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【小説】トレパク冤罪(第1話)

〈あらすじ〉

中小電機メーカーの営業部に勤める白井佑真は顔立ちこそいいものの、三十路になっても出世とは無縁のお気楽平社員。そのため女子社員たちからは「ざんねんなイケメン」と揶揄されていた。
いっぽう、大手商社の経理部に勤める妻のさやかは、弱冠28歳で課長補佐に抜擢されたバリバリの才女だが、プライベートでは少女のように素直で愛らしく、佑真はそんな妻をこよなく愛していた。
結婚して3年目、さやかが同僚に勧められて読んだ少年漫画に登場する、佑真そっくりの美青年キャラ「日下部湊」にハマり、生まれて初めて二次創作の世界に足を踏み入れたことがきっかけで、二人の運命は激変する。

プロローグ

「他人の空似」という言葉を、架空の人間にも使っていいのかどうかはわからない。
だが、料理専門学校を舞台にした少年漫画『プティガトーを君に』の準主役、日下部くさかべみなとに惚れてしまった理由を尋ねると、妻のさやかは恥ずかしそうにこう答えた。「え、えっとね……顔も性格も、佑くんによく似てるから」

「へえ……ずいぶん上達したな」
遅く起きた日曜日の朝、俺はフレンチプレスで淹れた苦めのコーヒーを飲みながら、年頃の少女のように目を輝かせて「推し」のお絵描きに興じるさやかの隣に座り、B5サイズのタブレット画面を覗き込んだ。イラストとはまったく関係のない仕事をしている彼女が、日下部の絵を描くためだけに購入した廉価な液晶ペンタブレットだ。
さやかは俺の顔を見て照れくさそうに微笑むと、すぐにタブレットに目を戻し、お絵描きの続きを始めた。大学在学中の十九歳のときに、バイト先のコンビニで先に働いていた俺に出会って以来、ほかの男には目もくれなかった彼女が、俺以外の男に夢中になる日が来るなんて……というのは大げさだが、とにかく、妻の熱いまなざしを独り占めする日下部にジェラシーを感じてしまったのは事実だ。
苛立ちを抑えながら、コーヒーをずずっとすすった。ネット通販で買った高級豆のゲイシャだが、俺の味覚が庶民すぎるのか、もしくは日下部への嫉妬からか、店のサイトにずらりと並んだ絶賛レビューほどうまいとは思えなかった。俺がさやかのために淹れたコーヒーはひと口も飲まれないまま、ガラステーブルの上に放置されていた。
釈然としない気持ちのまま壁際の本棚に行き、『プティガトーを君に』の第一巻を手に取った。ぱらぱらとページをめくり、日下部湊の姿だけを追った。
先述のとおり、漫画の舞台は料理専門学校で、十九歳の日下部は洋菓子コースに在籍している。入学の動機はいたってシンプルで、幼いころに食べたケーキのおいしさに感動し、自分も優秀なパティシエになって、あんな感動を子どもたちに与えたい、というものだ。だが、ずば抜けた製菓の才能があるわけではなく、原宿や池袋を歩けば五分おきにスカウトされるほどの美形であることを除けば、どこにでもいるふつうの青年だ。漫画内での立ち位置としては、女子向けのお色気要員であるとともに、ケーキ作りで失敗ばかりしているお笑い要員でもあった。
「こんな顔だけが取り柄みたいな奴が、俺に似てるって言われてもなぁ……」
お絵描きに没頭するさやかの横顔に目をやりながら、俺は苦い顔でコーヒーをすすった。


第一章  賞賛と嫉妬

(一)

さやかの言うとおり、俺と日下部湊は似ているのか否か。翌日の月曜日、さっそく同僚の峰岸ひかるに訊いてみることにした。
峰岸は三度の飯より少年漫画を愛し、中学生の時分から自他ともに認めるオタク。しかもボーイズラブが大好きないわゆる腐女子だが、会社ではその手の話はいっさいしないし、性格もさっぱりしているので、同期の中では一番話しやすかった。
昼休憩に峰岸を誘って会社近くのコーヒーチェーン店に入った。俺はハム&チーズのサンドイッチとホットコーヒー、峰岸はゆず&たらこのパスタとアイスラテをオーダーし、勘定は俺がモバイルSuicaで支払った。
空いていた窓際奥のテーブル席に着き、「レシート見せて」と財布を出す峰岸に、「いいんだ。情報料だよ」と断った。首を傾げる峰岸に、昨日のさやかの話を持ち出すと、即座に反応した。
「それ、私も思ってた。たしか、第三話だったかな、日下部湊が初登場したの。読み終えて思ったわ。あ、こいつ、まんま白井じゃんって」
「どんなところが?」
身を乗り出して尋ねると、峰岸はパスタフォークをナプキンの上に置いて、しばらく考え込んだ。
「うーん、そうね……顔はまあまあイケメンで、地頭だって悪くないのに、その場の空気が読めないばかりに失言を重ねて自滅するところと、何をやっても絶望的に要領が悪いところ。名づけて『ざんねんなイケメン』。イコール、うちの女子社員がつけたあんたのあだ名」
「し、知らなかった……そんなふうに呼ばれていたとは……」
がっくり肩を落とすと、峰岸はにんまり笑ってうなずいた。
「そうよ。でもまあ、いいじゃない。少なくともイケメン認定はされてるんだから。それに日下部湊の人気は全キャラ中断トツで、人気投票でも毎回ぶっちぎりでトップだったの。いまや少年漫画の購買者は半数近くが女子だともいわれているから、イケメンなうえに母性本能をくすぐる日下部が女子、とくに腐女子の票を独占したってわけ」
「はあ……なるほど……」
峰岸のオタク講釈を聞きながら、俺は隔世の感に浸っていた。俺が高校生まで愛読していた少年漫画を取り巻く状況は、いまではそんなことになっているのか……
それからは互いに沈黙し、食事に専念した。
サンドイッチを食べ終え、冷めたコーヒーを飲んでから、俺はさやかの「お絵描き」のことを話した。
峰岸は相槌を打ちながら最後まで聞いてくれたあと、「へえ、白井の奥さん、『プティガト』の二次創作やってるんだ」と感心したように言った。
そのとき、俺は生まれて初めて「二次創作」という言葉を知った。原作が一次で、それを模倣した作品だから二次というわけだ。
『プティガトーを君に』は公式、つまり、原作の出版社が二次創作を認めているため、よほど原作を貶めるような作品でないかぎり、ネット上で発表したり、書籍化して販売しても問題はないそうだ。
「奥さん、描いたイラストは公表してるの? たとえば……ピクシブとかに」
「あ、うん。そう、たしかそんな名前だったな。そのサイトにもアップしてるし、Xにも上げてる。俺にも見せてくれるよ。私が描くのは湊くんだけの絵だし、なにもやましいことはないからって」
「やましいこと……ねぇ。おもしろい人だね、奥さん」
峰岸はくすくす笑って、俺が差し出したスマホを受け取った。画面に映っているのは、ピクシブに登録したさやかのページだ。アカウント名は、ほぼ実名そのままの「saya」になっている。
画面を見た瞬間、峰岸の顔から笑みが消え、新人の出した企画書を見る顔つきになった。俺は、まるで俺こそがその新人であるかのように、にわかに落ち着かない気分になった。
峰岸は眉間に皺を寄せながらひとさし指を動かし、画面を下方向にスクロールしていった。中学生の頃から腐女子だという彼女は、そのへんの若手編集者よりよっぽど目が肥えているにちがいない。そんな彼女に、絵描き歴わずか半年の妻の絵がどのようにジャッジされるのか……ハラハラしながら判定の時を待った。
額にじっとりと冷や汗が滲んだ頃、峰岸はようやくスマホから目を離して俺を見た。
「ねえ白井、半年って言ったっけ? 奥さんがデジタルイラストを描きはじめてから」
「え? ああ、うん」
「その前は? 奥さん、美大出身とか、イラスト系の仕事したりしてたの?」
「え……いや。大学は経済学部で、卒業後はずっと経理職だよ」
峰岸はかるく首を振り、さやかの絵を見ながらため息をついた。
「ならこれは、純然たる才能の発露ってやつだね。だってほら、『いいね』もブクマも三桁後半だよ」
「いいね」はわかるが、「ブクマ」っていったいなんのことだ? 恐縮して尋ねると、「ブックマーク」の略、つまりしおりのことだと峰岸は教えてくれた。ブクマをつけておけば、その作品がリストに登録されて、いつでも見返すことができるということだ。
「そ、そんなにすごいのか? 三桁後半って」
「そうね。原作の連載が一年前に、アニメも今年の春に終わって、すでに旬を過ぎた『プティガト』で、三桁後半は快挙と言っていいと思うな。だってほら、見て。奥さん以外の絵師には、そんなにたくさんついてないでしょ?」
「絵師」というのはイラストを描く人のことをいうのだろう。あとで調べたが、小説を書く人は「字書き」と呼び、それぞれ卓越した実力の持ち主には「絵馬」「字馬」の称号が与えられる。馬は「うまい」の当て字らしい。
峰岸はスマホ画面をタップして、ほかの絵師が描いた日下部湊のイラストを一枚ずつ見せてくれた。「いいね」と「ブクマ」が多くても二桁後半、なかには一桁というイラストもあった。
その後、峰岸はXにもアクセスした。総じてこちらはピクシブより反応が多く、さやかの絵の「いいね」と「ブクマ」が平均して三千ほど、ほかの絵は多くて二千前後というところだった。
「えっと、じゃあ……日下部湊カテゴリーの中では、さやかの絵はトップクラスって言っていいのかな?」
俺の問いに、峰岸は力強くうなずいた。
「うん。オタク用語では、特定のキャラやカップルのカテゴリーを『界隈』っていうんだけどね。奥さんはすでに日下部湊界隈のトップ絵師だよ。でも、だからこそ気をつけたほうがいいと思う」
「気をつける? 何を?」
「嫉妬よ、ほかの絵師からの」
峰岸は声をひそめて言った。隣の席の客は初老の男性で、熱心に新聞を読んでいる。彼が俺たちの話に聞き耳を立てているとは思えなかったが、峰岸の中ではそれほどヤバい話なのだろう。
「嫉妬か……まあ、わかるよ。俺だって、大学受験のときに必死に通ってた塾で、あとから入ってきた奴に模試の合計点で負けたときは、悔しくて虚しくて……しばらくはそいつの顔を見るのも嫌だったし、授業中もそいつの背中に『落ちろ落ちろ落ちろ』と呪詛の言葉を投げつけてしまう自分を止められなかったから」
苦い記憶のカミングアウトだったが、峰岸はなぜか感心したように俺の顔を見た。「へえ。あんたみたいなお気楽者にも、そんな黒歴史があったのね」とその目は語っていた。
「でも、さやかの絵については、しょせんネットの中の話じゃないか。嫉妬されたとしても、リアルな被害なんてないだろ。お互いの顔も本名も知らないんだし、顔を合わせる機会も永遠にないわけだし」
俺が話すあいだ、峰岸の顔から「感心」が少しずつ消滅し、最後には「軽蔑」が取って代わった。
「ったく、昭和か、あんたは。ネット社会の恐ろしさをまるでわかってないわね。じゃあ、ためしに見てみようか。奥さんのコメント欄」
峰岸はピクシブのsayaのページを呼び出し、イラストにつけられた一連のコメントを表示した。大半はさやかの絵を絶賛するコメントだったが、なかには否定的な書き込みもあった。

