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マトリなふたり③

第三話 公然の秘恋


近年、日本における女性の社会進出が進んだ影響で、国家公務員全体に占める女性の割合は約4割、厚生労働省でも33%まで上昇している。
だが、厚生労働省管轄の麻薬取締部(マトリ)では、その割合は2割にとどまる。
「マトリの遊軍」として3年前に設置された特殊捜査課も、20代女性である京本をトップに抜擢したことで一時的に世間の注目を浴びたが、構成員21名のうち、女性はたった4名という「男社会」だ。
女性職員の内訳は、課長の京本、双子の片割れで入職3年目の工藤来夢、事務担当の伊藤志穂(47歳)、そして新人の織田愛未だ。
総務・経理のプロフェッショナルで、高校生と中学生の母でもある伊藤の前職は、なんと京本の近所のスーパーのパート事務員だ。
そのスーパーの店長が、京本の叔父の高校時代の同級生で、伊藤が事務所に入ってからの5年間で30%もの経費削減に成功し、赤字続きだった経営が黒字転換したことを聞いた。その話を叔父に聞いた京本が、特殊捜査課の立ち上げに当たり、伊藤をスカウトすると決めたのだ。
「そんな、ご近所つながりの口コミで、かりにも麻薬取締部の人材を決めるなんて……」
伊藤の前職とスカウトのいきさつに、最初は困惑した職員たちだったが、数日もたたぬうちに京本の慧眼に感心した。経費の精算や電話応対はもとより、日々の職員の体調チェックや食事のアドバイス、恋愛や夫婦間のトラブル相談にいたるまで、事務能力に加えてベテラン主婦の力まで遺憾なく発揮する伊藤に、課の誰もが「しっかり者のオカン」に世話されている子どもの気分になった。
「麻実ちゃんはヨチヨチ歩きの頃からうちのスーパーに来てくれててねぇ。お母さんに買ってもらったアイスを、我慢できずにその場で袋から出して、口のまわりをベタベタにしてめる姿がいまも目に浮かぶわぁ」
お茶の時間に伊藤が思い出話を始めると、誰もが興味津々で聞き入った。なかには「それって、いまとぜんぜん変わらなくね?」と軽口を叩く者もいて、部屋じゅうに笑いの渦が巻き起こる。当の京本はそのたびに、「や、やめてくださいよぅ、伊藤さん!」と机の下に隠れてしまうのだった。

