ジークン道の達人!ヒロ渡邉のオカルティックについてカント哲学的百田尚樹添え
どうも百田尚樹の急進的カルト信者どす。
さて、みなさんはジークで唯一の第八ランカー、ヒロ渡邉を御存知でしょうか?
彼は自称唯一のジークンニー8ランカーで、自称、数多の武を極めし武のチンピオン。武術界ではいわずとすれたマラオである。
そんな渡邉は源氏皇流といういくら調べても皆目実在性の分からぬ未知の流派に属す八咫烏兵法の使い手であり喧嘩や殺しというより、戦争戦略にも精通しているようだ。
兵法は軍事戦略や政治も主眼であって、強さをきめるタイマンとはあまり関係がない。
そんなヒロ渡邉はスピ系、オカルト系のメンターとしても人気で霊感が売りだ!もちろん自他共に認める呪術の使い手でもある。
たとえば股関に備えた高感度の霊感アンテナは呪物アパートにチンコビンビン、その呪物を補足し、徐霊までしてしまう。
つまりヒロ渡邉は武術家である前にシャーマンなのだ!
さらにはムー大陸だとかアトランティスだとかオカルティックのマストワードを視聴者の顔にぶっかけることも。そのためサザエさんに出てくるオカルさんとためはるオカル渡邉の異名をもつ。
そんなジークン道を極めしヒロの弁舌はとどまることを知らず、古代、人類に文明をもたらした宇宙人の頃の記憶(前世の記憶)を持っているともいう。これは典型的なパラノイアにおける妄想性隠喩に該当する気がする。
武術においても奥伝の神降ろしと呼ばれるスサノオなどの神を自己に憑依させる禁術を習得しており、不動明王のバリアなどをはることもできる。
これは民俗学的には、明確に格闘の技ではなく、明らかにシャーマンの技である。
シャーマンとは民族学的には脱魂と憑依の二つの古の技法の使い手のこと。明らかにヒロ渡邉は格闘家というよりシャーマンだ。僕の推論だがヒロには巫病歴もあると思われる。
さてここまできくと啓蒙されちゃってる僕のようなパンピーズの皆さんは、ヒロ渡邉ってキチキチのパラノイアさんですね、となるだろう。
パラパラのパラキチ!
しかーし、そもそもパラノイーアとはたんに妄想をこいてる人のことではないし、啓蒙主義的な現代の世界認識もまた一つの妄想に過ぎないことは、既に学問的に論証されている。
ニーチェが真理とは誤謬だと言ったのもこのため。
人はみな妄想する、というラカン派のテーゼもこのことを示す。
だからかりにヒロ渡邉がパラノイーアだとしても、それを無意味な妄想とは言えないのである。そして、そもそもがノーマルもまた一つのパラノイーアのバリエーションに過ぎない。啓蒙主義者もしょせんは単一の父の名を盲信するパラノなのだ。
そもそも妄想しかないわけで、ヒロ渡邉は他の人と妄想の種類が違うだけといった方が論理的には正しい。
今回はそんなシャーマン渡邉の現象を深層心理学で観てゆこう。
彼の出演する最新のYouTube動画がある。
その内容はオホモダチの振動系武術家、人間電マことウェーブ使いがどっきり企画として何も知らないヒロ渡邉を心霊スポットにつれてゆき、ジークンニーがその場所を心霊スポットだと気付くか、というもの。
動画では心霊スポットの城跡を訪れると、さっそく渡邉の股関の霊感アンテナがバリワン!ビンビンに勃起した!
城跡を前に、8ランクのオカルさんは、城跡に宿る霊に戦の表象(ヴィジョン)を見せられた!と発狂!