〈ねえ、これって誰の絵?〉
〈目が腐るww〉
〈新参のくせに調子のんな!〉

「な、なんだこれ……こいつら、さやかに恨みでもあるのかよ?」
憤る俺に、峰岸はポーカーフェイスで首を振った。
「違う。さっき言ったでしょ。嫉妬よ。こいつらはsayaさんの絵のうまさに嫉妬してるの。ちなみに、ピクシブ会員なら誰でも見られるコメント欄でこれだから、裏ではもっとディスられてる可能性があるよ」
「かりにそういう奴らがいたとしても、そいつらはさやかにバレないように裏で言ってるんだろ? なら、さやかは知りようがないし、知らなければ傷つくこともないじゃないか」
「それはド素人の考え。SNSの世界にはね、悪意のある人間がウヨウヨいて、そいつらは自分より上にいる人間が傷つくのを見るのが大好きなの。そういう奴らが、奥さんを傷つけるために、わざわざ告げ口してくる可能性もある。実際、仲の良かったフォロワーから『裏でこんなこと書かれてるよ』って、自分の悪口がびっしり載ったスクショ画像を見せられて、ショックで絵が描けなくなった絵師もいる。そしてチクった奴は、陰口を書き込んでた連中とグルだったのよ」
「マ、マジか……ひっでぇ話だな」
俺は思わず身震いした。怪談より背筋が凍る話だ。
峰岸は苦笑して腕時計を見た。
「もう戻らなきゃ、用も足せないわ。今時分のトイレは、化粧直しと歯磨きをする女たちでぎゅうぎゅう詰めだから」
コーヒーショップを出て会社までの道を戻りながら、峰岸は最後の忠告をくれた。
「さっきは不吉な話ばかりして悪かったわ。奥さんにはⅩにもピクシブにも数千人のフォロワーがいるし、本人が楽しく描いているなら、いまは応援してあげるだけでいいと思う。ただ、一部のコメントを見ただけでも不穏な気配を感じるし、用心するに越したことはないわ」
「わかった。いろいろと貴重な意見をありがとう」
俺が廊下の途中で頭を下げると、峰岸は「じゃあね」と言って女子トイレに入っていった。

このとき、俺は甚だ甘く考えていた。ネット社会の誹謗中傷がどれほど悪質なものかを。ネットスラングで「粘着」と呼ばれる奴らが、狙った獲物を追い詰め、界隈から追放するために、どれほど姑息な手段を使ってくるかを。

(二)

当然と言えば当然かもしれないが、経理の仕事をしている人間には、真面目で几帳面な性格の人が多い。
難関私立大学の経済学部を卒業し、弱冠二十八歳にして大手商社の経理部で課長補佐を務めるさやかも、真面目すぎるほど真面目な性格だった。
作成した会計資料や決算書も、念には念を入れて最低三回は計算し直す。さらに時間が許せば、上司や部下が作った書類も細部までチェックし、ミスがあれば付箋を貼ってやんわりと指摘する。まるで出版社の校閲部員のような慎重さだが、おかげでさやかが入社して以来、経理部のミスは激減し、残業時間も大幅に短縮されたそうだ。
その噂を取引銀行から聞いた競合他社から、たびたびヘッドハンティングの電話がかかってくるが、会社側は絶対に彼女を手放すまいと、異例のスピードで昇級・昇給させた。このままいけば、三十歳で部長に就くと目されているらしい。
今後、どれほど職場にAIが普及しても、さやかのような人材がクビになることはないだろう。一方、三十歳でいまだに平社員の俺のほうは、真っ先にリストラ対象になるだろうけど。
経理部の同僚に勧められた『プティガト』にハマり、推しである日下部湊の絵を描くようになってからも、さやかは経理部の仕事をきっちりこなし、俺と分担している家事もけっして手を抜くことはなかった。
仕事と、俺との新婚生活、そして二次創作と、三つもの活動に全力投球で打ち込めるのは、彼女がまだ二十代の若さだからだろう。
二次創作を始めてから、多少朝の寝起きが悪くなり、ときおりネット通販で買った睡眠サプリを飲むようにはなったが、長い睫毛に縁どられた奥二重の瞳は、『プティガト』を知らなかった頃より、いきいきと輝いているように見えた。
お互いに残業が続いた晩秋の金曜日。さやかが仕事帰りに買ってきたワインを開け、俺の作った夕飯を食べながら、久々にリラックスしたひとときを過ごしているときだった。一杯目のワインでほろ酔い加減になったさやかが、「ねえ、佑くん。私ね、来月の日下部湊オンリーのエアイベントに参加することになったの」と言った。
恥ずかしそうに頬を染めるさやかがかわいくて、思わず見とれてしまったせいもあるが、俺には最初、彼女の言っていることがよくわからなかった。
「エアイベント? なに、それ。どこでやるの? 『エア』だから……宇宙とか?」
するとさやかは、呆れたように目を瞬かせた。
「まさか、違うわよ。この場合のエアは『オンライン』。つまり、インターネット上で行われるイベントのことよ」
「へえ……そのイベントで、さやかは何をするの?」
「描いたイラストを展示したり、本を売ったりするのよ。売るといっても、自分のスペースに通販サイトのリンクを貼るだけだけど」
「え? さやか、絵だけじゃなくて、本まで作ってたの? すげぇ、漫画家じゃん!」
「あっ……きゃあっ、言っちゃった! 恥ずかしいから、これだけは黙っとこうって思ってたのに……私ったらバカバカバカ!」
ほろ酔いから一気に醒め、羞恥心で赤くなったさやかに、俺は椅子から身を乗り出して尋ねた。
「その本って、いま、うちにあるの? なら見せてよ。俺がさやかの一番の読者になりたい!」
「うっ……い、いいけど……佑くん、その本読んでも、私のこと嫌いになったりしない?」
「ならない! っていうか、漫画描ける時点で、さやかにはリスペクトしかないし!」
さやかはほっとした顔で微笑むと、すぐに寝室に行き、一冊の本を持って戻ってきた。
予想よりはるかに立派な本だった。俺が大学のゼミで、教授の手伝いで作ったようなコピー冊子ではなく、きちんと印刷所で製本した本だった。
表紙にフルカラーで描かれた日下部湊は、洒落た服を着てテーブルに肘をつき、艶冶な微笑でこちらを見ていた。まるでJUNONかメンズノンノの表紙モデルみたいだった。俺でさえ一瞬見とれたくらいだから、日下部推しの女子ならひと目でイチコロコロリだろう。
「似てるかなぁ……」
思わず呟くと、さやかがすかさずスマホを差し出してきた。
「この絵のお手本にしたのは、佑くんのこの写真だよ」
画面には、茶髪の俺が写っていた。丸いカフェテーブルに頬杖をついて、カメラに向けて微笑んでいる。日付を見ると、三年前の六月二十日だった。まださやかと夫婦ではなく、恋人同士だった頃の俺だ。
表紙の日下部とポーズはそっくりだけど、顔についてはなんとも言えなかった。会議中にボイスレコーダーで録音した声が、まるで自分の声に聞こえないのと同じようなものかもしれない。
でもまあ、腐女子歴十五年の峰岸にも太鼓判を押されたんだから、この絵の日下部も俺と似ているんだろう。そう結論づけたあと、俺はさやかの描いた漫画をひととおり読んでみることにした。
さやかは部屋の隅で、叱られた子どものように膝を抱えてうつむいていた。バリバリの才女なのに、中身はいつまでも少女なところが、かわいくてたまらなかった。
「あれ? イラストでは見なかったけど、漫画には女の子も出てるんだ。えっと、たしか……日下部の一年後輩で、名前は……桐生颯香きりゅうふうかっていったっけ?」
「う、うん、そう……原作でも、湊くんと颯香ちゃんは、最終回で結ばれるのよね」
男女の組み合わせはノーマルカップルというらしい。ボーイズラブが主流を占める二次創作の世界では、ノーマルなのにマイナー扱いされているというから驚きだ。『プティガト』の二次創作でも、メジャーは日下部と主役の鏑木俊平かぶらぎしゅんぺいほか、男性同士のカップルなのだそうだ。
「ま、漫画を描きながら、颯香ちゃんに自分を重ね合わせて……わ、私が佑くんに言ってもらいたい言葉を、み、湊くんのセリフにして……」
いつのまにか隣に来ていたさやかが、どもりながら言いわけするように俺の耳元で囁いた。よほど恥ずかしいのだろう、ちらりと目をやると、ピアスをつけた耳たぶまで真っ赤に染まっている。
「あのさ、さやか……俺いま、誘われてるようにしか思えないんだけど……」
「ちっ、ちがっ……わっ、私、そんなつもりじゃ……」
慌てて身を引こうとするさやかの左腕を、ぐっと掴んで引き寄せた。
「日下部を俺の代理にするほど、さやかを欲求不満にさせてたってことだろ? ごめんな。漫画はもういいから、いますぐ寝室に行こう」
「ちっ、ちがうの、佑くん! そういうことじゃないの、私が二次創作をするのは……よっ、欲求不満とかじゃなくて、佑くんそっくりな湊くんに、佑くんが絶対言わないようなセリフを言ってもらって、そっ、それに萌えるのが好きなの! 我ながらバカみたいだって、わかってるけど……」
「……そうか。そういうものなのか……」
俺はさやかの腕を離し、もう一度漫画に見入った。後半に差し掛かったあたりで、日下部は「俺は君に出会うために生まれてきたんだ」とか、「君さえいれば、ほかになにもいらない」などと言って、桐生颯香を口説いていた。
たしかに、俺にはこんな甘いセリフは言えない。読んでいるだけで、ひとごとながら恥ずかしくなる。さやかにプロポーズするときでさえ、「付き合って五年もたつし、俺たちそろそろ籍入れようか?」で済ませてしまったくらいだ。
ちなみに、原作の日下部だってこんなセリフは言ってない。二次創作という妄想の世界だから言わせられるセリフなんだろう。
俺は本を閉じ、隣で頭を抱えているさやかに尋ねた。
「売れるといいね、この本。ちなみに、どれくらい印刷したの?」
さやかは顔を上げ、歯切れの悪い口調で答えた。
「え、えっと……百冊。初めてなのに、ちょっと刷りすぎちゃったかなって、すでに後悔してるとこ……」
「百冊? 寝室のクローゼットに百冊も入ってるの?」
「あ、ううん。手元にあるのはこの一冊だけで、あとは通販用の倉庫で預かってもらってるの。注文が入れば、そこから買った人の住所に届く仕組みなの」
俺は感心しながら頷いた。俺の知らないあいだに、さやかはネット通販の最先端を歩いているのだ。
「けど、百冊っていうのは、刷りすぎどころか、むしろ少なすぎないか? 『いいね』とブクマが三桁後半もあるのに」
「あ、あれは無料だから、みんな惜しみなくつけるのよ。お金を出して買ってくれる人なんて、その十分の一いればいいほうよ」
たしかに俺も、よっぽど好きな漫画家や作家の本以外は、わざわざ金を出してまで買わないもんな。
「でも、いいの。今回大量に余っても、これからも機会があればイベントに出て、数年かけてゆっくりさばいていくから。ほかのサークルさんたちも、みんなそういうやり方で販売してるみたいだし」
「そうか。まあ、多少時間がかかっても、売り切る見込みがあるなら安心だな」
「うん、そう。だから安心して。未来の営業部長さん。絶対に不良在庫は作りませんから」
「うっ……プレッシャーかけるなよ、奥さん。先月の営業成績も部内のブービー賞だったんだぜ、俺」
さやかはくすくす笑い、「大丈夫よ。佑くんは天然で空気が読めないところが残念だけど、面倒見がよくて優しいから。会社でも、そういうところを評価してくれてる人は必ずいると思うわ」と言いながら、俺の肩に頭をもたせかけてきた。
なんとなく引っかかる物言いだったが、さやかの甘い匂いをかいでいるうちにどうでもよくなってきた。アルコールの催眠効果と週末の疲れもあり、俺はそのままソファで眠り込んでしまった。

