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マトリなふたり①

〈あらすじ〉
麻薬取締部(通称マトリ)の特殊部隊として新設された特殊捜査課。その初代課長である京本麻実あさみは、小学生のように愛らしい容姿とは裏腹に少林寺拳法の達人で、マトリ一の検挙率を誇るエリート捜査官。彼女の右腕で「マトリ一のイケメン」と呼ばれる副課長の池田大樹たいじゅは凄惨な家庭に育ち、両親への反抗から不良グループのボスに。その後暴力事件を起こして少年院送りになるが、更生のために訪れた道場で京本に出会って恋に落ち、彼女のあとを追ってマトリに入職する。
公私ともに最良のパートナーである二人だが、じつは京本には池田にも言えない秘密があった。いっぽう池田は、京本の左胸に刻まれた切傷の理由を聞き出すことができずに悩んでいた。


第一話 抜けるが勝ち


東京・晴海埠頭の海岸沿いに建つ、廃墟同然の巨大な物流倉庫。
遠くタイから密輸された違法薬物約1トンの引き渡しが、この倉庫内でおこなわれるとの機密情報を麻薬取締部(通称マトリ)特殊捜査課の初代課長、京本麻実がキャッチしたのは、各課の幹部が集まる定例会議の最中だった。

「あのぉ、議長。すみません、お手洗いに行ってきてもよろしいでしょうか?」
入口に近い机から間延びした幼い声が聞こえると、会議の出席者はいっせいに声の主である京本麻実に視線を向けた。
29歳という実年齢にふさわしい濃紺のパンツスーツを身に着けているが、おしゃまな少女が背伸びをして母親の礼服を着ているふうにしか見えない。フリルのついたピンクのワンピースに黄色い帽子、赤いランドセルのほうが、よほど似合いそうなほど幼い顔立ちだ。
本会議の議長役で、捜査第一課の君津課長が、苦笑しながらうなずいた。
「京本課長。小学生じゃないんですから、お手洗いくらい黙って行ってくださってけっこうですよ」
「あ~、そうですか。ありがとうございます、君津課長。あ、あとですね。じつはわたし、先週からずっと便秘中でして……会議が終わるまでに戻れないかもしれませんが、どうかお気になさらず……議事録には、あとでしっかり目を通しますので」
全員のくすくす笑いを背に受けながら、京本はドアを開けて廊下に出た。

その30分後。
九段下の麻薬取締部・関東信越厚生局を抜け出した京本は、マトリの内偵車両であるセダンで首都高速を疾駆し、「ウルトラマン」のロケ地にもなった晴海埠頭に到着した。
日頃から懇意にしている警視庁薬物銃器対策課の東雲課長から極秘で入った情報では、晴海四丁目に林立する倉庫群のうち、現在は使われていない廃墟のような冷凍倉庫で、違法薬物の受け渡しがおこなわれるとのことだった。
薬物は国内の麻薬組織によってタイから密輸されたもので、末端価格は3億円に上る……京本が東雲課長からもらった情報はそれだけで、情報源については教えてもらえなかった。うかつに口外すれば、提供者の身の危険にかかわる、ということだろう。その点は納得できる。
ただ、その情報自体、はたして信用できるものなのか。その点は疑問が残る。
他機関である厚生労働省の職員に極秘で情報を与え、いちはやく現場に差し向けたということは、つまるところ警視庁側も半信半疑なのだ。あわよくば、京本をオトリに使おうというのだろう。
もし計画が失敗、または空振りに終わっても、彼らは次のように言い逃れができる。
「われわれは麻薬取締官である京本課長に情報は教えたが、こちらから現場に行けという命令はしていない。そもそも、他機関の職員である彼女に命令が出せるはずもない。現場に行ったのは彼女自身の判断だ」。
それでもかまわない。とにかく情報さえもらえばこっちのものだ。マトリなだけにオトリ役には慣れているし、現場に入れば大暴れするのみだ。

「それにしても……タイ……タイかぁ……」
めあての倉庫に辿りついた京本は、沈痛な表情でため息をついた。
左胸に刻まれた古傷が、わずかに痛む。たぶん一生消えない傷痕だ。「その傷も含めての麻実さんです」と彼は言ってくれたけれど……
頭を振って気を取り直し、錆びついた扉をコンコン、とノックした。
返事はなかった。そのまま10数えたが、扉の向こうからは物音も、誰かが近づいてくる気配もない。
しばらく考え込んだあと、京本は倉庫の裏側に回った。コンクリート舗装された道路に、黒いワゴン車が一台停めてあった。運転席の若い男が、眠そうな目で競馬新聞を読んでいる。

