マトリなふたり⑤
第五話 キャバクラ潜入捜査
開店時間の19時きっかりに、池田は新宿歌舞伎町一丁目の雑居ビルの地下2階にある、この界隈では中堅規模のキャバクラ「ロマネスク」に到着した。
この店に在籍する女子大生キャバ嬢たちの間で、合成麻薬MDMA(通称エクスタシー)が流行している――との予測は、「マトリ一のIT通」と呼ばれる柳原喜樹がネットで収集した膨大な情報をもとに、上司である京本に提供したものだ。そしてこれまでのところ、柳原の予測が外れたことは一度もない。
柳原は工藤姉弟と同期の26歳で、銀縁眼鏡が似合うなかなかの美男子だ。マトリでは珍しく、出身は薬学部ではなく名門K大学の情報工学科で、情報収集能力に関しては課内でも右に出る者はいない貴重な人材だ。
今回、柳原がとった手法は、きわめて根気のいる作業だった。彼は連日PCに貼りつき、キャバ嬢たちのSNSでの呟きを、鍵垢まで含めて丹念にチェックした。
その結果、「ロマネスク」の一部のキャバ嬢が、重度のMDMA依存症者であることを突きとめた。MDMAは10代、20代の若者を中心に流行している薬物で、別名「セックスドラッグ」と呼ばれている。
彼女たちはMDMAを使用したときの爽快感を「今日もエクスタシーでイッちゃった♡」「クスリ見ると脳からヨダレ出るw」などと赤裸々に描写していた。
柳原はそれらの画面をスクリーンショットで撮影し、女たちの源氏名を添えたものをプリントアウトしてくれた。
会議室でそれを見ながら、京本が感心しきりに呟いた。
「やはり時代ですねぇ。いくら匿名とはいえ、こんなヤバいことまでネット上で無防備に呟いてしまうんですねぇ、いまどきの若い人は」
「ええ。まったく浅はかですよね。SNS上の匿名性なんて、われわれITオタクにかかれば、あってないようなものなんですけどね」
「なるほど~。柳原さんのようなプロにかかれば、ネット上に氾濫している『呟き』から、ジャンキーさんの存在があぶり出されてしまうんですね~」
しきりに感嘆する京本の横で、池田は資料に付記された源氏名をメモした。もちろん、「ロマネスク」での潜入捜査で彼女たち、すなわちMDMAジャンキーたちを指名するためだ。
柳原はその女たちの出勤日を調べてくれた。折よく、10日後の金曜日に全員が出勤することがわかり、その日に潜入捜査を決行することにした。
さらにネットの情報から、女子ウケするファッションを調査してアドバイスをくれたのも柳原だ。彼イチ推しのコーディネートに着替えた池田がフロアに戻ったとき、来夢をはじめ全職員が歓声を上げ、それを見た柳原は満足そうにうなずいた。まるでタレント付きのスタイリストのように。
「柳原くん。きみ、情報収集にかけてこれだけの手腕があるのですから、いっそ潜入捜査も担当されてはどうですか。武骨者のわたしなんかより、よほどうまくやれると思いますよ」
ランチに行った定食屋で、さりげなさを装って訊いてみると、柳原は困った顔で頭をかいた。
「いやぁ、池田さんにそう言っていただけるのは光栄ですけど、じつは僕、年齢=彼女いない歴でして……ずっとパソコンだけが恋人で、女性と手を握った経験すらないんですよ。なんで、あんな露出度の高い服を着たお姉さんたちに隣に座られたら、緊張してパニックになっちゃいます」
――ということで、残念ながら柳原に「キャバクラ潜入捜査」を押しつける作戦は失敗に終わった。適当な後継者が現れるには、まだ時間がかかりそうだ。
「ロマネスク」の入るビル前に到着し、京本に〈着きました〉とLINEを送ると、まばたきを一つする間に既読がついた。すぐに〈了解です! 吉報待ってます!〉の返事とちいかわの〈ぺこり〉スタンプが届いた。
「まったく……いつも言ってるじゃないですか麻実さん。仕事ではスタンプはやめてくださいって」
そう言いつつも、池田の目元と口元はつい緩んでしまう。出がけに平沢とふたりきりで会議室に入っていく姿を見たときは不安で仕方なかったが、このレスポンスの速さからすると、どうやら彼女は会議机にスマホを置いて、自分からのLINEをいまかいまかと待ち侘びていてくれたようだ。
胸が締めつけられるほどの愛おしさを感じながら、池田はスマホのカバーを閉じてジーンズのポケットにしまった。
代わりに、ジャケットの胸ポケットから取り出したボイスレコーダーのスイッチを入れ、間接照明に照らされた地下への階段を降りていった。
(第六話につづく)
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