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古典的書物について

 私は自分を結構欲張りな方だと思っています。特に本に関しては私より沢山集めている人は滅多にいないのではないかと思うほどです。

 しかし、その一方私はケチでもあります。なので、所蔵している本の殆どは中古の文庫本です。単行本の新品は余程のことがないと買いません。お値段が一冊千円以上の本については購入をためらってしまうほどなのです。

 集めている本は、主に日本を含む世界中の古典的な文学作品や歴史書、哲学書、仏教・キリスト教・イスラム教・儒教などの古典的な宗教の書物とその解説書が中心です。全部読めているわけでもありませんが、そういった書物については比較的財布の紐が緩んでしまうのですよね。

 「そんなことをして何が楽しいの?」と言われそうですが、これが私の道楽なのです。もちろん全部読むつもりで買っています。ですが、興味がある書物が多すぎて、多くの本は読み切れていません。この調子だと生きている間に全部読破するのは他分無理でしょう。でも老後の娯楽には事欠かないと思います。そのためにも目を大事にしないといけませんね。

 ところで、なぜ私はこんなことを道楽としているのかと言うと、まず第一に、これらの本を読んでいると、目から鱗が落ちるような発見が沢山あるからということが挙げられるでしょう。「古典なんて古くさいだけで、目新しいことは何も書いてはいないのでは?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ところが、私の経験に従えば、むしろ逆です。古典にこそ世界観が覆るような興味深い知が詰まっているのです。考えてみれば、それもそのはずで、古典は今現在の我々が直面している世界とは違う世界(環境)の中で書かれ読み継がれてきたものなので、それを読むと、現在の世界を相対的なものとして感じるような疑似体験をすることができるのです。そう感じている私は近現代社会に倦んでいるのかもしれません。尤も、「前近代社会の方が良い社会だった」などというつもりは毛頭ありませんし、現代社会とその文化の有り難みを享受している自覚は充分あるつもりです。ですがそれでも私は、前近代に花開いていた個性溢れる文化に魅力を感じるのです。近現代の画一化された文化に息が詰まりそうになる時、前近代の東西各地の文物に触れると、豊かな安らぎを覚えることがあります。書物に表現された物語の展開や背景、それに思想を読み取り、それらに思いを巡らせれば、人類がその長い歴史の中で培ってきた独特で豊かで多様な文化に感慨を抱かないではいられないのです。

 私が古典を道楽としている第二の理由は、古典的書物は人類の叡智の結晶であり、知の軌跡を示すものであり、現在まで続く知的営為の原点でもあるということが挙げられるでしょう。それらは歴史的必然を形成してきたものなのです。それらが忘れ去られずに積み重なってきたことで、今現在の文化があります。それらは現代にまで連なる文化の土壌であり、いつでもそこに帰り、そこから出発できるという意味で、文化の原点なのです。肯定するにせよ批判するにせよ、それらは踏まえられるべきものと言えます。そうでなければ、文化は根拠を失ってしまいます。そういう意味でも古典的書物は貴重なものなのです。

 第三の理由は、それらが人々にとって共有物となり得るということです。昔から古典的書物は教養として学ばれ、それらが人々の間に於ける意思疎通や交流、知的営為の表現や発展に役立ってきました。長い時の流れにさらされても読む価値のある作品は、今読んでも興味深いものです。それだけに、古典は多くの人々と共有するのに相応しいものだと思います。
 また、古典は普遍性を備えながらも、民族性や歴史性などの特殊性が豊かに感じられることが多い点も興味深く、不思議で魅力的なところです。普遍性と個性が両立しているというのは、一見矛盾しているように思われますが、それはその古典の属する文化に普遍的な価値のある何かがあるということなのでしょう。世界各地の文化は、それぞれの地域で育まれた感性や知性の様式であり、各地の風土をはじめとする様々な要素が結晶化したものです。それらには色とりどりのきらびやかな個性が宿っています。「個性」をきらびやかに感じるということは、普遍的な何かを個性的な現れとして感じられているということなのではないでしょうか。普遍的なものは一つではありません。だから、人は自分たちの持つ文化とは違う異文化に魅力を感じることも多いのではないかと思われます。それらを味わうのもまた一興です。
 ただこの場合、知名度のわりに中身が知られていないことが多いというのが難点ではあります。また、そこに書かれている有名な一言によって固定観念が生じ、それが全文を代表するように思われることで、かえって誤解されているケースもしばしばあるものです。こういったことは古典にしばしばあることです。しかし、実際に読んでみて固定観念に引っ張られずにその価値が分かれば、それは即知識になりますし、適度に使用すればコミュニケーション・ツールとしても役立ちます(なお、使いすぎると、鼻につくと思われる可能性があります。また、使う場面や相手にもよりけりなので要注意です)。

 近現代の先端を行く書物は、読者の常識を覆す発想で、新しい世界観を切り開いています。それらは理解できれば確かにとても面白いですし、人間の知の可能性を広げるものです。ただし、だからと言って、最先端の書物ばかり読み漁って、古典的な書物を切り捨ててしまうのは、どこか虚しい行為なのではないでしょうか。古典的な書物も、今読めばかえって新鮮に感じられることも多いですし、最先端の書物が主張していることを既に的確に指摘している場合も多いのです。そんな書物を「古臭い」の一言で捨て去ってしまうのは、あまりにもったいないではないでしょうか。書かれた当時、時代的な制約から読者を獲得できないまま忘れ去られるなどして、まだ埋もれたまま再発見、再解読、再解釈を待っている古典的な書物は沢山あるはずですし、埋もれていないよく知られた書物であっても、その真価がまだ知られないでいることも大いにあり得るのです。


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