倉庫の外壁に身を隠し、それだけ確認すると、京本は扉の前に戻った。
胸の奥まで大きく息を吸い込み、こんどは右脚で扉を蹴飛ばした。鼓膜をつんざく金属音が周囲の空気を震わせる。密閉された倉庫内部では、逃げ場のない金切り音がやまびこのように反響したことだろう。
荒々しい足音が聞こえ、内側から施錠が外された。鉄製の重い扉がガタガタ音を立てながら横に開けられ、目の前に黒いスーツを着た細身の男が現れた。口髭を生やしているが、それに見合う貫禄も風格もなく、年齢はおそらく二十代前半、少なくとも自分より年下なのは間違いなさそうだ。
男のほうは京本を見ると、吊り上げていた眉を下げ、尖っていた目を丸くした。なんだ、サツかと思ったら、小学生の女の子じゃねぇか。そう思ってくれたに違いない。
京本は内心安堵の息をついた。車内で「ちいかわ」の半袖Tシャツと、フリルのついたピンク色のスカッツに着替えた甲斐があったというものだ。
男は膝を曲げ、京本と目線を合わせて訊いてきた。
「扉を叩いたのはあんたかい、お嬢ちゃん。何か用かい?」
目尻を下げた男に、京本もにっこり笑い返した。
「はい、お兄さん。ちょっとお聞きしたいことが……この倉庫の中では、ひょっとして、違法薬物の引き渡しとかやってます?」
男はうっ、と息を呑んだあと、「おまえ、なんでそれを……」と喘ぐように呟いた。
それだけ聞ければ十分だ。京本は先ほど扉にしたように、男の向う脛を足の甲で思いきり蹴り飛ばした。真面目な女子高生が履くような黒いローファーだが、アッパー部分に鉄板が仕込んである。
頸骨が折れる手ごたえがあり、男が白目を剥くのが見えた。
だが、まだ意識ははっきりしている。ここで声を上げられては面倒だ。間髪容れず男のシャツの襟をつかみ、背後の海岸方向に投げ飛ばした。男の悲鳴は中空を飛んでいたカラスの鳴き声と混じり合い、すぐに聞こえなくなった。

「さて、いきますか」
扉のガイドレールをひょいっとまたぎ、京本は倉庫の中に入った。数年前まで水産会社の冷凍庫として使われていた倉庫には、死んだ魚の匂いが漂っていた。
靴音を立てずに進んでいくと、中央に黒いスーツを着た八人の男がいた。彼らは服装と人相の悪さだけが共通で、年齢も体型もバラバラだった。
男たちは、京本の背丈より高く積まれた段ボール箱を囲んでいた。箱は全部で8箱あり、いずれも120サイズだ。中身の確認はすでに済んだようで、男たちはリラックスした顔で煙草を吸っていた。
「なんだぁ、嬢ちゃん。こんなところに一人で来て。迷子かい?」
真っ先に京本に気づいた、中肉中背で白髪の男が言った。すぐに全員が首を回してこちらを見たが、誰の目にも警戒の色はなく、浮かんでいるのは好奇の笑みだ。もちろん懐から銃を取り出したりもしなかった。
彼らは知らなかったし、夢にも思わなかった。身長145センチで「ちいかわ」Tシャツを着た目の前の少女が、麻薬密売組織の天敵・マトリであることを。そして彼女が、マトリ一の検挙率を誇るエリート捜査官であることを。
先ほどの白髪の男が、再度京本に声をかけた。
「お嬢ちゃん。わりぃけど、おじさんたちは大事な仕事の最中なんだ。すぐに出てってくれない……」
言葉は途切れ、代わりにぐおぉっ、と苦痛の呻きがもれた。京本が鉄板入りのローファーで男の急所を容赦なく蹴り上げたのだ。あどけない少女の仮面は外れ、つぶらな目には粗暴な光が宿っていた。
白髪男は両手で股間を押さえた姿で床に倒れ、そのまま意識を失った。蹴りの瞬間を見ていなかったほかの男たちは、仲間の身に何が起こったのかわからず、戸惑いの表情で京本を見た。
その隙に京本は、冷徹かつ淡々と標的を仕留めていく。わざわざこちらの正体を明かしてやる義理はない。その代わり、銃は使わず、一滴の血も流さずに全員を眠らせてやる。その寸前に味わう痛みは、女の自分には想像を絶する痛みだろうけど。
がら空きの股間を蹴られた男が、一人、また一人とコンクリートの床に倒れていく。股間蹴りは女性用護身術の王道だが、一発で気絶させるのは容易ではない。少林寺拳法20年のキャリアがなせる業だ。
一分かからずに全員を気絶させた京本は、スカッツのポケットからスマホを取り出し、オフにしていた電源を入れた。不在着信が10件以上入っていた。発信元は、すべてだった。
京本は苦笑し、スマホに向けて「ごめんなさい」と頭を下げた。だが、その番号には折り返さず、別の番号にかけた。