さて、戦のイメージを霊に見せられた!というのは明らかに現代人の意識ではない。
ソクラテスなど古代ギリシャ人や中世の日本人に限りなく近い。
プラトンに詩人狂人説というのがあるが、プラトンのいう詩人とヒロ渡邉はほぼ同じである。
古代人は精霊や神によって表象を与えられることがあって、これをプラトンは、神と人との連続性を保証する神聖な狂気として肯定的に解釈していたことが知られる。
古代ギリシャにおける詩人の詩は神から与えられた声(狂気)だったわけだ。
あのソクラテスもダイモーン(神、霊)の声を聞いた!とわめき散らした人物として記録に残っている。ソクラテスはことあるごとに自らをダイモーンの声をきくことができる選ばれた人間だと騒ぎ立てた人物として有名なのだ。
どうだろう、ヒロ渡邉とソクラテス、言ってることがそっくりではないだろうか。
かの西田は物来って我照らす、と言ったが、このような哲学論理からもヒロ渡邉の戦のヴィジョンはよく分かる。
つまり自称唯一8ランクさんは城跡を観て、そこから戦の印象イメージをボンバイエ(想起)した。
このとき現代人型の妄想では、戦イメージはあくまでも私の主観として定位される。つまり私のイメージとして、イメージに私の、という閉鎖的な自己所属性が刻印され、イメージは日常との連想的な連続性を保つ。このような表象連鎖(コンプレックス)に対する、私の、という刻印をカントは統覚と呼ぶ。
ところが太古的シャーメンであるデカマラのヒロの場合、戦イメージは、私の(私がイメージする)、という刻印を免れ、それゆえあくまでも城跡という場所の側にイメージの主体が見いだされ、その場所にいる霊という主体が、みずからの現れとして戦ビジョンを私に見せてきた!と感じるのだ。
つまり物(城跡)がイメージを伴って到来して、そのようなイメージ(意味)を城跡に観る我としての我が知られる。
さて、このような霊が見せるイメージが私において見えると考える中動態的な自我論をデカルトはコギト(我思う)と呼ぶ。
我思うとはこのような霊(他者のイメージ)に取りつかれるところの私をして私を確証する非常に狂気依存的な主体なのだ。
ところでフーコーのデカルトへの誤読にはじまり、一般にデカルトは主語的な自我の絶対性を立てたと勘違いされがちだが、本当はそうではない。
事実デカルトは、私には私は光を見ていると思われる、という中動態的内省からコギトを取り出しているし、悪霊(ダイモーン、戦のイメージ)に欺かれるところから確信の主体を取り出しているから、理論的には疑いの余地なく、ヒロ渡邉のような狂気状態が前提されていて、そのような太古的狂気へのギリギリの防衛としてコギトが提唱されていると断言できる。
したがってヒロ渡邉にあるのは人間主体と客体との未分に他ならない。
つまりヒロWORLDでは連想の因果推論的な連関構造に回附されることのない(自己性を持たない)表象(戦イメージ)の現在性、あるいは未来先取り的な他性が優位となっている。
太古の人類においてはヒロ渡邉の世界の方が常識だったのは言うまでもないだろう。またこのような物の側がイメージとして到来して我を知らせるという西田の現象学もヒロ的太古性が一次的であることを示す。
ところが一神教が物(神)と人との連続性を切断し、さらに啓蒙主義がその切断を決定的なものとしたことでヒロ渡邉はパラノイーアとかオカルさんと呼ばれることになる。
この辺りを理論的に説明は数万字確定してダルいから直接的に示すと、
たとえば幼児を観察しよう。幼児には自他の内面の区別がないし、物と主体(魂、意味)の連続性をキープしている。子供はじじつ、アニミズムにあり人形や縫いぐるみに魂(主体)があると思い込んでいる。
それは城跡に宿る霊(魂、戦のイメージ)となんら変わらない。
子供とは原始的であるためアルカイな人類の心性を示すのはいうまでもない。このようなアニミズム的な自他一体の享楽が性器に局在化して対象愛に規範化されることで近代的妄想が誕生する。
さて、ここで今度は啓蒙された僕たちの側の妄想構造(近代的妄想)を解き明かそう。
僕たちの認識はカントによって創られらた節がある。
というのもカントはこのような意識への神性の狂気(断絶的なイメージ)の闖入を嫌い、表象の全てを神や霊から切り離し悟性に閉じ込めたからだ。
カント以前の認識モデルはアクィナスが典型だが、感覚ー理性ー知性とされる。
対するカントは感性ー悟性ー理性だ。
ここでアクィナスが人間の理性より高みに位置付けた知性とは感覚(知覚像)に与えられるイメージ(魂、意味)のことで、これは神から与えられる直観(戦のイメージなど)を示す。
