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☆31 罪人坑:三郎の場合

 罪人坑について一体どれだけ書くんだという感じだが、謝憐の考察記事に行き詰まって繰り返しビデオを見ている内に、様々なことが見えてきたのでこの際全部書いてしまおう、という…。実のところ阿昭の考察を書く前から、謝憐の記事には取り掛かっていた。書けなさ過ぎてこれを後回しにし、とりあえず別の記事を書いていた、というのが現状。
 今回はあっという間に書けてしまった。やはり三郎は読み易い。ある意味、非常に単純だ。
 では、本編へ。


 三郎の頭の中を覗けるとするなら、おそらく一割が世の中の様々な事柄に関する知識、二割は自分自身の過去の記憶、残り七割が謝憐、となっているのではないかと思う。いずれにせよ、彼の頭は「太子殿下(神としての謝憐)」と「兄さん(個人としての謝憐)」で一杯だ。

 日本語版原作小説(以下、原作と略す)二巻の過去編の中で、謝憐が世の中の人々のことを「石ころ」と思っている描写があるが(その頃の彼は自信に満ち溢れていて、些か傲慢だった。これは彼が太子殿下という立場で、容姿や才能にも恵まれており、尚且つ世の中のことを知らなさ過ぎたためだ)、今の三郎はそれと同様に、世の中のほとんどの者のことを見下している。
 もっとも彼にはそうするだけの力も知恵も知識もあり、その上基準が謝憐なので(多分。自分自身ではないと思う)、誰も彼も取るに足らない有象無象にしか思えないのだろう。

 なので三郎は、謝憐のためにしか動かない。他の誰に対しても、死のうが生きようが関係ない。例外があるとすれば、謝憐がそれを望む時。でなければ、彼が認めたごく少数の者の意向。そのぐらい徹底して、他者には無関心な振る舞いをする。

 三郎が罪人坑に飛び込んだのは、謝憐を危険な目に遭わせるわけにはいかないからだろう。彼が来る前に下の「掃除」をしておこう、くらいのことを考えていたと思う。
 謝憐が落ちてくる可能性は、充分考えていたと思う。「来ない方がいいな」と思っていたかもしれないが、謝憐の性格を考えれば「きっと来るんだろうな」と。謝憐を余裕で受け止めていたので、事前に備えていたと考えるのが妥当だろう。

 陣の存在については、おそらく察知していたと思う。それがどのような性質のものなのかまでは分からなかったかもしれないが、「まあ何とかなるだろう」と思っていたに違いない。与君山でも片足一つで、宣姫の敷いた陣を破っていた。
 「汚れる」と言って謝憐を降ろそうとしなかったことも、与君山の一件を思い出させる。死体吊るしの森で傘を差しながら、自分は血溜まりへ踏み込んでも、謝憐の足元は汚れないような場所を歩いていた。

 三郎が刻磨と戦った時、赤く光る何かが刻磨に向かって走っていたが、これは彼の愛刀『湾刀厄命わんとうオーミン』である。刀というと日本では両手で持つイメージだが、中国の刀は片手持ちが一般的だ。二期でこの刀は出てくるが、それには赤い瞳がついている。
 三郎はこれを持たずに戦っている。彼と厄命が何も言わなくても意思を交わせることの証左であり、また二期以降の原作での描写を見ると、厄命自体に一つの意思があることがわかる。これは、謝憐と若邪の関係によく似ている。
(余談だが。中国のファンが作った二次創作には、若邪と厄命のBLがあるらしい。ちょっと私には想像出来ない。)

 三郎が謝憐を降ろした場所は、穴の底の中央辺り。月明かりが注いでいるので三郎の姿を謝憐も確認出来るが、彼はこの時一瞬で姿を変え、謝憐のよく知る「三郎」の姿に戻っている。髪が相変わらず偏った結い方になっている辺り、三郎のこだわりと謝憐への気遣いを感じる。

 刻磨もまた三郎と謝憐の姿をはっきりと捉え、この後は会話が続いて刻磨と半月国師との因縁が語られていくことになるのだが…。
 会話の序盤、画面が歪む場面があって何らかの術が発動したことを示唆してくる。この描写は原作には無いので想像するしか無いのだが、この直後から刻磨が少し大人しくなって攻撃的ではなくなるので、三郎のかけた精神を安定させる類の術ではないかと思う。謝憐が刻磨の話を聞きたがっているので、落ち着かせて話させようとしたのではないか、と。
 多分この時点では、三郎は刻磨の話にさほど興味を持っていないはず。あくまでも謝憐の意向第一としての行動だろう。

 ところで。
 この記事の最初に三郎の頭の中のついて、「『太子殿下』と『兄さん』で一杯」と書いたが、この二つを持っていることが彼の行動を時に不可解なものにしている。彼にとって謝憐は「大切な『神様』」であると同時に「大切な『人』」なのだ。そしてしばしば彼は前者に重きを置いてしまう。
 三郎と謝憐の出会いを考えれば、それも仕方のないことなのかもしれない。謝憐が飛翔して神官となる前から、彼にとっての謝憐は「太子殿下」という「とても高貴な御方」だったのだから。
 謝憐自身は自分のことを「神官であろうがなかろうが自分は自分」と思っているだろう。まして三郎がかつて何者であったかを知らないわけだし。だから三郎の行動を理解できない時があるのだろう、と思う。

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かんちゃ
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