2023-08-20T06:33-『ガニー軍曹のミリタリー大百科』
表題の映像作品および出演者を御存じの方は、多数いらっしゃるかもしれません。R・リー・アーメイ氏は、2018年4月15日に逝去されたそうです。しかしながら、銃火器に馴染みの無い私にとっては何度観ても、この映像作品の面白さは変わりません。作中の解説に係る描写や、解説そのものが分かりやすく、気付いたら1話分が終わっています。この作品はどの回を観ても楽しめますが、強いて言えば、第10話で主題とされた弾薬の解説が特に印象深いです。冒頭を下記に抜粋します。
「ひとつだけハッキリさせておくことがある。これは弾丸じゃない。弾薬と呼ぶべきものだ。これは弾頭。この長い部分は薬莢、後ろには、雷管というものがあって、内部には無煙火薬が入っている。撃針が雷管を打つと、ここの無煙火薬に火が付いて、弾頭が押し出され、銃口から発射されるわけだ。」[マット・ブロンジャー,スコット・イケガミ,R・リー・アーメイ:ガニー軍曹のミリタリー大百科,A&E Television Networks,10(2009);提供元,Amazon Prime Videoの記載]
私にとっては、「DNA、遺伝子、染色体、ゲノム、それぞれを説明できるか」と、問われているような感覚でした。弾薬は、弾頭、薬莢、雷管、無煙火薬から成る。これについて分かっていなかったことを認識させられました。弾丸という用語については、ここで言うところの弾頭の意を含むと思われます。ですが、使い分けについては今だにわかりません。丸いと書かれる通り、丸い鉛の球を想起させる表現だと感じています。
兵器は常に更新され、その時々の開発状況は基本的に外部に出てこないと思われます。そして、情報が解禁された頃には、設計思想が生まれてから数十年、あるいは世紀単位で時間が過ぎていることも珍しくないはずです。弾薬設計の達人であれば話は別ですが、これに関しては、基本的な設計思想に今後、抜本的な革命が起こるか、と言われるとなかなか難しいと私は感じています。
以上の話から始めたいことというのが、率直に申しますと、生命が生まれてから終わりを迎えるまでは、弾頭の動きに例えられるのではないか、ということです。頓狂な話になりますが、お付き合いいただけると幸いです。
弾薬が装填される。撃針を後退させる、引き金で撃針を開放、撃針が雷管を打ち、雷管から火花か発生、無煙火薬が燃焼を開始し、薬莢内の圧力が上昇、弾頭が薬莢から押し出され銃身に侵入、腔線がある銃身であれば、弾丸はそれに噛みつかれつつ回転と加速を開始、滑腔銃身であればその銃身に合わせた弾薬の設計に基づき加速開始、銃口まで引き続き加速されて発射、弾薬自体と装填された銃の設計等に応じて、銃口初速が決定、凡そ照準方向へ弾頭が飛翔開始、飛翔中の環境により弾道が変化、標的に命中する場合は、弾頭の設計や着弾の角度によって、標的に与える影響も変化、外れる場合も命中する場合も、弾頭の速度が零になった時、弾頭は役割を終える......。弾頭の一生は、このように記述できると思われます。では、これを動物に例えると、下記のようになるのではと考えています。
【卵子の生成】:薬莢への雷管の装着と、無煙火薬の充填が完了。【精子が透明帯に侵入、受精膜の発生と同時に多精拒否が成立】:弾頭が薬莢に装着され、薬莢内部が外界から隔離。【卵割の開始】:撃針が雷管を打ち、無煙火薬が燃焼を開始。【細胞分裂の進行】:薬莢内の圧力上昇。【成体の完成】:弾頭が薬莢から分離。【母胎からの分離】:銃口から弾頭が発射、飛翔開始。【生育の進行】:弾頭が存在する環境に基づいて弾道が変化。【生物としての死】:弾頭の速度が零になる。多精拒否に関する用語はこちらを参照しました[西原 達郎︰多精拒否機構に働くレクチン・タイプ分子(生物コーナ),化学と生物,12,718-721(1974);https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.12.718;https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009410510491904]。
「科学者の見積もりによると、太陽の熱で地球上の生命が絶滅するのは15億年以上先の話だ。それで、自分の人生は?」;「『我々はみんなもうすぐ死ぬ』と言った現代の哲学者トマス・ネーゲルは正しい。」[オリバー・バークマン著,高橋 璃子訳:限りある時間の使い方,株式会社かんき出版,1-3(2022);注,本書は時短術を紹介するものではありません]
上記の通り、考え得る時間の尺を長く捉えれば、我々はすぐに終わると考えられるようです。私は、その「すぐ」というのが、引き金を引いてから弾頭の速度が零になるまでの時間に例えられるのではないか、ということを何故か思いました。自分自身でも、このような考え方をした理由が分からずに少々途惑っている節がありますが、これまた何となく腑に落ちた感覚もあり、不思議な心境です。
オランダ出身の哲学者であるバルーフ・スピノザ(1632-1677)は、「我々の自由は投げられた石の自由に過ぎない」という旨の格言を残しているそうです。厨二病的に言い換えると、「我々の自由は放たれた銃弾の自由に過ぎない」といった感じになりそうです。例えば、丁度良い風が吹いてくれて標的ど真ん中に命中するのか。標的範囲に命中するも貫通せずに止まるのか、弾頭が削れつつも貫通するのか。貫通して更に奥の標的に命中するのか。あるいは、目標に命中せずとも、凡そ照準した方向へ飛べる限りまで飛んで静かに止まるのか。どれが良いかは、銃から放たれた「弾頭」が考えている内容によって変わると思います。私は、どれになっても構わないと腹を括りつつ飛んでいけたら、カッコイイなと考えています。