(三)

翌月の日下部湊オンリーのエアイベント当日。俺とさやかはソファで肩を並べ、俺のスマホでイベント会場を見物した。
事前にしっかり学習していたさやかの説明で、俺はピクスクのサイトでニックネームを登録し、用意された「アバター」のうち一体を選んで、イベント会場に入場した。ニックネームは、俺の干支の「うさぎ」にした。
アバターというのは、ネットワーク上の仮想空間における自分の分身で、イベント参加者はスマホのスワイプやPCのキーボードでこいつを動かし、会場内を移動して目当ての店に行く、という段取りらしい。俺が選んだのは、白いエプロンドレスを着た町娘のアバターで、可憐な雰囲気がさやかによく似ていた。
アバターの移動は、RPGの主人公を操作するような感じで、ふだんゲームをやり慣れている俺には、とくに難しいことはなかった。
イベント会場がまた面白かった。ファミコン時代のドラゴンクエストの街並みによく似ていて、京都市内のような碁盤目状の道に沿って、店がずらりと並んでいる。店の外観はさまざまで、店いっぱいに自作のイラストを飾っている店もあれば、ネットで無料配布されている素材を使って装飾された店もある。与えられた空間をまんべんなく使える分、リアルなイベントより店主の個性が出ている感じだ。
さやかの説明によれば、店の中に入ったアバターだけが、展示してあるイラストや漫画、小説を閲覧したり、通販サイトへのリンクがあるページを見ることができるらしい。通販で本を買うのも早い者勝ちで、そこはリアルなイベントと変わらないということだ。
なるほど、これがエアイベント会場か。幼いころから親しんだRPGを、街空間に限定してプレイするようなものだ。日下部ファンではない俺も、見ているだけでワクワクしてきた。
イベントの開始時間は、日付が変わる深夜0時。週末とはいえ、こんな真夜中からイベントに参加する人間がどれだけいるのかと訝しんだが、さやかの不安は別のところにあった。
「ど、どうしよう……もし、誰も私のスペースに来てくれなかったら……私の両隣のサークルさんって、どちらも『プティガト』の連載当初からいる古参さんで、周囲との交流もすごく活発なのよ。最悪、モーゼになるかも……」
「なに? モーゼって?」
俺の問いに、さやかは血の気の引いた顔で答えた。
「両隣のサークルにずらっと行列ができて、間に挟まれたサークルが閑古鳥な様子を、モーゼが海を真っ二つに割った『出エジプト記』の伝説に見立ててそう呼ぶのよ」
俺は感心してため息をついた。「なるほど、それでモーゼか。うまいこと言うなぁ」
「あっ、開場したわ! お客さんのアバターがどんどん入ってきた!……ああっ、無理! 私、とても見てられない!」
開場の合図からたった十秒で、さやかは膝においたクッションに顔を伏せてしまった。片手で彼女の頭をなでながら、俺はスマホで自分のアバターを操作し、さやかの店に入って店番を始めた。正確にはサクラで、一人でも先客がいれば、みな気になって入りたくなるのではと考えたのだ。
だが、そんな小細工は無用だった。すぐにさやかの店にアバターの大群が押し寄せ、店の前にはあっという間に長蛇の列ができた。
店に入れなかったアバターたちが、〈やばっ!出遅れたっ!〉〈sayaさんの神本が売り切れちゃうっ!〉〈見終わったら早くどいて!〉などの言葉を発しはじめ、俺は心臓が跳ね上がるほど驚いた。エアイベントには、チャット機能まで用意されていたのだ。
列に並ぶアバターの主たちは、店の奥にいる俺のアバターにも「さっさと出なさいよ!」と、画面越しに鋭い目を向けているのだろう。俺だってそうしたいのはやまやまだが、後から入店したアバターたちに通路を塞がれ、身動きがとれないのだ。
「さやか……君の店、えらいことになってるぞ」
俺の声かけに、「どうせ、どうせ私なんて……」といじけた呟きをもらしていたさやかが、おそるおそる顔を上げた。
「えらいこと? そんなに派手にモーゼしてる? 私のお店……」
「いや、その逆っていうか……まあ、とにかく見てみろよ」
俺の差し出したスマホを見た瞬間、さやかは「うそっ!」と声を上げた。すぐにガラステーブルから自分のスマホを取り上げ、Gmailのアプリを開いた。
「きゃっ! 通販の注文通知、もう二十通も来てる! あっ、また……どんどん来るわ!」
「すごいな。イベント開始からまだ十分しかたってないのに……やっぱり、百冊じゃ少なかったと思うぞ」
珍しく俺の予想が当たった。さやかの店には、その後もアバターが次々に訪れ、彼女が初めて出した本は、夜明けを待たずして完売してしまった。

〈え~っ、もう完売⁉ 瞬殺じゃん! 三十分も待ったのに!〉
〈争奪戦に負けたぁぁっ‼ もっとたくさん刷ってくれればいいのに!〉
〈saya様、どうかどうか、再販のご慈悲をっ!〉

完売後に店に入ったアバターたちがわめいていた。俺とさやかは顔を見合わせ、ひきつった笑みを浮かべた。
「とりあえず、完売おめでとう、saya先生」
「やっ、やだっ、先生はやめてよ! ビギナーズラックってやつよ! みんな、ド素人の描いた初めての本が珍しいから買ってくれたのよ!」
謙遜もここまでくると、かわいいを通りこして滑稽だ。俺は窓の外に目をやり、白みはじめた空を見ながら、軽くため息をついた。
「まあとにかく、恐れてたモーゼは回避できてよかったじゃないか」
「あっ、そうね、うん。やっぱり、お客様は神様だわ!」
「で、どうする? 争奪戦に敗れた神々のために、追加で印刷するの?」
さやかは腕を組み、しばらく考え込んでいた。鼻の頭をつまむように指を当て、すぐにはっとその指を引っ込めた。仕事中は眼鏡をかけているので、ブリッジをつまむ癖が出たようだ。
「うーん……それはやめておくわ。今度こそ、どれくらい印刷すればいいのかわからないし。再販したとたん、注文が入らなくなる話もよく聞くし」
俺はうなずいて、さやかの判断に同意する意思を示した。それから二人で寝室に入り、夕方までぐっすり眠った。
夕食の後、俺はもう一度イベント会場に入ってみた。驚くべきことに、さやかの店には、まだアバターたちが長い列を作っていた。本が買えなくても、展示してあるイラストや短編漫画が見たくて、忍耐強く並んでいるのだろう。その健気な姿に愛着すら湧いてきて、俺は思わず「これからも妻をよろしくお願いします」と頭を下げた。
さやかが畏怖していた両隣の店には数人の客の姿があったが、列はできていなかった。
これって「逆モーゼ」とでもいうのかな、などと考えていたときだった。