セクハラ対策かどうかは不明だが、新人の織田愛未には、その伊藤女史と工藤来夢の間の席があてがわれた。男嫌いの愛未は心底ほっとしたが、愛未の美貌に惹かれていた男たちには残念な采配だった。
「織田さんはまだ23歳だっけ? いやぁ、真正面に若くてきれいな女性がいると、仕事のモチベも上がるなぁ」
向かいの席から野太い声が飛んできた。声の主は主任の平沢一臣(45歳)。麻薬成分の知識にかけては右に出る者がない薬学のプロフェッショナルで、京本からの信頼も厚い。だが、三度の飯より若い女が大好きで、仕事中でも課長や池田が席を外した隙に、同志の男たちとアイドルや風俗の話で盛り上がっている。
平沢のねちっこい視線に、愛未が嫌悪感を通りこして吐き気をもよおすと、伊藤が説教してくれた。
「ちょっと平沢さん。今の言葉はセクハラですよ」
「なんでよ? 若くてきれいって、女にとっちゃ最大級の褒め言葉でしょうが」
「褒めるのもけなすのも一緒です。いまの時代、女性の容姿にふれるだけでセクハラになるんですよ」
「カタいこと言うなって。伊藤さんだって『今日もきれいだね』って言われたら嬉しいでしょ?」
「平沢さんに言われたってちっとも嬉しくないです」
「へん! じゃあ誰なら嬉しいんだよ? あ、わかった。池田さんみたいなイケメンに言われたら嬉しいんだろ? 『セクハラも相手による』って言うもんな」
はいはい、と伊藤は左手で電卓を叩きながら、右手で蠅を追い払うしぐさをした。
感激した愛未が、「伊藤さん、ありがとうございます」と頭を下げると、
「いいのいいの。まったく、男の嫉妬はみっともないわよねぇ」
「ほんとほんと。池田さんと張り合おうなんて、身のほど知らずもいいとこだわ」
愛未を挟んで、来夢と伊藤がうなずき合ったとき、当の池田が自分のデスクから早足でこちらにやってきた。
「伊藤さん。今月分のガソリン代の領収書です。お手すきのときでいいので、精算をお願いします」
「は、はい!」
差し出された紙の束を、伊藤は両手で丁重に受け取った。
向かいの席できまり悪そうに頭をかく平沢を、池田は切れ長の目でちらりと見たあと、微笑を浮かべて愛未に声をかけた。
「織田さん。昨日の特訓では、来人くんの剛速球をすべてよけきったそうですね。野球部出身の男子ふたりは早々に脱落したそうですが、あの猛暑の中、最後までよく耐え抜きましたね。お見事です」
「あ、はい……」
ライバルからの意外な賞賛に、愛未はかろうじてそう応えた。伊藤たちも驚いたらしく、まばたきも忘れて池田の横顔を見つめていた。
話はそこで終わるかと思いきや、池田は長身を屈めて愛未の顔を覗き込んだ。来夢と平沢が「ちっ、近いっ、近い!」と異口同音にわめいたが、伊藤は池田の目に宿った鋭い光を見逃さなかった。
「織田さんは、課長に憧れてマトリの道を選んだそうですね。採用面接を担当した横峯よこみね部長から聞きました」
白絹のような愛未の頬に羞恥の赤みがさした。奥歯を噛みしめて見返すと、池田は彼女の敵意をいなすように微笑んだ。
「わたしも同じです。ただ、『同担』として忠告しておきますが、課長についていくのは大変ですよ。せいぜい振り落とされないように頑張ってください」
それだけ言うと、池田は愛未の机をコンと叩き、鷹揚おうような足取りで自席に戻った。
愛未は狐につままれた気分でその背中を見送った。
「おめでとう愛未ちゃん。どうやら池田さんに『ライバル認定』されたみたいね」
あ、そうか……来夢に言われ、遅まきながら愛未は気がついた。マトリの職員になって一か月。このフロアにいるあいだ、憧れの京本の姿ばかり追いかけていたので、池田と視線がぶつかることも何度かあった。それで愛未は池田の気持ちに気づいたが、それは向こうも同じだったようだ。

