マトリなふたり②
第二話 鳥に憧れたフジツボ
焦げつくような真夏の市民球場に、一陣の涼風が吹き抜けた。
ピッチャーマウンドに立つ茶髪ピアスの青年は、麻薬取締部特殊捜査課に所属する工藤来人(26歳)だ。
来人は身長167センチと小柄な体格だが、自他ともに認める天才肌のアスリートだ。なかでも小学生で始めたヒップホップに天性の才能を示し、高校時代には双子の姉と出場した世界大会で優勝した経験をもつ。
来人の目線の先には、すらりとした長身の美女が立っていた。今年度の新人でただ一人の女子職員である織田愛未(23歳)だ。こちらは来人とちがって競技での表彰歴はないが、5歳から中学生まで新体操をやっていたおかげで、跳躍力と柔軟性だけは自信があった。
愛未はバッターボックスに立っているが、その手にバットは握られていない。今日の特訓で彼女に与えられた使命は、来人の投球を打つことではなく、身をかわして避けることなのだ。
この特訓は、銃を持った麻薬組織との乱闘を想定している。銃弾を打ち返すことなどできない。敵の動きを察知してすばやく避けること。それが最大の護身術だ。
来人は愛未の身体を狙って投球する。その球を避け、デッドボールを回避できれば、愛未の勝ちということになる。
今日も都内は38度の酷暑日で、朝のニュースでは熱中症の危険が非常に高いと注意喚起をしていた。そんな殺人的な炎天下で始まった新人特訓はすでに一時間が経過し、来人の投球数も49球を数えている。上層部からの厳重注意に従い、二人とも水分はこまめに補給しているが、飲んだそばから蒸発していく感覚がある。まるで自分の身体が乾いた砂漠になったようだ。
「ふー……しんど……」
来人がハンカチを取り出して顔の汗を拭うと、すぐに愛未もそれに倣った。だが、すぐに新しい雫が毛穴から噴き出し、喉の渇きが襲ってくる。
フェンス前にある屋根付きのベンチでは、来人の双子の姉である工藤来夢が、やはり緊迫した面持ちでグラウンドの二人を見つめていた。弟と同じく抜群の運動神経を誇る来夢だが、今日は救護班として特訓に参加している。
「あの来人が『しんどい』なんて……初めて聞いたわ。大健闘よ、愛未ちゃん」
来人はヒップホップで鍛えた下半身を活かし、プロ顔負けの剛速球を投げ込んでくる。最速で160キロ、平均でも157キロをマークし、コントロールも正確無比だ。
にもかかわらず、愛美はすべての球を紙一重でかわしている。最初は女の子だからと手加減していた来人だが、投球が10を超えたあたりから、それでは潰せない相手だと悟ったようだ。的中率の高い腹部を狙い、渾身の力で投げ込むが、それでもよけられてしまう。
来夢には弟の焦りが手に取るようにわかった。だが、同じマトリの女子職員として、どうしても愛未のほうに肩入れしてしまう。スポーツの大会で受賞歴のない彼女が、まさかこれほどの逸材とは思わなかった。
「それに比べて……あんたたちの情けなさったら……」
ため息をついた来夢の足元に、二人の新人男子が寝転がっていた。
仰向けに倒れている山崎義正は3球目、うつぶせに寝転んでいる斎藤康貴は20球目でノックアウトされた。ふたりとも小学生から野球少年で、大学時代には全日本大学野球選手権にレギュラーで出場した。今日の特訓もぜったいに合格すると豪語していた。
「次で50球。当たってもよけても、これで終わりね、愛未ちゃん」
顔じゅう汗びっしょりの来人がウィンクを投げると、同じく汗だくの顔で愛未はうなずいた。
あと一球。これをよけることができれば、新人の実力テストを兼ねた射撃回避訓練は合格だ。4年前の工藤来夢以来、女子職員としては史上3人目の合格者となる。
深呼吸をした愛未の脳裏に、真夏の太陽のようなあの人の笑顔が浮かぶ。5年前の高2の夏、小柄な身体を駆使して戦う勇姿を初めてテレビで見たときから、ずっと憧れだった。