〈ウザっww〉

さやかの店の壁に身を寄せていたアバターが吐き捨てた。吹き出しのセリフは数秒間、宙に浮かんで消えた。
俺は急いでそのアバターをタップし、プロフィール欄を確認した。コードネームは「バロン」で、紹介文の内容から左隣のサークル主だとわかった。
ムカついたが、さやかには言わないことにした。彼女にとって人生初のイベント参加は、大成功のうちにもうじき幕を閉じようとしている。キッチンで食後のハーブティーを淹れながら、彼女は嬉しそうに鼻歌までうたっている。こんなちっぽけな当てこすりで、それを止めたくなかった。
あとになって振り返れば、それが最初の兆候だった。いや、本当はもっと前から始まっていたのかもしれない。
日下部界隈からさやかを追放する「掃討作戦」は。


第二章 壊れゆく妻

(一)

エアイベントの翌週あたりから、さやかの様子が少しずつおかしくなっていった。
目に見える変化としては、まず笑顔が失われた。さやかは生来の明るく穏やかな性格が表情にも表れ、目元や口元にはいつも微笑みが浮かんでいた。それがイベントを境に徐々に失われ、やがてめっきり笑わなくなってしまった。
笑顔とともに口数も減っていった。家にいる間は、暇さえあれば俺の横に来て、とめどもなくお喋りをしていたのが、借りてきた猫のようにおとなしくなった。俺が話しかけても、どこか上の空で、適当に生返事をするか、まったく返事がないこともあった。
食事の量も少しずつ減っていった。もともと少食だったが、いまでは茶碗半分のごはんを食べるのも苦痛なようだった。俺の作った料理は、謝りながら半分以上残し、自分が料理当番の日には、俺の分だけを作って、自分はひと口も食べないこともあった。
だが最大の変化は、日下部の絵を描かなくなったことだ。
エアイベントで長蛇の列ができ、本があっという間に完売したことで、絵師としての弾みと自信がついたのか、イベントの翌日は八枚ものフルカラーイラストを一気に描き上げていた。その日のうちにXやピクシブで公開すると、「いいね」もブクマも四桁を超え、コメント欄も絶賛大フィーバーだった。
それがいまでは、一枚のラフ画すら描けなくなった。思いつめた表情でタブレットPCを見つめるだけで、一本の線も描かぬまま、ため息をついてシャットダウンするようになった。
このように、俺の目に見える変化だけでも、さやかが何か悩みごとを抱えているのは明らかだった。しかし、それが何かがわからなかった。
「さやか。何か悩みごとがあるなら、俺に話してくれないか?」
イベント翌週の日曜日。食料品の買い出し後に立ち寄った喫茶店で、俺は単刀直入に訊いてみた。もし俺の言動が原因なら、すぐに謝るつもりだった。
さやかは飲みかけのコーヒーカップに目を落とし、ぽつぽつと答えた。
「じつは、最近立てつづけに仕事でミスをしちゃって……それがあまりにも初歩的なミスで、もう五年もこの仕事をやってるのに、何やってるんだろうって……そんな自分に嫌気がさしたの」
「ミスくらい誰でもするよ。俺の親父も、今年で勤続三十年だけど、いまだに社内一のパソコン音痴らしくてさ。メールの返信は遅いし、作成した文書は間違いだらけで、取引先に毎日謝ってるって言ってた。自分の親ながら、よくクビにならないよな」
さやかはうつむいて笑いを噛み殺した。ウケを狙ったわけじゃないけど、久しぶりに笑ってくれて嬉しかった。
「じゃあ、落ち込んでた理由は自己嫌悪? 上司や同僚からミスを責められたわけじゃないんだな?」
「あ……うん。誰にも、責められたりは、してないわ……」
さやかはうつむいたまま、弱々しい声で答えた。話しはじめてから、一度も俺の目を見ようとしない。それが何を意味するか、空気が読めない俺でもわかった。
「さやか、俺の目を見て、もう一度言って」
さっきより強い口調で言った。それでもさやかが顔を上げようとしないので、両手で頬を挟んで、強引に上を向かせた。
怒っていないことを示すため、目尻に皺を寄せてにっこり笑ってみた。だが、俺と目が合った瞬間、さやかの両目からぼろぼろと涙が溢れた。
「さっ、さやか⁉」
「だ、大丈夫……私、ほんとに大丈夫だから……」
さやかはハンカチで目を押さえ、プラスチックの筒から伝票を取って立ち上がった。早足でレジに向かう彼女を、俺は食料品で膨らんだエコバッグを両手に持って、急いで追いかけた。

(二)

その後、さやかの不調は、ますます深刻さを増していった。
とくに、食欲減退と不眠症に歯止めがかからず、顔も身体も青白く痩せこけて、生命維持にすら黄信号が灯りはじめていた。見かねた俺が「あとひと口だけ食べて」と口元にスプーンを運んでも、ベッドの中で震える身体を抱きしめ、トントンと背中を叩いても、さやかは「心配しないで。大丈夫だから」と言って、俺の手を拒んだ。
仕方なく、俺はつかず離れず、まるで腫れ物にさわるように彼女に接した。笑顔も会話もなくなった家の中で、今後の結婚生活への漠然とした不安を抱えながら。
そんな生活がひと月ほど続いたある日、勤務中にさやかが倒れたという知らせを、彼女の上司である経理部長から受けた。倒れたのは銀行に行く道の途中で、通りかかった人が救急車を呼び、最寄りの病院に搬送されたという。首にかけた社員証をたよりに、病院から真っ先に会社に連絡がいったそうだ。
「申しわけない、ご主人。最近、奥さんの体調が芳しくなさそうだと思ってはいましたが、『大丈夫です』という彼女の言葉を信じて、無理をさせてしまいました」
「い、いえ、そんな……強引にでも妻を休ませなかった私の責任です」
動揺を抑えながら電話を切ると、俺は上司に事情を説明して早退の許可をもらい、教えられた病院にタクシーで駆けつけた。受付でさやかの名を告げると、五分ほどロビーで待たされてから、二階の個室に案内された。
さやかは狭い個室のベッドで、静かな寝息を立てていた。転倒したとき路面に額をぶつけたらしく、ガーゼで手当てがなされていた。
案内してくれた看護師から命に別状はないと聞き、ハンカチで額の汗と目尻の涙を拭いた。すぐにドアがノックされ、別の看護師が入ってきた。さやかを診察した医師が俺を呼んでいるという。
「診断の結果、奥さんの転倒は血管迷走神経性失神によるものと思われます」
「血管迷走神経性失神……? それはいったい、どういう病気なんですか?」
耳慣れない病名に戸惑う俺に、医師は出来損ないの研修生を見るような目で答えた。
「血管迷走神経性失神は、過度なストレス、あるいは強烈な怒りや憎しみ、恐怖感などによって、自律神経に乱れが生じて失神を引き起こす病気です。しばらくは出勤や外出を控え、自宅で療養されることを勧めます」
俺は呆然となりながらも、なんとかうなずいた。
どうしてこんな状態になるまでほうっておいたんですか――医師も看護師も口には出さなかったが、俺に向けられた刺すような視線がそう言っていた。
「あ、あの……」
なんでしょうか、と眼鏡越しに訝しげな視線を寄越す医師に、俺は藁にもすがる気分で問いかけた。
「妻の様子がおかしいことは、一か月ほど前からわかっていました。でも、もっと食べるように勧めても、何か悩みがあるのか聞き出そうとしても、妻は『大丈夫』の一点張りで……まるで、身体の周りに強力なバリアを張って、俺が立ち入るのを拒んでいるみたいでした。そういう場合、俺は夫として、家族として……どうすればいいんでしょうか?」
二人の看護師は目を丸くし、互いに顔を見合わせた。医師は薄髭の伸びた顎に手をやり、つかの間考え込んでから口を開いた。
「そうですか……ご主人にも打ち明けられない悩みがある、ということであれば、奥さんのお母さんに相談してはいかがでしょうか? 奥さんの親子関係が良好なら、ということですが」
その晩、医師のアドバイスに従い、さやかの実家に電話をかけた。さやかは処方された睡眠導入剤で、数週間ぶりに深い眠りの中にあった。
さやかの実家は母子家庭で、両親は彼女が小学校に上がる前に離婚した。女手ひとつで大学卒業まで育て上げてくれた母親を、さやかはとても尊敬していた。
母親の山吹香さんは、どこの店にも所属しないフリーの美容師で、ヘアカットやカラーだけでなく、着付けやネイル、メイクまでこなすマルチプレイヤーだった。仕事の幅が広いだけでなく、いずれの腕前も一流なので、子どもからお年寄りまで多くの顧客を抱え、月に一、二日しか休みがないと聞いていた。
俺が電話をかけたときも、香さんは仕事から帰ったばかりだった。「夕飯がすんでからかけ直します」と申し出ると、「夕飯より、さやかの話が最優先よ」と言ってくれた。
俺は最近一か月のさやかの不調と、その原因がわからないこと、今日路上でさやかが倒れたことを話し、医師の助言でお義母さんに電話をかけたことを言い添えた。
最後まで聞いた後、香さんは力強い口調で言ってくれた。
「話はわかったわ。佑真くんにも話さない悩みを私に打ち明けてくれるかはわからないけど、できるだけのことはやってみるわ」
「お願いします、お義母さん」
翌日の土曜日、香さんはさっそく俺たちのマンションに来てくれた。母親の突然の来訪にさやかはびっくりしていたが、玄関で香さんにハグされると、ほっとした微笑を浮かべて彼女を迎え入れた。
香さんはすぐにキッチンに行き、持参した参鶏湯のレトルトパックを湯煎しはじめた。俺は知らなかったが、滋養強壮効果で有名なこの韓国料理は、さやかの大好物ということだった。
香さんがお碗によそった熱々の参鶏湯を、さやかは冷めるのが待ちきれないように、レンゲですくってふぅふぅいいながら食べ始めた。俺はテーブルに頬杖をつきながら、そんなさやかの横顔を見つめていた。どれほど彼女を愛しても、やはり実の母娘の絆には勝てないんだな、と思いながら。
俺が淹れた食後のコーヒーを手に、母と娘はソファに並んで座った。香さんが目で合図を送ってきたので、俺は「ちょっと買い物に出てきます。親子水入らずでごゆっくり」と言って玄関を出た。
買い物というのはもちろん口実で、買いたいものも、どこに行くあてもなかった。とりあえず駅前に出ようと、白いガードレールに守られた狭い歩道を歩きはじめた。
歩きながら、あのエアイベントの後に起こった出来事を、どんな些細なことでもいいから思い出そうと試みた。記憶の掘り起こしに集中しすぎて電柱にぶつかってしまい、犬の散歩をしていたおじいさんに笑われた。
そういえば、三週間ほど前のことだった。俺が夜中にトイレに起きたとき、さやかが真っ暗なリビングのソファで、膝を抱えながらスマホを見つめていた。一心不乱に画面をスクロールしていて、そばに俺がいることにも気づかないようだった。
「さやか?」と声をかけると、彼女ははっと顔を上げ、怯えた目で俺を見た。そして、スマホ画面を隠すように胸に抱きしめた。
「何してるんだ、こんな夜中に。まさか、お義母さんに何かあったとか?」
「う、ううん、そうじゃないし……な、なんでもないの。夕飯のときにワインを飲みすぎたせいかな。なかなか寝つけないから、ネットニュースを読み漁ってたの」
そのときは、彼女の言葉をそのまま信じた。俺にだって、ごくたまにだけれど寝つけない夜はある。だが、いまになって思い返してみると、あのときのさやかは俺が知っている彼女とは別人のようだった。
あの晩、さやかが食い入るように見つめていたのは、本当にネットニュースだったんだろうか。
そんなことを考えながら、駅前の大型ショッピングセンターに辿り着いた。ほかにとくに行きたい店がないという消極的な理由で本屋に行き、ニトリをぶらついた。
二時間ほどで歩き疲れ、混雑したフードコートの片隅でコーラを飲んでいると、香さんからLINE電話がかかってきた。いまはもうマンションを出て、駅までの道を歩いているという。
「ごめんね、ダメだったわ。『身体が悲鳴を上げるほど参ってるんだから、ひとりで抱え込まないで、なんでも話して』って言っても、あの子、『本当になんでもないの、大丈夫』の一点張りで……」
「そうですか……お義母さんにも話さないとなると、いよいよもって袋小路だな……」
最後の望みを絶たれた気分で、俺は思わずため息をついた。
数秒の沈黙のあと、香さんが沈んだ声で話しはじめた。
「さやかが悩みを打ち明けないのは、私の責任かもしれないわ。前の夫と別れたときから、私はさやかを育てるために仕事に必死で、あの子が小学校の頃からひとりで留守番をさせて、料理や洗濯も任せてしまったの」
「それは……お義母さんは女手ひとつでさやかを育てなきゃならなかったんですから、仕方ないことなんじゃ……」
「私も自分にそう言い聞かせて、顔で笑って心で泣きながら、朝から晩まで仕事尽くめの生活を送ってきたわ。さやかも『家のことは私がやるから、お母さんはお仕事頑張って』って、いつも愚痴ひとつ言わずにお留守番してくれた。でも、そのせいであの子は、必要以上にしっかりしすぎちゃったのかもしれない。自分だけでは解決できない悩みごとがあって、心も身体も限界まで追いつめられても、誰にも、佑真くんや私にさえ、『助けて』って言えないほどに」
そう言うと、香さんは深いため息をついた。俺は彼女を慰める言葉を思いつけず、代わりに切り上げの言葉を口にした。
「お義母さん、今日はありがとうございました。もう少し様子を見て状況が好転しなかったら、さやかを専門のカウンセラーに連れていくことも考えます」
「そう、そうね。それが一番いい方法かもしれないわね。佑真くん、どうか娘をお願いします」
電話を切り、マンションまでの道を急ぎながら、俺は自分に活を入れた。
この分だと、さやかが心身ともに回復するまでには、長期戦を覚悟しなければならないかもしれない。
それでも俺は、しっかり者に育ちすぎたさやかが「助けて」と言ってくれるまで、彼女にメッセージを送りつづけよう。「たとえ世界中が敵になっても、俺だけは絶対に君を裏切らない」というメッセージを。

