめてください、お義母さん! お願いですから、警察には真実を伝えてください! でないと……俺がさやかの仇討ちをしたことにならないじゃないですか!」
ああ、そうか……口に出してみて、はじめてわかった。俺と香さんと、どちらがより深くさやかを愛しているか。俺はその勝負に負けたくなかったんだ。
だってもうさやかはいなくて、彼女への愛を示すには、ほかに方法がなかったから……
自分の浅ましさと香さんへの対抗心に気づき、もうドアを叩くことも叫ぶこともできなくなったとき、香さんがゆっくりとドアを開け、「佑真くん」と俺を手招きした。
「家の前にタクシーが待ってるわ。私が乗ってきたタクシーをそのまま待たせてるの。それに乗ってうちに帰りなさい」
「バ、バカ言わないでください! できませんよ、そんなこと!」
「早くしなさい、パトカーが来ちゃうでしょ! さやかの最後の望みを忘れたの? 佑真くんが幸せにならないと、あの子は永遠に浮かばれないのよ!」
香さんが泣き出した。俺も一緒になって泣いた。さやかが死んでしまった以上、俺にはもう幸せになる気なんてない。母娘そろって、どうしてそれをわかってくれないんだ。
タクシーの窓越しに、香さんと最後の会話を交わした。
「ビニール袋に入れた服は、冷水と洗剤で血をしっかり洗い落として、ほかの衣類に混ぜてバレないように処分するのよ」
ひそひそ声で言った香さんに、俺はふてくされた子どものように渋々うなずいた。伸びてきた手に頭をなでられ、仏頂面のまま真横を見ると、香さんはまた涙を流していた。
「ごめんね、佑真くん。悔しいけど、あたしの力じゃ何もできなかった。日下部湊の顔をもつ佑真くんに頼るしかなかった。だから、さやかの仇討ちは佑真くんに任せて、その罪は老い先短いあたしがかぶればいいと思ったの」
「お義母さん……」
「さよなら、佑真くん。いままで本当にありがとう。あなたは最高の旦那さん、そして最高のお婿さんだったわ。これからもずっと、どこにいても、佑真くんの幸せを願ってるからね」


エピローグ

香さんが木元真由の殺人容疑で逮捕されてから、二週間がたった。
俺は連日テレビで盛大に報道されているニュースや、無責任な憶測が飛び交うネット掲示板などの情報を遮断し、残された仕事を完遂することに時間と労力を費やした。
香さんが猶予期間を与えてくれたおかげで、一度はボツになったmikaへの復讐が、実現可能プロジェクトに変わった。段取りは木元のときと同じ。違うのは、ヤる場所がホテルの部屋だということだ。
木元の血で汚れた服は、洗わずに保管してある。
俺が木元を殺した決定的な証拠は、最後の復讐が終わってから警察に提出するつもりだった。そして香さんは釈放され、俺の罪過は二倍になる。めでたしめでたしだ。
mikaは今日もひっきりなしにXにポストしていた。ほぼ三分おきになにかを呟いている。巷ではこういう人を「X廃」と呼ぶらしいが、介護老人保健施設の管理栄養士という仕事は、そんなに手待ち時間が多いのだろうか。
mikaが界隈の大手絵師というのは嘘ではないらしく、下記のようなどうでもいい呟きにも百前後の「いいね」がついていた。

〈ぴえん! 最近立てつづけにフォロワーさんがアカウントを消しちゃってさみしい……〉
〈みんな理由も言わずに去るなんてひどい……ガチ友と思ってたのは私だけ?〉
〈はわわ……フォロワー減で落ち込んでたら憧れのあの方からまさかのお電話! あま~い悩殺ボイスに鼻血出たよ助けて〉
〈デ、デ、デ、デート⁉ 〇〇さんさっきの電話でデートって言った⁉ デ、デートってあの悩殺スマイルを独り占めしていいってことだよねそうだよね⁉〉

俺は冷笑を浮かべたままXを閉じ、mikaこと的場弥生にLINE電話をかけた。ワンコールで的場は出た。まるで俺からの電話を待ち受けていたみたいに。そして実際、そうなのだろう。
「あ、こんにちは、弥生さん。いま、ちょっとお話しできますか?」
「は、はいっ! なんでしょう、kuroさん」
「今夜のホテルディナーなんですけど、じつは……食事だけじゃなく部屋も予約してしまいました」
「えっ、えええっ!……え、えっと……それって、つまり……」
「すみません。まだ三度目のデートで性急すぎるかなと思ったんですが、どうしてもあなたへの想いを抑えられなくて……もちろん弥生さんがいやなら、食事だけで帰っていただいてけっこうですから」
「い、いやだなんてとんでもない! め、めちゃめちゃ嬉しいです……あっ、もうダメ……胸がドキドキして死にそう……」
「はは、僕もですよ。でもよかった。そう言っていただけて……では今夜、楽しみにしています」


三年間の幸福な結婚生活を送らせてくれた部屋に感謝を込めて、出発前に掃除をすることにした。俺の掃除の腕前は、さやかにはとてもかなわないけれど。
さやかは料理より掃除が好きで、休日には部屋の隅々までピカピカに磨き上げていた。平日は仕事でたいへんなんだし、休日くらいゆっくりしなよ、と言うと、さやかは汗に濡れた顔をエプロンで拭い、笑顔で俺に抱きついた。
「いいの、私がしたいんだから。だってこのマンションは、大好きな佑くんとの愛の巣だもん。世間や街中がどんなに猥雑でも、ここに帰ってくればほっと安らげる。いつもそういう場所にしておきたいの」
寝室に掃除機をかけたあと、クローゼットを開けて、ハンガーにかかったさやかの服を両手で抱きしめた。繊維の隙間に染み込んだ、懐かしく甘い香りに涙腺を揺さぶられ、声を上げてひとしきり泣いた。
俺がいなくなったあと、この部屋の管理は両親に頼むつもりだった。刑期しだいでは売却してもらってかまわない、とも伝えるつもりだ。
さやかのカップでコーヒーを飲み、鞄に荷物を詰めた。ルームウェアを脱いでチノパンを履き、白シャツの上にジャケットを羽織った。
これから的場の住む横浜市内のホテルに行き、一階にあるレストランで夕食をとったあと、彼女の手を引いて予約したツインルームに入る。段取りはすべて整った。
線香をあげ、さやかの遺影に手を合わせた。
「じゃあ行ってくるよ、さやか」
玄関で靴を履く直前、大事なことを思い出した。慌ててリビングに戻ると、さやかは微笑んで俺を見ていた。
コホン、と咳払いをし、恥じらいを抑えるため深呼吸をした。さやかの写真を手に取り、永遠に瑞々しい唇に口づけた。
「愛してるよ、さやか。またいつか会おう」

〈完〉

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