この特訓の女性合格者第1号もあの人だ。自分も合格して、あの背中に少しでも近づきたい。からだじゅうの神経を研ぎ澄まし、来人の挙動に集中する。
だが予想に反し、来人が放った最後の一球は、なんと外角低めの変化球だった。ストレートに慣れた目と身体の反応が、一瞬遅れた。熱い空気をえぐるようにカーブした球が、愛未の左わき腹に迫りくる。
「もらった!」
来人が勝利の叫びを上げた。だが、愛未の反射神経と肉体の柔軟性は、彼の予想をはるかに超えていた。ボールが左わき腹に当たる直前、愛未は全身を「くの字」に曲げ、紙一重でよけきった。「信じらんない、いったいどういう身体してんの……」。ヒップホップ世界チャンプの来夢でさえ、この後輩の天性に敗北感をおぼえた。
だがつぎの瞬間、愛未は勢いあまって前のめりに倒れ、顔面から砂地に突っ込んだ。ズザザザ……と乾いた音を立てながら、愛未の顔は橇のように砂地の上を滑った。
「だ、大丈夫? 愛未ちゃん!」
すぐに来夢が救急箱を持ってグラウンドに飛び出した。来人もグローブを投げ出し、砂埃を上げて後輩の元に駆け寄った。
「起きれる? 鼻血とか出てない?」
「あ……出て…ます……」
愛未が申しわけなさそうに答えた。白く形のいい鼻から生々しい鮮血が流れ、桃色の唇を紅く濡らした。双子は一瞬青ざめた顔を見合わせたが、すぐに応急処置に入った。
来人がウェットティッシュで愛未の顔をやさしく丁寧に拭いた。つぎに来夢が彼女に膝枕をし、鼻の穴に止血用の脱脂綿を詰めた。
「す、すみません、来夢先輩、来人先輩……鼻血なんか出して……わたしったら、めちゃくちゃカッコわる……」
「なに言ってんの! あんな異次元の身体能力を見せつけといて!」
「そうだよ……ちきしょ! 隠し玉の変化球までよけられちゃうとはなぁ」
応急手当が済むと、来人が愛未を背負い、屋根付きのベンチまで運んでそこに座らせた。
来夢がアイスボックスから取り出したスポーツドリンクのペットボトルを手渡すと、お辞儀をして受け取った愛未は力のない手でどうにか栓を開け、鼻の脱脂綿を気にしながらも一気に飲み干した。
その隣で来人は立てつづけに3本を飲み干し、上半身裸になって、タオルで汗を拭きはじめた。
「ちょっと来人。レディの前で裸になるなんて……いまはそういうのもセクハラになっちゃうのよ」
「ダイジョーブだって姉ちゃん。だって愛未ちゃん、男に興味ないもん。もちろん俺の裸にも、でしょ?」
愛未は半裸の来人を真正面から見返した。それから、足元に寝転がっている男子たちをちらりと見て、けだるい顔でため息をついた。
「ん、まあ……そうですね。男の人にはぜんぜん興味ないです」
「ほら、わかっただろ姉ちゃん。愛未ちゃんが好きなのは、京本課長なんだから」
「そりゃ、課長のことはみんな好きでしょ。あんな小学生女子みたいなかわいいルックスで、いつもにこにこ優しい上司。それでいて『マトリ最強のアマゾネス』の異名をもつ天才格闘家ときたら、好きになるなってほうが無理よ。わたしだって課長の大ファンだし、あんたもでしょ、来人」
「まあね」来人は素直にうなずいた。「課長に会ってわかったよ。ああ、『ギャップ萌え』ってこういうのをいうんだって」
「それはそれとして愛未ちゃん、なんで男に興味ないの? 過去にイヤな目にあわされたとか?」
「おい、姉ちゃん……」
こんどは来人が来夢を咎めた。中学・高校で生徒会長だった来夢は、よく言えば面倒見がよく、悪く言えばおせっかいなのである。
「あ、そういえばさ、愛未ちゃんって母子家庭だっけ? 男が嫌いなのは、お父さんと関係あるの?」
来人は開いた口がふさがらなかった。さっき俺がシャツを脱いだのがセクハラだとか言ってたけど、個人のプライバシーを無理やりこじ開けるのはいいのかよ?