(三)

翌日の月曜日、俺は朝一番に上司の携帯に電話をかけ、医師に下されたさやかの診断と、当面のあいだ自宅療養が必要であることを告げた。上司は同情してくれたが、看病のために有給をとることには難色を示した。一日や二日で治る病気じゃないなら、数日おまえが休んだところで意味はないだろう、という理由で。
日中、彼女ひとりを家に置いておくのは不安極まりなかったが、上司にそう言われては欠勤するわけにもいかなかった。
仕方なく、俺はさやかに、「会社に行っているあいだ、LINEで一時間おきに安否確認をしたいんだ」と言った。すると、彼女はうっすら涙ぐみながら「心配ばかりかけてごめんね、佑くん」と頭を下げた。
月曜日から木曜日は、とくに問題なく過ごせた。書類作成や会議の合間に、「変わりない? 大丈夫?」とLINEを打った。すぐに既読がつき、「うん、大丈夫」と返ってきた。
定時で上がり、夕飯の買い物をして帰宅すると、さやかが真っ暗な部屋の中で、一心不乱にスマホを見つめていた。
黙って部屋の明かりをつけると、さやかはまるで幽霊を見るような目で俺を見ながら「お、おかえり」と言い、スマホを閉じた。
「熱心にニュースを見るのはいいけど、目に悪いから、せめて明かりはつけなよ」
たぶん実際は違うんだろうと思いながら、俺はわざと明るい声で助け船を出した。さやかはほっとした表情で、「うん。次は気をつける」とうなずいた。
事態が動いたのは金曜日だった。動かしてくれたのは、頼れる腐女子の峰岸だった。
「ねえ白井、知ってた? あんたの奥さん、X上で『公開処刑』されてるわよ」
「こっ、公開処刑⁉ なんだよ、それ!」
どぎつすぎる言葉に心臓がぎゅっと縮こまり、思わず大声を上げてしまった。よりによって、ランチタイムの混雑したイタリアンレストランのど真ん中で。
峰岸が「しっ」と言ったが、時すでに遅し。周りの席の客たちがぎょっとした顔で俺を振り返った。
「なにが『しっ』だよ。言い出しっぺはおまえだろう」
開いたメニュー表で顔を隠し、周囲の視線をやり過ごしたあと、俺は峰岸に文句を言った。
「だって、そうとしか言いようがないのよ。百聞は一見に如かず。とにかくこれを見てみて」
峰岸が差し出したスマホには、Xの黒い画面が映っていた。そこには目を疑う罵詈雑言が溢れていた。

〈sayaはパクリの常習犯ww〉
〈mikaさん可哀そう……湊くんへの愛を込めて描いた絵をあんな小者にパクられるなんて……〉
〈トレス検証でクロ判定出たのにシラ切るなんてツラの皮あっつ!〉
〈汚ねぇ手で二度と湊くん描くな!〉

「えっと……これはいったい、なんの話なんだ?」
難解な外国語を目にした気分で、俺は峰岸に通訳を求めた。峰岸は眉間を寄せて画面をスクロールしながら、時おり指を動かして画面をスクショしていた。
「要約すると、奥さんにトレパク疑惑がかかってるってこと。トレパクってわかる?」
もちろんわからない。首を振った俺に、峰岸は「ピクシブ百科事典」というサイトのページを見せてくれた。そこには、こう書かれていた。

〈『トレース』と『パクリ(盗作)』を組み合わせ、略した造語。トレースを利用した悪質な盗作行為のこと〉

「つまり……こいつらは、さやかが誰かの絵をパクったって言ってるのか?」
峰岸は悲しそうな顔でうなずいた。「そういうこと」
「冗談よせよ! いったいなんの根拠があって……」
「これ」と峰岸がまたスマホを突きつけてきた。画面には二枚のラフ画が映っていて、どちらも日下部湊の顔を正面から描いたものだった。
右側の絵は、紛れもなくさやかの絵だ。先月のエアイベントで販売した本の表紙で、モデルは三年前の俺だと言っていた。
左側の絵は、誰が描いたものかはわからないが、パッと見てさやかほどうまくないと思った。目が異様に大きく、顔全体のバランスが悪かった。表情もぼんやりとして、いまひとつ精彩さに欠けている。俺にはさやかのような絵の才能はないが、原作の日下部湊を知っているから、あながち的外れな意見ではないと思う。
「右の絵がsayaさん、左の絵は、さっき名前が出てたmikaって絵師のよ。それでね、sayaさんをトレパク犯呼ばわりした女が、二人の絵を無理やり重ねた画像がこれ」
峰岸が画面をスクロールすると、新たな画像が出てきた。先ほどの二枚の絵を重ねた画像だった。
「どう見ても、完全一致にはほど遠いんだけど、顔の輪郭とギザギザの前髪、鎖骨の線はぴったり重なるの。それで……」
「……それでトレパク? ふざけんなよ! 同じキャラ描いてんだから、それぐらい似通ってて当然だろ!」
またしても大声を上げてしまった。周囲の客だけでなく、皿を下げていたスタッフまでが振り向いたが、もう気にしてはいられなかった。視線の矢を無視して峰岸を睨みつけると、彼女は不満そうに口を尖らせた。
「私に怒鳴らないでよ。私は奥さんが『日下部湊界隈』でいじめられてることについて、情報提供してあげただけじゃない」
たしかに、これはすごく重要な情報だ。俺には絶対に見つけられなかった。
そうか、これだったのか、さやかがあんなふうに変わってしまった原因は……動揺を静めるため、俺はサービスのレモンウォーターをがぶ飲みした。
「ごめん、峰岸。教えてくれ、この『公開処刑』は、いつ頃から始まったんだ?」
「ちょっと待って。遡って調べてみる」
峰岸のさっぱりした性格がありがたかった。オマール海老のクリームパスタを口いっぱいに頬張りながら、彼女はテーブルに置いたスマホを手早く操作した。彼女の指が画面をスクロールするたびに、大量のデジタル文字とイラスト画像が現れては消えていく。まるで、夜霧を走る新幹線の窓から見る風景のように。
「一番最初の投稿者がバロンって絵師で、日付は十一月六日。内容はさっきの二枚の絵と、トレパクを匂わせたコメント。〈私の目の錯覚でしょうか? ご新規sayaさんの絵がベテランmikaさんの絵にそっくりなんですが〉ってやつ。それがあっという間に拡散して、同調コメントが殺到したみたい」
俺は自分のスマホを開いて、カレンダーを確認した。あのエアイベントが十一月四日だったから、初投稿はその二日後か。その後、同様の投稿や誹謗中傷が相次いだとすれば、さやかの状態がどんどん悪化していったこともうなずける。
そのとき、俺はあることに思い当たった。
「峰岸。一番最初に投稿した奴の名前、バロンって言ったよな?」
「え? ああ、うん。それがどうかしたの?」
俺は黙って目を閉じた。そして、あのRPG風のイベント会場を思い浮かべた。
あの会場に、バロンもいた。さやかの左隣のサークルで、さやかの店に向かって〈ウザっww〉と吐き捨てた奴だ。

