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百田尚樹総帥VS村上春樹!二つの文学的差違について!

どうも百田尚樹のチンポを崇める会で幹部やらせてもろうてます、百田尚樹のカルト信者どす。

最近、総帥がゴジラ-1.0をゴジラ版永遠の0と大絶唱していたので、おもろそうと思ってゴジラをアマプラでキメたところ皮肉でなくリアリにつまらなくて想定外。

百田尚樹総帥、ぶっこんだなぁと。

そこで総帥の出世作にして最高戦力400万オーバーを誇る永遠の0が、ゴジラマイナスワンと同じと分かり、総帥の文学について新たなる可能性が開かれたのでそれを紹介しよう!

まず従来の文学理論においては総帥と村上の文学はまったく共通点のないまるで関係ないジャンルとされてきた。

つまり百田尚樹は大衆娯楽であり近代小説、村上春樹は大衆娯楽であるがポストモダン小説。

したがって百田尚樹小説では葛藤を抱えたり自己の一貫性を意識する普通の人がキャラクターとして描かれ、他方、村上春樹では乖離性障害や発達障害のキャラクターしかマジで登場人物がいないという特徴がある。

だから村上文学では一貫性もなく性的禁止もない。なので誰これ構わずチンコをぶちこむ描写が乱舞する。
自分が解離していて確固たる自己をもたず、解離してぼやけた人間たち、換喩的に対象がコロコロととめどなく移り変わり、そこに意味をもたないナンセンス。したがってストーリーにも近代的な起承転結の筋は存在しない。

こうしたポストモダン的で現代人的な意識が支配的なのが村上春樹の持ち味だ。

対する総帥は王道の分かりやすい物語性、論理が一貫しており登場人物にも人間的な一貫性があり葛藤を抱えたりする。

これが従来の百田尚樹VS村上春樹の構図であった。

ところが三丁目のゴジラと永遠の0が同じであるという気付き、これが可能にしたのが百田文学がもつ、あらたな一面、ポストモダン性である。

百田尚樹小説にも三丁目のゴジラにあるような主体の融解があるのではないだろうか。

つまり純粋な近代娯楽小説という側面には収まらず、村上春樹的な乖離性があるのではないか。

三丁目のゴジラを改めてまとめよう。
するとそれは芝居やゴジラの書き割り感につきる。
つまり主人公などの登場人物にもゴジラにも、ありのままの本人と象徴としての本人との間の差違が存在しない。

じつはこの自己自身と象徴的自己との差違の消失こそが村上春樹的主体の特徴である。

ちなみに象徴的自己とは、たとえばLGBTだとかキャラだとか会社員とかの学生とかの社会的ステータスだとかの自己の存在を示す社会的象徴、意味のことである。

つまり言語社会的な意味としての自己象徴と、そのような意味に置き換えられてしまう本当の自分、意味外のありのままの自己との差違がなくなってしまうのが三丁目のゴジラであり村上春樹なのだ。

たとえば私はカメラマンだ!というとき主語の私は、ありのままの意味以前な私、その私がカメラマンに置き換えられているわけだが、このカメラマンというのが象徴であり私の意味。

村上春樹の場合は厳密にいうと、象徴が完全に切り離されて乖離してしまう感じなので厳密には違うが専門的なことはここでは割愛する。

ようするに三丁目の書き割りのような芝居、象徴的な型にはまった芝居は登場人物そのものと、人物の物語的な象徴的意味との差違の消失をしめす。
だから、たんに象徴でしかなく登場人物には現実面がない。

そしてこのことが三丁目ゴジラが戦争のやり直しのためのトラウマ克服装置でしかないことの理由でもある。
つまり三丁目ゴジラはゴジラという象徴でしかなく、その現実的な側面を持っていない。
つまり物語的な意味、記号としての側面しかない。

だから評論家の宇多丸が指摘するように、三丁目のゴジラは、ゴジラがナニモノでどうして現れてなんなのかという生物学的な設定が曖昧なのだ。

つまりゴジラは物語的意味である過去の戦争の象徴という意味に、その存在の全てが還元されてしまい、現実的なディテール(現実面)が構造的に無化されてしまう。

つまり構造的にみてこの映画ではゴジラの現実的で生物学的なディテールは、象徴としてのゴジラからは排除されている。だからそうしたことはこの映画では問うことができない。

そのような象徴的意味の外部はこの映画にはそもそも存在しない。
つまり本作には無意識(他者)がない。

かりにそうしたゴジラの現実面の設定を盛り込む場合もこの映画では全てが意味的となるだろう。しかし本質的に現実面はこの映画の構造として排除されている。

だから宇多丸が指摘する欠点は、たんなる欠点ではなくこの映画のポストモダン的な構造から必然的に要請されるもので、宇多丸がいうような対症療法で解消可能なものではない。

まるで無意識がなく、自分の内心(戦争のトラウマ)を最初から全て語り出す神木隆之介、まったくの象徴的でカルカチュアされた、象徴テンプレからのズレのない登場人物の演技、まったく象徴的な装置でしかないゴジラ、これらは全て、三丁目のゴジラがポストモダン構造の作品であることを裏付ける。

つまり現実の人物やゴジラと象徴(意味)との差違が消滅し、象徴的な要素のみしかないというのが本質なのだ。
本作の郷愁ポルノ装置としての幻想性、現実と空想の排除による空想への逃避という側面はこの構造によって支えられる。

だからゴジラマイナスワンと永遠の0が同じであるならば、百田尚樹文学にはポストモダン文学の一面があることになる。

するとことは複雑だ。
これまで両者は無関係、サッカーとゴルフくらい違うものでタイガー・ウッズとメッシどっちが強いか論じるくらいに両者の住み分けは完璧だった。

しかし百田尚樹がポストモダン作家的となると事態はかわる。
二人は熱いライバルとなり、熾烈な嫉妬のデッドヒートに突入する可能性も見えてきた。

そうここに再び、百田尚樹VS村上春樹の熾烈なマウンティングバトル開幕の狼煙があがるのだ!

ともあれ、今の日本人はどんどんポストモダン化しており脳ミソがオールウェイズ三丁目の夕日と化しつつある。

ちなみにHSPだとかMBTIだとかの心理学の類型学が流行しているが、こうした類型学の構造と象徴との現実との差違の構造は連動している。

現代流行する心の類型学は、心を実体化し意味と物とを同一化してしまい両者の差違を消しさる。

だから三丁目のゴジラ構造は、こうした心理学概念の退行とも密接に関わる。
こうした現象学や構造主義の基礎的論理すら理解しない小銭稼ぎが蔓延し、金儲けのために似非心理学を吹聴することが日本では常態化している。

人を騙すのは当たり前、金のためなら、馬鹿はヨウブン、日本にも善人面した詐欺師が溢れている。

論理的に掘り下げて自分の頭で理屈を理解することなしにはまともなことは分からない。偉い人が言ってるからとか尊師が言ってるからというのでは平面地球教会の人が聖書に書いてあるから地球は平ら!と言ってるのとかわらない。

というわけでたまには自分の頭を使うことをおすすめする。

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