そのとき、愛未の視界の端でドアが開き、パンツスーツ姿の京本が入ってきた。弾かれたように立ち上がった愛未の袖を、伊藤が笑いながら引っ張った。
「課長、おはようございます」
課のきまりで、部下たちは起立せず会釈だけで彼女を出迎えた。
京本はバレリーナのような優雅な足どりで、入口からいちばん遠い窓際のデスクに向かいながら、
「お疲れさまです~、みなさん。すみませ~ん、遅くなって。昨日の踏込み捜査の件で、上層部のオジサマオバサマたちに呼び出されて、こ~ってり油をしぼられちゃいまして……」
「部長。お言葉ですが、昨日の踏込み捜査については、わたしもまだ怒ってます」
にこやかに微笑みつつ、こめかみに青筋を立てた池田が言うと、フロア全体に嵐の前の緊張が走った。
「始まるわよ~。池田さんのなが~いお小言が」
伊藤が気の毒そうに言った。愛未は戸惑った目を京本に向けた。
京本は足を止め、おずおずと彼を振り返った。
「あ、池田さん……え、えっと、その件は、昨日ここで土下座して、誠心誠意謝罪したはずですけど……」
「ええ。でもその後、捜査第一課の君津課長に聞きましたよ。昨日は幹部会議の途中で、お手洗いに行くと言って中座されたんですよね? それなのに、その後会議には戻らず、車で薬物取引の現場である晴海埠頭に単独で行かれたと……これが事実であれば、本来の職務に専念していなかったものとして、『職務専念義務違反』に該当すると思われますが、それについてはどう釈明されますか?」
「そ、そうだったんすか課長。重役たちに嘘ついて脱走したなんて、サイアクじゃないっすか……」
池田の隣に座る来人が、部下一同を代表して呟いた。昨日謝ったのにまた叱られて、京本がかわいそうだと思ったが、これでは池田の怒りが収まらないのも無理はない。
京本はただでさえ細い肩を縮こまらせ、池田の視線から逃げるように顔を伏せた。
「あ、え~と……その件につきましては、たいへん軽率で無責任な行為だったと、反省しております、はい……」
「それだけじゃありません。警視庁の報告によると、逮捕された密売人たちは全員、密輸した拳銃を所持していたそうですね。そんな現場にたった一人で乗り込んで、万が一のことがあったらどうされるおつもりだったんですか!」
「あ……それについては、向こうが銃を出す前に、全員の急所にケリを入れて気絶させると、踏み込みの実行前から決めてましたし、じっさいそのとおりになったので、自分としては百点満点かなって……はい」
「うわぁ…だいじなアソコを課長に蹴られるなんて……敵ながら同情するわ……」
平沢が両手で顔を覆うと、ほかの男たちも青い顔でうなずいた――池田も含めて。
「あ、あとですね……今回の情報源は薬物銃器対策課の東雲課長だったそうですけど……いいですか課長。あの人はバツイチで、しかも女に手が早いことで有名なんです。ですからわたしとしては、そちらの危険・・・・・・についても非常に心配だったんですよ!」
「な、なんですか、そちらの危険って……言っておきますけど、東雲課長からの食事のお誘いはその場でお断りしましたよ。それでも疑うなら、東雲課長とのLINEを見ていただいてもかまいません。なにもやましいことなんてないですから!」
京本が初めて言い返した。怒りからか、羞恥からか、赤い顔で池田を睨みつけている。
「そ、それに東雲課長だって、わたしに機密情報を教えたのは、わたしの力を利用するためだって、はっきりおっしゃってましたし……食事に誘ったのだって、わたしから捜査に有益な情報を引き出そうって魂胆があったんでしょう。で、ですのでほんとに、なにもありませんでしたよ。池田さんが心配するようなことなんて……」
「課長……」
身の潔癖を誓うように、胸の前で両手を組む京本を、池田は目を細めて見つめた。
「あ~あ……ったく、見ちゃいらんないわね」
苦笑いを浮かべた来夢が、ブラインドタッチでキーボードを叩きながらぼやいた。
「あ、あの、伊藤さん。課長と池田さんって、ひょっとして恋人同士なんですか?」
愛未の問いに、伊藤は来夢の横顔に目を向けながら、困ったように微笑んだ。
「んー……さあねぇ。わたしの口からは、ちょっと……」
「いいですよ、伊藤さん。わたしに気を遣わなくても。たしかに池田さんはわたしの初恋ですけど、池田さんの初恋は課長だって、本人からも聞いてるんで……それに、相手が課長じゃ勝ち目がないでしょ。わたしが男だったらぜったい惚れてますわ」
女でも惚れてますけど……という言葉を飲み込み、愛未は見つめ合う課長と副課長を見た。
誰かがひゅう、と口笛を吹いた。はっと我に返った池田は、咳払いをして場を取り繕った。
「わかりました、課長。その件はわたしの早合点でした。よけいな詮索をして申しわけありません。ですが、脱走と単独行動の件は別です。昨日は課長が無事に帰ってこられるまで、わたしはいっさいの仕事が手につかなかったんです。お願いですから、もうしないでくださいね」
「は、はい……ごめんなさい、池田さん……」
京本は頭を下げ、ようやく自分のデスクについた。でもまたすぐにやらかすだろうね――という部下たちの視線を一身に受けながら。

(第四話につづく)


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