(四)

峰岸のおかげで、さやかの不調の原因はわかったものの、それを彼女にどう切り出そうか、午後の仕事中や帰りの電車の中で、そればかりを考えていた。
ひと月以上ものあいだ、連日のようにネット上で「公開処刑」されていたことを、さやかは俺にひた隠しにしていた。心配をかけまいとしたのか、それとも、彼女より頭の回転が遅いうえに、二次創作やSNSに疎い俺なんかに話しても仕方ないと思ったのか。どちらであるにせよ、夫として、さやかを一生守っていくと誓った俺にとっては悲しく、そして情けないことだった。
夕飯を作る気にもなれず、コンビニに寄って弁当を二つ買った。一つはデミグラスハンバーグ弁当で、もう一つは五目そうめんだ。そうめんはミニサイズだが、いまのさやかにはちょうどいい大きさで、胃の負担も少ないだろうと思った。医師からも「食事は無理せず食べられるだけ、消化の良いものを食べさせるように」と言われていた。
重い足でマンションに着いた。カードキーで玄関のドアを開け、極力音を立てないように中に入った。忍び足で廊下を歩き、リビングのドアの隙間から室内を覗くと、そこには予想どおりの光景があった。
真っ暗なリビングで、さやかは今日もスマホを見つめていた。画面から放射されるブルーライトが、痩せこけた彼女の顔をほの白く浮かび上がらせていた。
「なんでよ……なんであなたまで……ついこのあいだ、私の絵をリポストして、『ほかの誰にも絶対描けない唯一無二の湊くん』って言ってたじゃないっ……」
吐き捨てるように言うと、さやかは顔を覆って泣き崩れた。
その姿を見た瞬間、俺のなかで何かが弾けた。さやかはもう限界に来ている。俺が話すことで彼女を傷つけたらどうしようとか、怖気づいている場合じゃない。言葉の暴力という濁流に流されて、もうじき溺死しかけているのに、それでも「助けて」と叫べないなら、後ろから羽交い絞めにしてでもすくい上げるしかない。
すぐにリビングの明かりをつけた。さやかがはっと顔を上げ、泣き濡れた赤い目で俺を見た。今日だけで、いったい何度泣いたのだろう。
「あ……お、おかえり、佑くん」
俺はその場に鞄とコンビニの袋を置き、パジャマの袖で顔を拭うさやかに近づいた。「な、なに?」と後ずさる彼女から強引にスマホを取り上げ、カバーを開いて画面を見た。
「……やっぱり」
映っていたのはXだった。黒い画面いっぱいに、さやかへの誹謗中傷が乱舞している。俺は奥歯を噛みしめ、いますぐスマホを叩き割ってやりたい衝動をこらえた。
「かっ、勝手に見ないで! 返してよ!」
スマホを奪い返そうと伸ばしてきた腕を掴み、痩せ細った体を力いっぱい抱きしめた。
「さやか、先月からの君の不調は、日下部湊の絵でトレパク疑惑を吹っかけられたせいだったんだな?」
腕の中で、さやかがギクッと身体を強張らせた。表情を見るためにいったん引き離すと、充血した瞳から新たな涙が溢れ出た。
「ゆ、佑くん……どうして、そのことを……」
「今日の昼、腐女子歴十五年の頼もしい同僚が教えてくれたんだ。ソースはもちろんXだ」
さやかは首を振りながら、震える声を絞り出した。
「……してない……わ、わたし……トレパクなんて、してないよ……」
「当たり前だ! さやかは白だよ、雪のように真っ白だ。俺も、その同僚も、そんなことわかってるよ」
「でっ、でも……だれも信じてくれないの! mikaさんは古参の大手さんだし、ふだんから交流が盛んな人だから、彼女を崇拝する信者さんも多くて、新参者の私のことが前々から気に食わなかったんだと思う。そういう人たちが、トレパク疑惑が投稿されてから一斉に私を非難してきて……『やってないって言うなら証拠を出せ』って言うから、字書きの友だちにアドバイスされて、湊くんの絵を描いてる動画をアップしたの。描いてる最中は誰の絵も見てないし、もちろんトレースなんてしてないわ。でも、mikaさんの信者たちは、その動画も絶対加工してる、インチキだって決めつけてきて、私が描いたほかの絵も、みんなmikaさんのトレパクだって騒ぎはじめて……そのせいで、それまで私を擁護してくれてた人たちも、手のひらを返したように私を攻撃してきて……Xだけじゃなく、ピクシブのダイレクトメッセージにも、匿名の誹謗中傷が大量に届くようになって……ずっと私の味方でいてくれてる友だちにまで誹謗中傷が来るようになって……だ、だからもう、どうしていいか……」
「そんなことが……」
ようやく聞き出せた真相に愕然となった。想像していたよりはるかに悪質で執拗な奴らのやり口は、まるで振り払っても振り払っても身体にまとわりついてくる無気味なエイリアンのようで、聞いているだけで身の毛がよだった。
だが、俺まで濁流に流されるわけにはいかない。気を奮い立たせ、もういちどさやかを抱きしめた。さやかは俺の胸にしがみつき、声を殺して泣いた。
「さやか。そんなひどい仕打ちを受けながら、どうして今まで一人で抱え込んでいたんだ?」
「いっ、言えるわけないじゃない、こんなこと! だ、だって……二次創作だよ? 仕事やからだの悩みだったらともかく……それに二次創作なんて、ふつうの人に言えるような趣味じゃないし、そこで他人の絵を盗作した疑いをかけられて、一方的に攻撃されてます、なんて……そのせいでノイローゼになって、あげくの果てに勤務中に倒れて会社を休んでます、なんて……佑くんにもお母さんにも、もちろん会社の人にだって、とても言えるわけないよ」
「お義母さんや会社の人はともかく、俺は君が二次創作をしていることを知ってただろう? 俺なりに応援だってしていたつもりだ。なのに、なぜ頼ってくれなかった? 俺はそれがとても悲しいんだ」
「佑くん……」
「さやか。俺は君にとって、そんなに頼りない男か?」
さやかは激しく首を振り、顔を覆って泣き崩れた。
「ち、ちがうの……佑くんのこと、頼りないなんて思ったことない……佑くんもお母さんも、私にとって大好きな人だから、よけいに迷惑かけたくなくて……」
床の上でさやかは膝を抱え、膝頭に額を押しつけて泣き顔を隠した。まるで、自分だけの世界に閉じこもるように。
先日、電話で香さんから聞いた話だ。幼いころからさやかはいつもひとりぼっちで、仕事をする母親の帰りを待っていた。香さんが夜遅くに帰宅すると、待ちくたびれたさやかは、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめながら、明かりのついた部屋の片隅で、赤ん坊のようにからだを丸めて眠っていた。まつ毛や頬が涙で濡れていることもあった。そんなさやかを見るたびに、香さんは胸が締めつけられる想いだったという。
さやかと結婚するとき、香さんが俺につけた注文は、たった一つだった。「佑真くん。さやかをひとりぼっちで泣かせないよう、くれぐれもお願いします」
俺はさやかの前に座り込み、彼女の頭をなでながら言った。
「なあ、さやか。君が日下部湊を熱烈に推してるのはわかる。でも、君がそんな人間の屑みたいな奴らのせいで傷つき、衰弱していくのを見るのは耐えられない。絵を描くのをやめろとはいわない。ただ、ネット上に公開するのはもうやめたほうがいい。Xやピクシブのアカウントもいますぐ消して、からだと心が回復することだけを考えるんだ」
「だ、だめよ! だって、このまま逃げたりしたら、やっぱりパクってたんだって言われちゃうもの。私を信じてかばってくれてた友だちにも迷惑がかかる。だっ、だから私……トレパクの疑いを晴らすまで、絶対に逃げるわけにはいかないのよ!」
噛みつくような叫びを聞きながら、俺は深いため息をついた。
悲しいが、認めないわけにはいかなかった。もうさやかは以前の聡明な彼女ではなくなっている。いい年をした大人のくせに、中学生より幼稚で卑怯な奴らに徹底的にいじめ抜かれたせいで、冷静な判断ができなくなっているんだ。
そのとき、俺の手の中でさやかのスマホが振動した。手を伸ばしてきたさやかに「もう今日はXは見るな」と言うと、
「えっ、Xのバイブは切ってあるわ……バイブ通知は、LINEかInstagramのどちらかよ」
じゃあ大丈夫か。俺がスマホを返すと、さやかはすぐにカバーを開いて画面を見た。俺も横から覗き込んだ。
通知はInstagramからだった。さやかがアイコンをタップすると、目を剥くようなメッセージが現れた。