アクィナスの知性はカントの悟性に対応するのだが、悟性は人間の理性より低次元の位置におかれ、さらに神とは無関係な人間の認識装置へと貶められる。
かくしてイメージは人間の主観的なイメージであり因果的な連想構造をもつ自己性に回附されるに至る。
お分かりだろうか、カントが人の世界から神を完全に排除してしまったことが。
カントは後の人類が神を殺すための完璧なお膳立てをしたのである。
このとき悟性が自己性のもとに表象を到来させる機能をカントは超越論的統覚と呼ぶ。
繰り返すが統覚というのは狂気的表象(断絶的な表象)を遮断する機能であり、あらゆる想念表象に対して、私の、という閉鎖的自己性をアプリオリに刻印する機能とされる。
つまりカントは表象の自己性をアプリオリに前提することで完全に神と人との関係を遮断し物と人との連続性を切断したのである。だからカント哲学にはアニミズムに生きる子供もいない。
このようなカント的人間観が現代人の妄想を構成するに至るのは明白だろう。
つまりカントにおいて、戦のイメージは私のイメージ(主観)であり城跡(物)とは関係ない。
ここでは物(城跡)を認識する主体(自己)と物(客体)との断絶がある。
だからかりに戦のイメージを想起しても私がそのイメージを想起した、となり、霊が見せた!とは言われない。
かくして神と世界、客体と主体とは、カントの仕事によって切断されたのである。
ちなみに主客の不一致という困難をカントは神の追放と認識装置の普遍性という2つのアイディアで乗り越えようとしたが、このときカントは感性(感覚与件、主観)と悟性(意味、客観)の一致を無根拠に前提してしまい、結局のところ問題を何も解決していないというドゥルーズの指摘もある。
※悟性は意味、イメージを構成するので客観にも対応する、たとえば読者の目の前の物質対象はスマホという客体イメージに還元されて客体をなすということ、このあたりは客体が実存により構成されるというハイデガーの議論が関わる、またラカンがシニフィアンを連呼する理由もここにある
ちなみにドゥルーズが指摘するカントの難問はすでに現象学により解かれている。
またカントのような人間観は、第三アンチノミー(背理法的に自由意志はあってもなくても矛盾する)に対するカントの思考停止の態度にもよく現れている。
つまりヒロ渡邉の話が、啓蒙された現代人には妄想にしか聞こえず分からないのはカント以降の人間観によるわけだ。
むしろカントがヒロ渡邉をパラノイーアとして排除してしまった。あるいは排除されたからこそヒロ渡邉(霊、パラノイーア)として回帰してきたともいえる。
もっともカントは初期の仕事である脳病試論において理性によってこそ人は錯乱(妄想)すると述べており、さらに後の人間学では統覚を捨て去り構想力によって四種の狂気を説明付けるが、構想力とは人間に固有のイメージを生み出す力であり、やはり必死に人間存在から排除した狂気(ヒロ渡邉、ソクラテス)が自身の哲学における人間の条件として再び回帰してきてしまっているのだ。ここにカント哲学の運動を決定付けるカントの無意識の主体の力動(心的防衛)がある。
余談だが、テキストに潜むカントの意識的な意志を超え、その無意識の主体性(内なる狂気への防衛)を読み解くのは優れた人文学の実践だろう。誰が上述の読解をしたのかは忘れたが、なかなかのレベルと思う。
カントとかほぼ知らん僕がいうのもなんだが。
さて臨床心理レベルだと日本人は欧米人に比べて、ヒロ渡邉のような古代的な人が圧倒的に多いというのはあまりにも有名な話。
日本語の中動態的構造もこうした心霊現象と密接に関連している。
ヒロ渡邉の表象論をダイジェスト解説したので、さらにオカルティシャン渡邉の言説を掘ってゆこう。
ヒロ渡邉は件の動画で、日の出の太陽だけ拝め!と発狂する。
じつはこれアフリカのエルゴン山の住人と全く言ってることが同じ。
現代人であれば、日の出だろうが日没だろうが太陽は同じ太陽だろ!変わらないじゃないか!となろう。
ところがこの現代的な太陽=太陽という自同律(太陽の経時的同一性、連続性)もまたカント型の妄想(誤謬の真理)に過ぎないのだ。
ゆえにヒロもエルゴンも日の出の瞬間にこそ神聖ありとするのである。ここでは主語の太陽の同一性は二次的なものとされている。
太陽の意味(述語面、イメージ、存在)が優位なので、日の出の瞬間の光の到来という印象(イメージ)の側に実が見いだされる。
つまり太陽などの名詞的(主語的)な同一律が弱く述語面の同一性が優位となるのが、物と人、神と人との連続した世界なのだ!