だが、意外にも愛未はあっさり口を開いた。
「はい。両親はわたしが高校2年の春に離婚しました。度重なる父の浮気が原因です」
「そっか。じゃあ、もしかして大学の学費、おミズのバイトで稼いだりした?」
「ねっ、姉ちゃん! こんな清純派美人に、なんつーことを……」
「はい、そうです。来夢先輩、どうしてわかったんですか?」
来人は目を剥いて愛未を見た。来夢はそんな弟の額にデコピンし、「もうあんたは引っ込んでなさい」と真顔で睨んだ。
「先月の新人歓迎会で、愛未ちゃん言ってたじゃない。うちは母子家庭ですけど、奨学金は借りずに自分のバイト代で大学を卒業したんですよって。女子大生のバイトで数百万も稼げるのは、おミズしかないかなと思って」
「さすが、京本課長に次ぐマトリのスーパーウーマンですね……おっしゃるとおりです。おミズといってもキャバクラですけど……おカネのためとはいえ、カラダを売るのはいやだったので」
そうだよねぇ、と来夢は笑ってうなずいた。「お酌とトークだけで済むなら、それに越したことはないよね」
「ええ。離婚後、父が母との約束を破って、養育費をまったく払わなかったので、大学の入学金と学費を稼ぐために、キャバクラのバイトは高2の秋から始めました。母を裏切った父のことが嫌いなのに、父と同じ年代の男の相手をしてお金を稼ぐことには、めちゃくちゃ抵抗ありましたけど……最後は割り切って腹をくくりました。世の中、きれいごとだけじゃ回っていかないことも、キャバクラでさんざん学びましたね」
愛未が一つに束ねた髪をかき上げて苦笑すると、双子は真顔でうなずいた。
「でもたまに、どうしてもどん底から這い上がれなくて……わたしは学費を稼ぐために仕方なくキャバで働いているのに、同級生のなかには、親の金を湯水のように使ってキャバで豪遊してるバカ男とか、遊ぶ金欲しさにパパ活してるアホ女が何人もいて、なんで世の中こんなに不公平なんだろうって……そんなとき、テレビで京本課長の試合を見たんです」
「4年前に代々木体育館で開催された異種格闘技世界大会だよね。日曜日だったから、うちの課の全員で応援に行ったわ」
「えっ、先輩たち、課長の試合を生で見たんですか⁉ いいなぁ! わたしなんて、チャンネルサーフィンしててたまたま見つけて、しかも決勝戦の途中からで、録画もできなかったのに……やっぱり世の中って不公平だらけです!」
「こら姉ちゃん、よけいなこと言うなって!」
拳を震わせて憤る愛未を見ながら、来人が肘で姉の脇腹をつついた。
「まあまあ、愛未ちゃん。オリンピックもそうだけど、会場で見るよりテレビのほうが断然いいって。ほら、課長ってただでさえ小さいから、観客席からだと豆粒みたいだったよ」
来人の苦しいフォローに、愛未は複雑な表情でうなずいた。この子の前で課長について話すときは、地雷を踏まないよう気をつけよう、と双子は思った。
京本が社会人枠で出場した異種格闘技世界大会は、世界中から少林寺拳法、柔道、合気道、ボクシングなどの格闘技の達人たちが集結した、「殺人以外はなんでもあり」の前代未聞の大会だった。参加人数は男子の部約二千人、女子の部約千六百人で、各国大会の優勝者はもとより、オリンピック金メダリストもゴロゴロいた。さらに、身長145センチ、体重38キロの京本は、全選手の中でもっとも小柄だった。
だが、終わってみれば、女子の部は京本の圧勝で幕を閉じた。初戦から準決勝まで、対戦相手の種目にかかわらず、京本は相手の攻撃を一発も喰らうことなく、十八番の急所蹴りで悶絶させ、審判ストップで勝利を奪った。
準決勝が終わった時点で、満員の観客席は沸騰せんばかりに沸いていた。最前列に陣取っていたマスコミ各社のカメラマンも、さかんにフラッシュをたきはじめた。
それもそのはず、京本の決勝の相手は、女子柔道最重量級金メダリストの真岡智子(25歳)。つまり決勝のカードは「夢の日本人対決」となったのだ。しかも両者の体重は全選手中で最軽量・最重量。まさに出来すぎのシナリオだった。
オリンピック金メダリストの実績と、体格面での圧倒的な優位性から、マスコミをはじめ会場の大多数が真岡の勝利を予想した。