5分ほどして、京本から連絡を受けた薬物銃器対策課の東雲課長が数名の部下とともに現場に到着した。股間を押さえて失神している男たちを見るや、警官たちは腹を抱えて笑った。笑いが収まると、彼らは口々に京本を褒めそやした。
東雲課長は部下に命じ、全員に手錠をかけさせた。密輸した違法薬物の箱も、彼らに命じて捜査用パトカーのミニバンに詰め込ませた。
倉庫の裏手で待機していた運転手のことを告げると、東雲は、ああ、とうなずいた。
「そいつなら、倉庫に入る前に身柄を確保しましたよ。今はパトカーの後部座席で、部下二人に挟まれてサンドイッチになってます」
サンドイッチと聞いて、京本は唾を飲み込んだ。時刻はもう正午を過ぎている。帰庁するまえに、コンビニに寄るくらいの時間は確保しなくては。
「東雲課長。どうしてわたしに情報をくれたんですか? これだけの精鋭ぞろいなら、10分とたたずにカタがついたでしょうに」
「決まってるでしょう、京本課長。少林寺拳法の世界王者で、マトリ一の戦闘力をもつあなたに頼めば、銃も使わず、血の一滴も流さずに、ヤクの密売人たちを掃討できると考えたからです。長年警官やってますけど、わたしは潔癖なうえに臆病でね。奴らの汚い血を見るのも、奴らに逆恨みされるのも嫌なんです。じっさいわたしの先輩は、血みどろの銃撃戦の末に逮捕した売人が釈放されたあと、夜道で奇襲されて命を落としましたから」
「……なるほど。するとわたしは、将棋でいうところの桂馬ですね。じゃじゃ馬の捨て駒ってことで」
「はは、うまいことおっしゃいますね……いや失礼、言い方がまずかったな。つまりですね、憎しみは憎しみしか生みません。先輩の殉職によって、警視庁内部には麻薬組織への憎悪と、組織撲滅への気運が異様なほど高まっています。なかには無為無策で先走る者もいて、われわれ中間管理職は、そんな暴れ馬たちの手綱を引くことで精いっぱいなんですよ」
「なるほど……たしかに、それはあまりいいことではありませんね」
「しかし京本課長。おそらくあなたは彼らに憎まれない。少女と見紛みまごう愛らしい女性が、その小さな身体ひとつで、違法銃器を持った男たちと命がけで戦うんですから。ひょっとしたら、清廉かつ勇猛果敢なあなたに憧れ、自分もそのように生きたいと考えて、改心する者も出てくるかもしれない……わたしには、そんな気がするんです」
もうすぐ四十路になるという東雲課長の、まるで新人警官のような青臭い熱弁に、京本は年相応の涼しい笑みで応えた。
ふたたび強い空腹感をおぼえ、京本はスマホの時計を見た。
「わたしはもう戻ります。心配性な副課長から不在着信がたくさん入ってましたし、さすがに午後の始業開始までには戻らないと」
「池田さん、でしたっけ、副課長のお名前は。たいへん有能で、ハンサムな方ですよね。お会いしたときはクールな印象でしたが、心配性とは意外ですね」
「ええ……年齢はわたしのほうがいっこ上だし、職位的にもいちおう上司なんですけど、彼はそうは思ってないみたいで、いつもお説教ばかりされてます。彼の前ではわたしなんて、ただの米つきバッタですよ」
哄笑する東雲をその場に残し、では、と言って歩き出した。だが10歩も歩かぬうちに、東雲の声が追いかけてきた。
「京本課長。今日のお礼に、今度ぜひ夕食でも……もちろんごちそうしますよ」
京本は歩を止めて振り向いた。彼ほどではないが、東雲課長もかなり端正な顔立ちをしている。バツイチだと聞いているが、離婚の理由は聞いていない。そもそも興味がないので、こちらからも訊かなかった。
期待にみちた東雲の眼差しから目を逸らし、京本は首を横に振った。
「ありがたいお誘いですけど、やめておきます」
「……そうですか、残念です。ひょっとしてそれも、心配性な副課長へのご配慮ですか?」
京本は目を丸くして東雲を見た。東雲は苦笑して肩をすくめた。
「池田さんによろしく。かわいい上司をあまり叱らないでやってくださいって」
京本は声を立てて笑い、「はい。お気遣いありがとうございます」と丁重に頭を下げた。
そして踵を返し、早足で出口に向かった。

(第二話につづく)


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