これについては主語的同一律がどのように構造化されるかを考えると分かりやすい。
さきほど因果律的(自我イメージ的)な表象の連想、連関が自己性としての統覚をなすというニュアンスの説明をしたのを思いだそう。
つまり表象における霊や神の主体性(イメージ、意味)がもつ未知性、断絶性を統覚により抑圧する意識構造が主語的な連続性(自同律)を実現しているわけだ。
またヒロ的な述語優位の言語世界とは時間と空間とが一体の世界でもある。
この世界には時間におけるゼノンのパラドックスは存在せずしたがって統合失調症(第三アンチノミー)なるものも原理的に生じない。
精神病における妄想性隠喩が太古的コスモロジーへとその解決を見いだすことがあるのも、このことが理由なのだ。
時間と空間の断絶、時間と空間との矛盾、これこそがカントのアンチノミーの実態であり、精神病の発病条件となっている。
だからヘルダーリン(人類最古の統合失調症)以前には統合失調症の記録が存在しない。19世紀以前には時間(意味)と空間(意味)との裂け目がないので統合失調症は存在しえないということ。
ともかく太古においては霊も物の魂もそれこそが第一の現実であるから、述語(イメージ、魂、主体)が優位となるのだ。
ここでは時は必然的に共時することになる。述語優位の時間とは、過去が現在を規定するのみならず、今において過去が書き変わる時間を示す。ユングのシンクロニシティやコンステレーションもこのレベルで理解すべき概念となる。
また西田のいう不連続の連続、ヴァイツゼッカーのコヘレンツもこのような時の共時性を示し、現象学におけるノエシスの連続的調和にもこうした時間の実相がうかがえる。
だからむしろヒロ渡邉の妄想のが世界の実相に近いともいえる。少なくとも僕たちの時間より一次的な時間をヒロ渡邉は生きている。
純粋に論理的かつ現象学的に論を展開してゆくと、このように考えざるえない。
というわけで比喩が解体する領域、イメージと客体のカテゴリーレベルが混淆する太古的コスモロジーに生きるのがヒロ渡邉。
たとえば、奴は鹿のように足が速い!という比喩は奴という主語的同一性の優位によって形成されている。
このとき、鹿のように、という鹿イメージであり意味が奴の側に宿るとすれば、もはや、奴は鹿だ!と言われるしかなく、のように、なる比喩性は原理的に生じえない。
内外のカテゴリーレベルの差違の消失した心と物との連続するアルカイの世界では、比喩はないということ。
したがってヒロ渡邉の妄想とはつまるところ比喩なしに言表される比喩のことに他ならない。
かくしてオカルト表現の全ては時間、言語、意味(存在、イメージ)、空間、主体の構造に還元しつくせる現象なのである。
さらにこの構造化の仕組みを詳細に検討することで、なにがどうして時代によって構造が変化するのかすらも分析可能である。
この意味で主体の構造は歴史的連続体として洞察せねばならない。
ヘーゲル哲学は人間の認識装置(感性、悟性、理性など)を歴史的連続体として洞察するところにその真価がある。
ただしヘーゲルは過度に象徴(意味)還元主義的でそこに甘さがあるようだが。
そんなわけで深層心理学の世界ではヒロのような主体構造(言語構造)をウロボロス的主体と呼ぶ。
細かい解説などしてられないからダイジェストになったが、このロジックをある程度細かく分かるようになるとラカンでも哲学でもだいたいのことはある程度ならすぐに理解できるようになるし、いくらでも世界を考察可能となる。
ここでの議論は人間が解き明かせる世界構造の限界点に肉薄しているので、ここの論理さえ分かればこれより表層の話は全て理解できるだろう。
深めるとは統一的に論じることを可能にする。
ヒロ渡邉のたった2つの言葉を理解するだけで、とんでもなく長い抽象的論理思考が要求されるが、その分、戦のイメージを与えられた!と、日の出の太陽だけを!というたった2つの言葉を解き明かすだけで、人類における世界のコード化の構造の核心を悉く丸裸にできるのだ。