だが、京本の20名の部下たちは、最初から最後まで上司の勝利を確信していた。その鉄壁の信頼の根源にあるのは、これまで仕事の現場で幾度となく目の当たりにした、京本の超人的な戦闘能力だった。
会場全体が「真岡コール」を熱唱する四面楚歌の状態で、彼らは声を振りしぼって上司への声援を送りつづけた。
京本は部下の信頼を裏切らなかった。試合開始の合図からわずか30秒、ヒグマ並みに巨大な真岡の体躯が大砲のように観客たちの視界を横切り、アリーナ席下の耐震壁に激突した。京本の部下以外の観客は、京本が繰り出した超速キックを見逃したため、いったい何が起こったのかわからず、電池が切れた会話ロボットのように声を失った。
会場全体が水を打ったように静まり返るなか、うつ伏せで床に倒れた真岡に主審と副審が駆け寄り、容態を確認した。
しばらくして立ち上がった主審が、「脳震盪による意識消失のため、試合続行不能」と、客席の奥まで届く大音声で宣言した。
京本の優勝が決まった。会場は地鳴りのようなどよめきに包まれた。自宅の居間でテレビ観戦していた愛未も、衝撃のあまり呆然と画面を見つめていた。
当時のことを思い出し、工藤姉弟は陽気に笑い合う。
「でもさ、あの大会、課長ぜんぜん本気出してなかったよな。それでも優勝しちまうんだから、ホント怖い人だよ」
「そうそう。あの金メダリストも脳震盪くらいで済んでよかったよね。だって、課長が手加減なしで蹴ったら、ふつうに頭蓋骨の粉砕骨折までいくし」
ふたりの会話にかるい嫉妬を感じながら、愛未は目を閉じた。瞼の裏に、優勝台の真ん中に立ち、満面の笑顔でトロフィーを掲げる京本の姿が浮かんだ。
最高に爽快な試合だった。中継を見終わったとき、それまで胸の中に溜まりまくっていた鬱屈が、すべて消え去っていることに気がついた。
母を裏切って放蕩三昧していた父も、そんな父にさんざん泣かされ、女性としての自信を喪失した母も。大学に籍だけ置いて、親の金で豪遊したりパパ活するしか能のない同級生たちも……そんな彼らを軽蔑しながらも、人に誇れるものをなに一つ持っていない自分自身も、まるで苔むした海辺の岩にしがみつくフジツボみたいに、ちっぽけでつまらないものに思えた。
それに比べて、この女性はなんて生き生きと輝いているんだろう。この人はきっと、誰かをあげつらうことも嫉妬することもなく、力強く自由な生き方をしてきたんだろう。小ぶりだけど強靭な翼を広げ、大海原の上を悠々と飛ぶ鳥のように。
「決勝戦のあとのヒーローインタビューで、このめちゃくちゃ強い女性が麻薬取締官だって知りました。すぐにネットで調べたら、マトリになるには大学の薬学部に進めばいいってわかったので、次の日さっそく、進路指導の先生のところに詳しい話を聞きに行きました」
「へえ、なるほど。あの試合は愛未ちゃんの運命を決めた試合でもあったんだ。そして愛未ちゃんは、いまここにいると」
「まるで少女漫画の世界だねぇ。好きな人を追いかけて、進路や就職先を決めるなんて……うん? いや、待てよ。たしか……うちにもう一人いたな。課長のことが好きすぎて、マトリになった人が……」
「あ、それって池田さんでしょ?」
来夢が弾んだ声で言うと、「えっ、池田さんもですか⁉」と愛未はさも嫌そうに眉を顰めた。
「そうそう、池田さんだ」
来人がうなずいたとき、ポケットのスマホが着信音を鳴らした。噂をすればなんとやら……発信元は池田だった。
〈あっ、来人くん。お忙しいところすみません。課長は……課長はそちらに行ってませんか⁉〉
最後のひとことは、全員に聞こえるほどの大声だった。「マトリ一のクールビューティ」と名高い池田副課長が、みっともないほど取り乱している。私設の池田ファンクラブ会長を自認する来夢も、京本をめぐって彼を勝手にライバル視している愛未も、複雑な表情でなりゆきを見守った。
「え、課長ですか? いえ、こっちにはいらしてませんが……どうしたんですか。課長、また失踪したんですか?」
「えっ。課長ったら、また池田さんの監視を抜けて脱走したの?」
苦笑いする来夢の隣で、愛未はいったいなんのことか、というように首を傾げた。
