人との別れのメモ
今回もアドベントカレンダーなわけなんだが、紹介ばっかじゃ芸がないなって思ったので、カスみたいなエッセイでも書こうと思ってこれを書いている。エッセイというか散文や日記のようにとりとめのない話になるかもしれない。
最近チバユウスケという好きなアーティストが亡くなった。
入院しているのは知っていたが、去年だって元気してたしまあ治って帰ってくるだろうぐらいの気持ちでいたから、初めて聞いたときは衝撃が隠せなかった。
自分にしては珍しいことに結構悲しかった。
悲しいニュースが流れるとその人のことをやっぱりしゃべりたくなるもので、いつものようにツイッターを見てるとチバへのたくさんの感情があふれていた。それを眺めていると、自分の知らなかった活動について話している人が時折いた。
ROSSOというバンドをやっていたらしい。
調べてみるといい曲がたくさんあった。
感情に勝ち負けなんてのはないとは思うが、自分の悲しみってなんなんだろうと少し思った。
深く考えないでいいかと書きながら思った。
人と長く付き合うことがあまり得意ではないし、別れることにたいしての恐怖感や悲しみもあまりない。
その手の起伏が年々緩やかになっていってるような気さえする。
たぶんそれは小さな小さな世界しか気にしていないからなんだと思う。
親戚は年に二回しか会わなかった。
小学校は親が近いところが素行の悪い児童が多いと少し遠くの学校へ通ったからそんなに遊べなかったためか友達がいなかったし、できてもクラスが変わるとおさらば。
多分この薄い薄い人生経験だと会わなくなった人間は自分のなかで死んだも同然なのだろうと思っている。
でもチバが亡くなったのが悲しくなったのは少しは進歩してるんじゃないのかとも思う。
遺す人になりたい
よく人は人らしさを求めて、ほかの動物やロボットとの差別化を図りたがるが、そこまで自分のやってきたことに執着はないのでどっちでもいいだろと思うことがよくある。
かといって亡くなる人がいろんなものを遺していくことを人間らしくないか?と聞かれたらはいってこたえる気がする。
お前の立場はどっちなんだ?
わからない。俺は雰囲気で人生を生きてる。
でもやっぱり人の心に何か残す人になりたいなって思いました。
(どうすればいいかわかってないけれどなんか成功したい、ビッグになりたいって言ってる人みたいな薄さを感じる)
以上中身のない散文でした。