たった一言であってもそれは世界の核に通じるのであって、バカにしていい言葉などこの世には何一つ存在しない。
アカシックレコードだとか多元宇宙だとかなんとか、オカルトどもが姦しいが、そんなオカルティックな独断論にすがらぬとも純粋に論理的、現象学的につきつめれば世界構造の理論的神秘には誰もが触れ、解析することができる。
ここでは地位や霊感?は問題とならない。
問いうるものには誰にでも論理的神秘は開かれている。
もっとも最低限の近代主体水準にない場合、こうした論考は難しいかもしれないが。
さて、本編になるが百田尚樹信者として百田尚樹総帥の動向は見逃せない。
どうやら総帥は総帥の退任を仄めかしたらしい。
これにビュー亭アリモトがフォロー。
日本など放置して悠々自適に本を読み芸術に浸る生活と、勝ち目の見えない政治的闘争に奔命する生活、どちらのがいいかは永遠の謎だろう。
政治には、やりがいや使命感があるだろう、しかし、やはりニホンジンはお上に従うことに享楽する猿の群れに思えてならない。
つまり政治では勝ち目が薄い。
ところで百田尚樹のジョーク?を言質にアリモットがこさえた感もある日本保守党はHotto Mottoアリモットドリームなのかもしれない。
選挙も、Hotto Mottoアリモット!庶民のふところHotto Motto!冷え込むお財布Hotto Motto!家計の財政Hotto Mottoのアリモットでございます!
とか街宣したら当選しそうではある。
アリモットに全幅の信頼をよせる百田総帥、しかし僕からするとアリモットよか百田総帥のが信用はできる。
ビュー亭は日本を良くしたいのか、それとも権力に浴したいのか。
コバー時代とで発言が変わったのも、コバーから百田尚樹へと乗り換えたこと以外に理由はあるのだろうか?
和田?だったかが夫婦別姓の翻意について理由を尋ねても答えないのも謎だ。
いずれにせよ、フェラーリでイキって殺人運転をする上級国民はこの国ではお上と呼ばれる職種にあり、普段から平民とは人権のグレードが事実として違うのである。
この国の人たちは、人権を上級国民と雑魚でカーストみたく分けたいと思っている下級猿が圧倒的大多数だと思う。
しかも、うわべではこのことを認めようとしない浅ましいヒトモドキゴキブリなのである。
僕はこれまでにこの目で猿の生態を観てきた、その経験からいえば浅ましい猿はお上に従うことにメスイキするヒトモドキアメーバだということにつきる。
たとえば世界的ゲームクリエーターが公益や社会への還元を考えたゲーム開発で、しっかりと黒字をもたらしているのに、会社がギャンブルゲームでプレーヤーをバカにして暴利を貪るビジネスモデルに勃起して、そのクリエーターを不当に排除した事件がある。
このとき僕のまわりのゲーマーを含め日本人のゲーマーだけが狂ったように、追放されたクリエーターに石をなげた。
大企業様の拝金主義の勅命にいち役員が刃向かうのは生意気だ!という論調でうめつくされた。殺意しかわかない。日本人、まじキモい。つーか人じゃない。
ちなみに欧米では真逆の反応だったのは言うまでもない。
これがニホンジンの血なのである。他にもこの手のエピソードは枚挙に暇がない。
遺伝子が腐ってる。
いい加減、このことを自覚した方がいい。ニホンジンほどお上にしたがえ~の下等な民族は存在しない。
シコシコとオナニーばかりの猿の群れ。
だから予言しようと思う。
昨日は天皇、今日はアメリカなわけだが、したがって日本の明日は中国になるだろう。
日本が中国を宗主国とした奴隷牧場となるのは時間の問題。
この国のウザイ猿はお上に従うしか脳がない。
猿のみなさん、たまには自分の頭で考えよう。どんなに頭がよくても自分の頭で考えない奴は知能指数0と変わらない。