〈そうなんですよ。どうやら午前の会議中に抜け出したらしくて……最近はおとなしくしていたので、わたしも油断していました。まったくあの人ときたら、どれだけわたしを心配させれば気が済むのか……〉
双子が同時に噴き出した。来夢が弟からスマホを奪い、通話を引き継いだ。
「だぁいじょうぶですよ、池田さん。そんなに心配しなくても! お腹が空けば帰ってきますって」
〈来夢ちゃん……そんな、遊びに行った子どもじゃあるまいし……〉
半信半疑の返答だったが、すぐに〈あっ、課長!〉という驚嘆の声と、ゴトンと硬い音が聞こえた。たぶん池田が机にスマホを置き、帰ってきた京本に駆け寄ったのだろう。
「ほらね!」
来夢は笑顔でパチンと指を鳴らしたが、すぐにため息をつき、「……ああでも、妬けちゃうなぁ。池田さんったら、いつだって課長しか眼中にないんだもの。わたしが夜中に単独で密売人の尾行調査したときなんて、『行ってらっしゃい、頑張って!』のひとことでおしまいだったのに……」とブツブツ文句を言った。
しばらくして、〈ごめんなさーい! 池田さん、そんなに怒らないでぇ……〉と半べその声が聞こえた。〈あとで土下座でもなんでもするから、とりあえずサンドイッチ食べさせて~!〉
これには来夢も「まったくもう。課長ってば、ずるいくらいかわいいんだから!」と笑うしかなかった。受話口に耳を寄せていた来人は腹を抱えて爆笑し、愛未はオロオロしはじめた。
またゴトン、と音がして、コホン、と咳払いの声が聞こえた。
〈え~……来人くん、来夢ちゃん、たいへんお騒がせしました。来夢ちゃんの言ったとおり、課長は腹ペコで無事に帰ってきました。今後このようなことがないよう、あとで厳重に注意しておきます〉
「……ま、そういうわけで。京本課長と池田さんは、まわりの『その他大勢』が嫉妬するほど、かた~い絆で結ばれてるのよ」
切られたスマホを弟に返しながら、来夢が肩をすくめて笑った。
「そうそう。手強いよぉ、池田さんは。本人は『どうでもいい』って言ってるけど、全職員が認めるマトリ一の美男子だし、頭だってめちゃくちゃ切れるし、射撃も接近戦も一流だし……どうする? 愛未ちゃん」
「ど、どうするもなにも……わたしは純粋に、課長を尊敬してるだけですから……」
弱々しく抗弁しながら、こんな考えは幼稚かもしれない、と愛未は思った。今日の特訓はどうにか合格できたものの、連日の新人研修を受けるなかで、上司への尊敬だけで務まるほどマトリが甘い仕事でないことはわかってきた。
うつむく愛未の肩に、来夢がぽんと手を置いた。
「そうだよね、うん。それはわたしたちも同じ。違法薬物なんて物騒なものを扱うマトリの仕事は、危ないことや怖いこともたくさんあるけど、みんな『課長がいるから大丈夫』って思ってる。わたしも女だけど、愛未ちゃんに負けないくらい課長のことは好きだし、課長にだけは池田さんをとられてもいいって思ってるよ」
「とるもなにも、池田さんは最初っから課長の……いってぇぇッ!」
来人が悲鳴をあげ、まだ失神中の新人男子たちの間に倒れた。来夢が京本直伝の蹴り技で、弟の向う脛を蹴っ飛ばしたのだ。
仲良く「川の字」で寝転がる男たちを見下ろしながら、来夢が満面の笑みで言った。
「さ、愛未ちゃん。男どもはほっといて、小洒落たカフェでお疲れ会でもやりますか。鼻血ももう止まったよね?」
愛未はうなずき、鼻から抜いた脱脂綿をティッシュでくるんでポケットに入れた。
「いいですね。わたしも一度、来夢先輩と二人きりで女子トークしたかったんです!」
「わたしもよ。課の飲み会って、池田さん以外はフツメンかおじさんばっかりだしね……あ、来人。駐車場の車はわたしたちが乗ってくから。あんたたちは罰ゲームとして、駅まで歩いて帰りなよ」
「そっ、そんなぁ……」
痛む脛を押さえて立ち上がったとき、女子二人の姿はもうフェンスの向こうに消えていた。
置き去りにされた来人は、汗臭いタオルで目尻の涙を拭ってから、ようやく意識を取り戻した新人男子を見下ろした。
「こいつらはともかく、なんで俺まで罰ゲーム……地獄の炎天下で完投したピッチャーに、あまりにひどい仕打ちじゃねぇか……」
(第三話につづく)
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