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「髪をひとつにまとめる」という中学校の校則を勝手に数値化してみたらガミガミ言わなくてもいいことに気づいた
「髪をひとつにまとめる」という校則がある。
我が子にも守るよう伝えているものの、要領が良く、気づけば髪を下ろしている。
公立中学のため、同じ学校に子どもを通わせる近所の先輩お母さんからたびたび「それは校則違反だよ」と注意されるが、親としてはルールを教えつつ、最終的には子ども自身が経験を通じて学ぶことが大切だと考えている。
髪をまとめるかどうか、それは問題ではないのだけど、校則違反だ、と言う言葉が持つ効力がいかほどなのか疑問に思ったのでまとめてみた。
ルールというものは必ずしも白か黒かで割り切れるものではない。AだからBだと言う前提はありつつ極めてグレーな部分も多い。それを保護者警察が巡回しあれこれ言ってくれるのはありがたいと、そっと横に置いておく。
ルールの背景には理由があり、その「何のために」を共有できなければ、形式的なルールとして軽んじられてしまう。
例えば、髪の長い看護師さんが髪を束ねるのは、衛生や作業効率のためで、その必要性が自然と理解できる。
校則も同じで、「髪をひとつにまとめる」理由がきちんと伝われば、納得感を持って守る子も増えるかもしれない。しかし現実には、我が子の場合、「みんな髪を下ろしているから」という理由でルールを軽視している。
子どもが「みんなやっているから」と言うとき、その「みんな」という大きな要素が、中学というルールの箱の中に突然持ち込まれる。
これによって、それまで校則を守るべきだと考えていた感覚の指数が50から20くらいにガクンと下がるのだろう。
「みんな」に合わせて行動する感覚は、中学という箱の中ではとても自然なことであり、子どもが社会の中で自分の立ち位置や選択を学ぶプロセスの一環でもある。
一方で、「人間的な共感度」という要素が高い場合、ルールの影響力が増すことがあるのではないかと思う。
例えば、「髪を下ろしている人を見るとどうしても耐えられない」
という人が多い場合、その共感度が校則の効力を押し上げる。学校や地域社会全体で「それは守るべきだ」という共感が広がれば、ルールの指数が自然と高まる。
一方で、「特に気にならない」
という空気であれば、共感度は下がり、ルールそのものの存在意義も薄れてしまう。一日の日常の中でこれらはおそらく上がり下がりするのだろう。
私は、この校則を個人的な主観でいくつかの観点で数値化してみた。
それぞれ中学校の箱、社会の箱、家庭の箱、人間の箱、それぞれ用意。
中学校の「効力」:50
実際には100だろうけど、校則を守っている生徒の割合。体感では半分程度に感じる。社会的な「共感度」:20
校則が守られるべきだと考える人々の割合やその声の大きさ。今回の場合、子どもが言う「みんな」が実際にどのくらいいるかよりも、子ども自身の「守らなくても良い」共感度という点ではとても低い家庭内での優先順位:20
校則を家庭でどの程度重要視しているか。私自身は「どちらでもいい」と思っている。実際わたしの意識でさえ子どもに影響しているのだろう。人間的な箱のルール:0~100
周囲の人がこの校則をどう感じているかによって変動する。例えば、「髪を下ろすこと」に強い拒否感がある人がいれば効力は高まり、そうでなければ低下する。今回はそのような人物がいないと仮定して0で考える
こうして曖昧な要素を勝手に数値化してみると、
「髪をひとつにまとめる」という校則の総合的な指数は、状況に応じて大きく変動することがわかる。
特に社会的な共感度が高ければ、ルールの影響力も増し、守られる割合も自然と高まる。相互作用で関係し合っている。
逆に、共感度が低ければ校則の効力は相対的に低くなる。我が家の指数でいうと、22だ。かなり低い。いや言い間違い。これは私の指数。自分以外の人にもそれぞれ指数の値があり、違うということも理解しなければいけない。
曖昧なものを数値化することで、「どれくらい大事なルールなのか」が見えてくる。
「なんだ、その程度のことでガミガミ言うのもバカらしい」と冷静に思えることもあれば、
「この部分だけは守らせるべき」
と改めて気づかされることもあるだろう。
実際、運動のときや昼食の際には髪を束ねているので、登下校時に下ろしているくらいは許容範囲だと思う。数値化なんて大袈裟なことする必要もないのだが、最近ぶつかることが多く大変に悩ましく。
基本的には「ルールがあること」を伝えつつ、最終的には子ども自身に判断させる。
もちろん、その姿勢を「無責任だ」と言われることもあるけれど、それもまた親としてのスタンスだ。子どもが自分で考え、選び、その結果から学んでいく過程こそが、ルール以上に大切なことではないかと思うのだ。