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背中で語れ

 『X』で「新人に何かを教える時に『一回教えたよね?』を言うやつ」(リンク先は元ツイート)ってのが出てきて、何かコメントしようかなと思ったけど、長くなりそうなんでここに書こうかな、と。

 私に言わせれば「どっちも若いねえ」ってなっちゃうんだけど。
 まああれだ、言った方の頭の出来の問題じゃなく、単にその言った人が面倒くさがりなだけだと思うんだよね。現時点で教えることに向いてないのは確かだろうけど、それを言ったら、じゃあ何で向いてない人に教えさせるの? ってなっちゃうよね。
 どうしてもその人に頼みたいのなら、そしてその教え方に不満があるなら、教え方を教える、ってところから始めないといけない。それも、おそらく長い時間をかけて。

 私は「仕事が基本に忠実だ」って理由で、前の職場とさらにその前の職場で新人に仕事を教える係をやったけど、実はどちらでも同じあだ名をつけられてた、「鬼軍曹」って。
 優しく教えたかったけど、そのやり方がよくわからなかったんだよ、言葉遣いとか。元々、ぶっきらぼうだしね。
 でも「一回教えたよね?」みたいなことを言ったことはない。「何回でも聞いて。曖昧なままで仕事をするのは絶対にやめて」と、いつも言っていた。だって、その子が適当なことをやってミスしたら、こっちが尻拭いに走らなきゃならない(それが責任ってもんでしょう)から、仕事が増えるだけだもの。それに最悪、怪我させるような事態にもなりかねない。
 もっとも、失敗した時のカバーの仕方を教えるのも仕事のうちだと思ってたから、「最初のうちはできるだけ失敗しておくように」とも言ってたかも。
 まあ確かに、初めは皆びびるんだけど、最終的には全員と仲良くなったよ。「いつ何を聞いても、正確な答えが返ってくる」と思われてたみたい。そりゃ私だって知らないことはあるに決まってるけど、そういう時はすぐに上の人に訊きにいくとか、できる限り曖昧なままにしないようにしてたから。私自身にとっても、何事もはっきりさせといた方がいいからね。

 最初のツイートの話に戻るけど。
 私の好きな小説『十二国記』シリーズに出てくる言葉に、「責難は成事にあらず」っていうのがある。他人を責めたり非難したりすることは事を成すということとは違う、という意味だけど、「事を成す」というほどの大事はできなくても、文句ばっかり言ってないで自分のやれる事をしよう、というふうに私は捉えて、何か状況を変えたい出来事にぶつかったら、できることからまず私が始めてみよう、と思うようにしている。

 たとえば。
 今の家に引っ越してからもう十年近くになるんだけど、来た当初は家の周り、表の歩道も近所の商店街や公園さえもゴミだらけだった。それで、うちの旦那は朝の散歩の時に少しずつゴミ拾いをすることに決めた。毎日何かしら「これ、まだ使えるか?」って要らない物を持って帰ってくるのには閉口したけど、とにかくどうしてもダメだという理由がない限り、毎朝のゴミ拾いを続けていた。
 誰に言われたわけでもない。当人がしたいからやっていただけ。「おはよう!」と通りすがりの人に片っ端から大きな声で挨拶しながら、ただ一人でやっていた。如何にゴミだらけだったと言っても、そうやって三ヶ月、半年、一年と過ぎていけば、自然とゴミは減る。元々あったゴミだけじゃなく、それを捨てる人も減っていった。
 驚いたことにその頃には、うちの旦那以外にもゴミを拾おうとする人が出始めた。別に、呼びかけたりしたわけじゃない。「あんたが商店街に行くなら、うちは公園に行くわ」「私は向こうの通りを見にいってくる」とそれぞれが、いわば勝手勝手にやり始めた。「あんたを見てたら、私もやりたくなってきて」と。

 うちの旦那がほとんど寝たきりになり、表に散歩も行けなくなって九ヶ月。その後亡くなってもう四ヶ月半。合わせて一年以上の時間が過ぎて行ったけど、家の周りは今も綺麗で、大したゴミは落ちていない。
 この状態がずっと続くのか、またそのうちゴミだらけに戻ってしまうのかはわからないけれど、今のところは有志の方々が頑張っているようだ。

 背中で語る、っていう言葉があるけど、面と向かって文句を言うより、まして陰でこそこそ悪口を言うより、私はそうありたいなあと思う。言っても聞かない人には行動で示すしかない。私はこうするよ、あなたはどうする? と。
 別にダメでもいいじゃない。自己満足、結構。態度で示せば、何も変わらないように思っても、誰かの気持ちのどこかに引っ掛かる。
 意外と人って見てるもんだよ、あなたの背中を。

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