〈パクり犯に告ぐ。キサマの個人情報を突きとめた。明日から家族もろとも『公開処刑』してやる〉

「あ……」
眩暈を起こしたさやかを抱きとめ、手の中のスマホをもぎ取った。
「気にしなくていい、さやか。こんなのハッタリだ」
「で、でも……私のせいで、佑くんやお母さんまで……」
「落ち着くんだ。もし本当だとしても、ここまでやったら完全に犯罪だ。必ず相手を突きとめて訴えてやる」
なおもパニックが収まらぬさやかに、俺はなかば強引に睡眠導入剤を服用させた。まず俺がワインと錠剤を口に含み、泣いて暴れる彼女を床に押し倒して口移しで飲ませた。
薬とさやかの相性が良いのは助かった。なおももがく彼女を抱き上げてベッドに寝かせ、上に覆いかぶさってきつく抱きしめていると、五分もしないうちに深い寝息を立てはじめた。俺はベッドから降り、ぜいぜいと肩で息をした。
そうめんを食べさせられなかったことが悔やまれたが、いまは食事より睡眠のほうが大事だ。俺はレンジでハンバーグ弁当を温めて食べ、シャワーを済ませてさやかの隣に潜り込んだ。
だが、神経が異様に昂って眠れず、リビングのソファでオンラインゲームに現実逃避した。出現確率15%のレアアイテムを入手したところで夜明けを迎え、キッチンで熱いブラックコーヒーを飲んでいると、テーブルの端に置いたスマホが鳴った。上司からの電話だった。
「白井。昨日おまえが先方に届けた商品の一部に破損が見つかったそうだ。早急な回収と交換を要請された。いまから行けるか?」
どうしてこう悪いことが重なるんだろう。痛む頭に手を当てながら、俺は選択の余地のない問いに答えた。
「もちろんです。すぐに先方に直行します。申しわけありません、部長。私の確認不足のせいで」
「おまえのせいじゃない。品質検査は商品の一部だけでいいから、納期を大幅に早めてほしいと無茶を言ってきたのは向こうだ。それより、休日の朝早くにすまんな。俺もいまから家を出る。作業は二、三時間あれば終わると思う」
わかりました、と言って電話を切り、クローゼットからスーツを出して着替えた。
さやかを一人にするのは心配だったが、彼女は薬の効果でまだぐっすり眠っている。二、三時間で帰ってこれるなら、まあ大丈夫だろうと考えた。
念のため、さやかのスマホはキッチンの食器棚の上に置いた。もちろんⅩ閲覧防止のためだ。荒っぽい方法だが、この際仕方なかった。
スマホを隠してしまったので、もちろんLINEも使えない。さやかが目覚めたとき不安にならないよう、書き置きをすることにした。「急な仕事が入ったので出かけます。三時間ほどで帰る予定です。冷蔵庫にそうめんが入ってます」と書いたメモをキッチンのテーブルに置き、足早に玄関を出た。

(五)

取引先の倉庫で作業を終え、部長と同乗したタクシーでマンションに帰りついた。玄関にさやかの靴があることに安堵し、リビングを抜けて寝室に入った。
ベッドにさやかの姿はなかった。キッチンにも、彼女の私室にもいない。となると、あとはトイレと浴室しかない。
リビングの壁にかかった給湯器のパネルを見ると、浴槽の給湯ボタンが点灯していた。身体が衰弱しはじめてから、さやかは一度湯あたりで倒れたことがあり、それ以来入浴はシャワーだけですませていた。
俺はパネルに飛びつき、呼び出しボタンを押して声をかけた。
「さやか、大丈夫か?」
十秒待ったが、返事はなかった。同じことを二度繰り返したが、結果は同じだった。のぼせて浴槽で失神しているのか、それとも……
廊下を走って洗面所に飛び込み、ノックもせずに浴室のドアを開けた。真っ先に目に飛び込んできたのは、床に置かれた黒金色のカッターナイフ。それから、薔薇の花びらを煮詰めたように鮮やかな赤に染まった湯と、その中に片腕を入れ、浴槽の縁を枕にして眠る、パジャマ姿のさやかだった。


第三章 復讐の火ぶた

(一)

十日間の忌引休暇が明け、俺は会社に退職届を提出した。
本当はすぐにでも辞めたかったが、就業規則に従って、受理されてから二週間は出勤することにした。
折よく、二週間後には年末休暇に入る。辞め時としてはじつにいいタイミングだ。「立つ鳥跡を濁さず」をめざし、退職までは引き継ぎに専念することにした。
社内では、さやかの死は自殺ではなく交通事故死ということになっていた。上司である部長が、よけいな詮索や噂を避けるために、そうしたほうがいいと助言してくれたのだ。
「本当に申しわけない。俺があのとき、おまえを呼び出したりしなければ……」
身内だけの葬儀を執り行った日の晩、マンションのエントランスで部長は俺に土下座した。
違います、部長のせいじゃありません――床に伏した上司の、白髪の混じった後頭部を見ながら、俺は嗚咽をこらえて頭を振った。
辞表を提出したあと、同僚たちが入れ代わり立ち代わりデスクにやってきて、熱心に引き留めてくれた。
「白井。奥さんのことは残念だったけど、仕事は続けたほうがいいよ。出社するのもつらいなら、立ち直れるまで休職するって手もあるんだし」
それぞれに言葉は違うが、おおむねそのような内容だった。
だが、俺の心は決まっていた。一人ひとりに礼を言い、「事情が事情だし、送別会もいらないから」と言うと、みなハンカチで目を押さえ、うなだれながら自分のデスクに戻っていった。
ただ一人、峰岸にだけは真実を打ち明けた。忌引休暇の最中、もしできれば弔問をさせてほしいと連絡をくれた峰岸に、俺は快諾と感謝の返事を返した。
リビングに設えた後飾り祭壇に、峰岸は持参した仏花や菓子を供え、さやかの遺影に向けて長い時間黙とうを捧げてくれた。俺は丁重に礼を言い、テーブルに用意した茶菓子と緑茶をすすめた。
「初めてお会いしたような気がしないわね、さやかさん。彼女が描いた絵そのままの、透明感のあるきれいな人ね」
「ありがとう。さやかが聞いたら、きっと喜ぶ」
峰岸は湯呑を置き、じっと俺の目を見た。
「白井、無理して笑わなくていいよ。今日はあんたに作り笑いをさせるために来たんじゃないの。本当の話を聞けたらと思って来たのよ」
「……わかった。おまえには話すよ」
ため息とともにうなずいた。峰岸に連絡をもらったときから、こうなる予感はしていた。
感情を押し殺すため、「これは新商品開発のミーティングだ」と自己暗示をかけながら、峰岸が「公開処刑」のことを教えてくれた翌日に、さやかが風呂場で自殺したことを話した。
語り終えたとき、峰岸はテーブルに顔を伏せて泣いていた。俺は彼女の後ろに目を向け、遺影のさやかと微笑を交わした。彼女がまだ元気だった頃は、俺たちは日に何度も同じことをしていた。
「そ、そうじゃないかと思ってた……だって、あんな……根も葉もない疑惑やしつこい誹謗中傷を受けつづけたら……わ、私だって、奥さんと同じことをしていたかもしれないもの……」
さやかの遺影から目を逸らし、泣きすぎてメイクがぐちゃぐちゃになった峰岸に微笑みかけた。さやかの痛みと無念を理解してくれる人がいてよかった、と思いながら。
ハンカチで顔を拭きながら峰岸が言った。
「でも……ごめん、白井。いちばん悪いのは私。私があの日あんたに言わなかったら、奥さんは死なずにすんだのかも……」
「峰岸はなにも悪くない。悪いのはさやかの『公開処刑』にかかわった屑どもと、夫でありながらさやかを救えなかった俺だ」
「な、なに言ってんの! 白井はなんにも……」
言いかけて、峰岸は口をつぐんだ。俺がテーブルの上に置いたA4サイズのコピー用紙を、息を呑んで見つめた。
「さやかを執拗に誹謗中傷した奴らのリストだ。こいつらを全員処刑して、俺は俺の罪を償うつもりだ」
「白井……」
呆然と呟いた峰岸に、「どうせもう俺には、失うものは何もないから」と微笑んだ。
長い沈黙の後、峰岸は俺の目を見てうなずくと、「わかった。私もできるだけ協力するわ」と言って、ハンドバッグから推しキャラのボールペンとスマホを取り出した。
峰岸の協力のおかげで、俺の作った「公開処刑リスト」には十人以上の名前が加わり、もともとリストアップしてあった奴らの罪状も大幅に追加されることになった。
峰岸が保存しておいてくれたX画面のスクショには、投稿者本人がすでに削除したものも数多く含まれていた。それらを一枚残らず俺のLINEに転送してもらった。
「情報料として受けとってくれ」と差し出した一万円札を、「バカ言わないで。たかだかXのスクショじゃない」と峰岸は笑って突き返した。
窓の外はすっかり暗くなっていたので、峰岸を最寄り駅まで送っていった。
帰宅後は簡単に部屋の掃除をして、夕飯はレトルトカレーをあたためて食べた。さやかが亡くなってから、いちども料理らしい料理はしていない。
今夜もベッドには入らず、リビングでオンラインゲームの世界に入り浸った。夜明けまで一睡もせずにゲームに没頭し、疲れ果てて失神するように眠るのが日課になっていた。
一人きりの寝室で眠ることが恐ろしかった。暗闇のなかで目を閉じると、あの日、浴室でさやかを発見したときの光景がフラッシュバックするからだ。

(二)

「うわあああああっ、さやかっ! さやかっ!」
半狂乱で彼女の名を呼び、赤い湯から白い手首を引き上げた。ぱっくり裂けた血だらけの腕に夢中でタオルを巻きつけるが、あっという間にそれも赤く染まる。恐ろしくて、痛々しくて、脳の神経が焼き切れてしまいそうだった。
震える手でズボンのポケットからスマホを取り出し、一一九番通報をした。救急車の到着まで五分はかかると言われ、「急いでくれ! 妻が死にそうなんだ!」と怒鳴って電話を切った。
浴室の床にへたり込み、パジャマ姿のさやかを抱きしめながら、たぶんもう手遅れだろうと思った。もうさやかは息をしていない。根も葉もないトレパク冤罪と誹謗中傷で傷つきすぎた彼女の魂は、永遠の安穏をめざして天国へと旅立ってしまったのだ。
その証拠に、俺の肩にもたれかかるさやかの顔は青ざめ、憔悴しきってはいたものの、苦痛の表情は浮かんでいなかった。
さやかが苦しみから解放されるためには、自殺という方法しかなかったのか……子どものように泣きじゃくりながら、俺は無力感にうちひしがれた。
そのとき、カサッという音が聞こえた。小さな正方形に折り畳まれた紙切れが、浴槽の床に落ちた。たぶんさやかが、リストカットをしなかったほうの手で握りしめていたものだろう。
状況からして、遺書にちがいないと思った。俺はさやかの頭を膝にのせ、その紙切れに手を伸ばした。
自分を自殺に追い込んだ連中への恨みつらみが書いてあるかもしれない、という予想に反し、桜模様の便箋に几帳面な美しい字で綴られていたのは、俺にあてた短いメッセージだけだった。

〈さよなら、佑くん。いままで本当にありがとう。佑くんは私をとてもとても大事にしてくれたのに、迷惑ばかりかけてごめんなさい。次はあなたにふさわしい素敵な女性と結婚して、末永く幸せになってください〉

俺は便箋をくしゃくしゃに丸めて握りしめ、拳ごと浴室の床に叩きつけた。同じことを何度も何度も繰り返し、内出血で拳が赤く腫れあがってもなお床を殴りつづけた。
拳より、さやかの最後の優しさにえぐられた胸のほうが痛かった。俺の膝の上で目を閉じるさやかに怒りをぶつけたくても、彼女はもう何も答えてはくれない。
「ひでぇよ、さやか……あんまりだ……俺をひとりぼっちにしただけじゃ飽き足らず、どん底に突き落とすなんて……」

(三)

さやかが亡くなってひと月が過ぎ、俺が会社を辞めた頃から、香さんがほぼ毎日のようにマンションにやってきて、彼女が仕事帰りに買ってきた夕飯を一緒に食べるようになった。
最初の日、「佑真くんにまで死なれちゃ困るから、これからは毎日安否確認に来るわ」と言われた。それに対し、「心配しすぎですよ、お義母さん」と答えた自分の声は、あまりにも弱々しかった。
晩酌の前、香さんは必ずさやかの遺影に向けてグラスをかかげ、「乾杯、あたしのかわいい子猫ちゃん」と声をかけた。俺もなにか気の利いたことを言おうとしたが、結局いつも「乾杯」しか言えなかった。
「前から思ってたけど、佑真くんってさ。そんなにイケメンなのに、真面目すぎてもったいないよね」
「真面目かどうかはわからないけど、さやかにもよく言われました。『結婚記念日や誕生日くらい、甘い言葉の一つや二つ言ってくれてもいいのに』って。でも、ダメなんです。いざさやかの顔を見ると恥ずかしくて、全身がむず痒くなってしまって。赤い薔薇の花束を渡しながら、『I Love You』のLINEスタンプを送るのがせいいっぱいでした」
香さんは口からビールを噴き出し、ゴホッ、ゴホッと激しくむせた。俺が差し出したティッシュで口を拭きながら、
「やっ、やだそれ実話? じゃ、じゃあ、告白もプロポーズも、さやかのほうから?」
「いえ。さやかが俺の態度や行動から察してくれたっていうか……だから、もしさやかに会えなかったら、俺はずっと独身だったと思います。会社の女子からも『空気が読めないざんねんなイケメン』って呼ばれてたらしいんで」
香さんはビールの缶を握りしめながら、ひとしきり肩を揺すって笑っていた。そのあいだ、俺は唐揚げやレバニラ炒めやチーズ鱈をつまみ、缶チューハイを飲んだ。香さんのおかげで、どん底だった食欲が少しずつ戻ってきていた。
俺が食器を洗っているあいだ、香さんはリビングのソファに座り、さやかの本をぱらぱらと読みはじめた。あのエアイベントで販売した、最初で最後の日下部湊本だ。いまとなっては、その本もさやかの遺品だった。
「小説やビジネス書ばかり読んでいたあの子が、こんな漫画を描くなんてね……たしかにこの日下部って男の子、佑真くんによく似てる。そんでもって、この桐生颯香って女の子がさやか自身なんでしょ? さやかが佑真くんに言ってもらいたいセリフを、日下部から颯香に言わせたのね」
「わかりますか? さすが親子ですね」
大袈裟にほめてみせると、香さんはふん、と鼻を鳴らした。
「べつにあたしには推しもいないし、二次創作にも興味ないけど。日下部が佑真くんにそっくりなら、さやかは相手の女の子に感情移入して描くに決まってんでしょ。でも……ふーん、キスシーン止まりなんだ。ベッドシーンは思いとどまったか、わが娘よ」
「ええ。おかげで、俺もなんとか読ませてもらえました」
言いながら、部屋の隅で膝を抱えていたさやかを思い出す。真っ赤な顔を伏せていた姿がかわいくて愛しくて、思わず涙が浮かんでくる。その目を洗剤のついた手で拭ってしまい、激痛を堪えながら流水で洗う羽目になった。
それから、二人で食後のコーヒーを淹れた。香さんは当然のようにさやかのカップを使った。俺にももちろん異存はなかった。
「ねえ、佑真くん。もしかしたら、あなたも知ってるかもしれないけど」
淹れたてのコーヒーに息を吹きかけながら香さんが言った。だが、そこで言葉は途切れ、なんとなく俺のほうから訊かざるをえない雰囲気になった。
「なんですか、お義母さん」
「あ、うんとね……さやか、妊娠してた可能性があるの」
頭が真っ白になった。おそらく、前触れもなくこの話を振られた大抵の男がそうであるように。
「あ、やっぱり知らなかったのね」と言う香さんに、ぶんぶんと首を縦に振ってから、「ほ、ほんとですか、お義母さん!」と身を乗り出した。
「うん。さやかが亡くなる一週間くらい前に、電話で相談されたの。自宅療養を始めてから生理が来ないんだけど、体調不良のせいか、それとも妊娠したのか、どっちだろうって」
「そ、それで……?」
「とりあえず妊娠検査薬を買ってきて、検査してみるように言ったの。その結果がこれね」
差し出されたスマホに、左半分がピンク、右半分が白色の、プラスチックのスティックが映っていた。その真ん中にある小さな長方形の窓に、うっすらとしたピンクの線が二本映っている。
「尿検査用のスティックなんだけど、妊娠していたら、ここに二本の線がくっきり出るの。でも、色がかなり薄いから、二週間後にもういちど検査してみて、もっと濃い線が出たら、一緒に病院に行こうって言ったの。さやかもそれに賛成したわ。もし妊娠してなかったら佑真くんをがっかりさせちゃうから、彼に言うのはお医者さんの診断が出たあとのほうがいいって」
「そ、そうだったんですか……」
自分でも間抜けな返事だと思ったが、告げられた内容が衝撃的すぎて、息をするのさえやっとだった。
落ち着くために、コーヒーをひと口飲んだ。香さんはスマホでほかの写真を見始め、俺が衝撃から立ち直るまでほうっておいてくれた。
妊娠の話もショックだったが、もっとショックだったのは、ネットで誹謗中傷を浴びつづけた、地獄のような日々の中で、さやかが俺に言えない秘密をもう一つ抱えていたことだ。そしてその秘密は、遺書にも書かれていなかった。代わりに書かれていたのは、俺に再婚を促すようなメッセージだ。
椅子からふらふらと立ち上がり、リビング奥の壁際に設えた祭壇の前に座り込んだ。祭壇というよりドレッサーのような洒落たデザインで、下の収納庫に納骨ができる仕様になっている。俺は観音開きの戸を開けて、さやかの遺骨が入った七宝焼きの小さな骨壺を取り出した。
それを胸に抱きしめて、言いようのない感傷に浸っていると、テーブルの向こうで香さんがぐすっと鼻を鳴らした。
「さやかが妊娠していたのかどうか、いまとなってはもうわからないね。残された佑真くんのことを思えば、してなかったって思ったほうがいいのかもしれないわね」
「……そんなに頼りなかったんですかね、俺は。さやかにとって」
なぜか香さんにまでダメ出しをされた気分になり、つい口に出してしまった。
香さんに当たっても仕方ないことはわかっている。そんな自分がまた嫌になった。
「佑真くん。先日も言ったけど、さやかがなんでも一人で抱え込む性格になったのは、私の責任よ。さやかは佑真くんが大好きだった。だから毎日せっせと日下部湊の絵を描いてたんでしょ。人生最推しの旦那さんにそっくりだったから」
俺は思わず笑った。骨壺を納骨庫に戻し、香さんの前に戻った。
「推すより、寄りかかってほしかったなって思うんですよ、俺は。そのほうが何倍も嬉しい」
「さやかに『愛してる』も言えなかったのに? あんたたち、どっちもどっちよ」
痛いところを突かれた。にやにや笑いの香さんから目を逸らして押し黙っていると、テーブルのスマホがバイブした。LINEの受信通知だ。
「あら。まだ解約してなかったの? さやかのスマホ。お金がもったいないじゃない」
「しませんよ。さやかの復讐を果たすまでは」
復讐⁉ と目を剥いた香さんに、にこりと笑ってうなずいた。パスワードを記したメモをさやかが残してくれていたおかげで、料金さえ払えば彼女のスマホを使いつづけることができる。
四桁の番号を入力してロックを外し、アイコンをタップしてLINE画面を呼び出した。
メッセージの送り主は「きつつき」。日下部推しの字書きで、最後までさやかの味方でいてくれた女性だ。これまでの会話から、二人はプライベートでも会うほど仲が良かったようだ。
さやか、いや、sayaの話が聞きたくて、俺のほうから素性と事情を明かしてコンタクトを取った。信用してもらうため、俺のマイナカードと、さやかの「死亡診断書」の写真を添付して送った。
一か八かの賭けだったが、返信が来たということは、どうやら信用してくれたようだ。

〈初めまして、白井佑真さん。「きつつき」こと橘かえでと申します。二次創作の世界でsayaさん、もとい、さやかさんの一番のファンを自認していました〉
〈奥様のご逝去に際し、心からお悔やみ申し上げます。トレパク疑惑の件では私も多分に思うところがあり、今回ご連絡させていただきました。込み入ったお話なので、できたら直接お会いできればと思います〉

(第2話につづく)


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