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◎脇役列伝その1:藍思追(8)
『魔道祖師』4巻「第二十三章 忘羨」の冒頭。
雲萍城・観音廟を黙って出てきた魏無羨は林檎ちゃん(魏無羨のロバ)に乗り、藍忘機と共にまだ行き先も決めずに歩いている。
二ページ目。藍忘機が「魏嬰(魏無羨の本名)」「ずっと君に黙っていたことがある」と切り出した時、二人の背後から急いで走ってくる足音が聞こえてきた。
追って来たのは、藍思追と温寧だ。
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思追は息せき切って彼らの元まで走ってくる。
魏無羨が「俺は含光君(藍忘機の号)と駆け落ちしようとしてるところだっていうのに、なんでついてきちゃうんだ?」とからかうように言うと、思追は顔を赤らめて、
「魏先輩、やめてください。私は、私はすごく大事なお話があって、それでお二人を追いかけてきたんです!」
と答える。
「少し思い出したことがありまして、でも確信がないので、それで……それで、含光君と魏先輩に聞きにきました」
ここから思追の「思い出したこと」の話が続く。それを抜き出してみよう。背筋を伸ばして息を深く吸い、思追は話し始める。
「料理がとても得意だと自称していて、でも作ったものは辛すぎて目に染みるし、食べるとお腹も痛くなりました」
「私を大根畑に埋めて、そうやって日光を浴びさせて少し水をやれば、すごく早く背が伸びるし、しかも畑から子供も何人か生えてきて、私の遊び相手になってくれると言いました」
「含光君にご飯をおごると言ったのに、最後は勘定しないで走り去って、お金を払ったのは結局含光君でした」
「あの時の私はまだ幼すぎて、覚えていないことばかりかもしれませんが、でも、これだけは確信できます……かつて私の姓は温でした」
「温だと? お前の姓は藍だろう? 藍思追、藍願(思追の本名)……藍願……温苑?」
確認しようとする魏無羨の声は震え、強く頷く思追の声も震えている。
「魏先輩、私……私は、阿苑です……」
「これが、私がずっと君に言わずにいたことだ」
藍忘機が言い、状況に魏無羨は言葉を失う。
十三年前の、乱葬崗殲滅戦。そこで魏無羨は死に、温氏の残党と呼ばれた者たちも皆殺されたはずだった。一人残された阿苑も死んだものだとばかり思っていた魏無羨。
だがその時、魏無羨が命を落としたと聞いた藍忘機は、魏無羨を庇って一族に刃を向け重傷を負わせた罰で受けた三十三本の戒鞭(一度受けたら一生痕の消えない重い罰)の傷も癒えないまま、すべてが終わった直後の乱葬崗を訪ねている。
そしてその場所で、木の洞にずっと隠れていたらしい幼い子供(阿苑)を見つけ、その子を雲深不知処(藍家の拠点)に連れて帰り、その後は現在に至るまで、見守り育ててきたのだった。
藍忘機がそのことを魏無羨に告げないままでいたのは、思追自身が何も思い出せていなかったからだろう。話してしまえば、思追に対する魏無羨の態度は当然変わる。そうすれば思追も疑問に思うだろう。何故かを尋ね、そこで事実を告げられても、或いは告げられなくても、思追は混乱するだけだ。
助けられた時の阿苑は、病に罹り高熱を出していた。そのことと、おそらくは当時彼の周囲で起こったあまりにもショッキングな出来事のせいで、彼は記憶を失い、「藍願」「藍思追」として藍忘機に育てられていることに、今まで何の疑問も持たずにきた。
いつかは思い出す時が来るだろうが、それは出来るだけゆっくりと自然な形がいい、と藍忘機は思ったのだと思う。
そして、観音廟で魏無羨の笛・陳情を見た時の思追の様子から、どうやら何か思い出したようだと判断して、魏無羨にも話しておこうと考えたのだろう。
とうとう我慢できなくなった思追は大声で叫んで飛び上がり、一方の手でロバに乗っている魏無羨を、もう一方の手で藍忘機を抱き寄せて、三人を一塊にするようにきつく抱きしめた。
思追は二人の肩先に顔を埋めて呟く。
「含光君、魏先輩、私……私……」
思追の声はくぐもっていて、魏無羨がその背中をぽんと軽く叩いた。
「やれやれ、泣くなよ」
「泣いていません……ただ……急にすごく悲しくなって、でも、すごく嬉しくて……どう言えばいいかわかりません」
しばしの沈黙のあと、藍忘機も彼の背中を軽く叩く。
「ならば、もう言うな」
「そうだぞ」
思追は何も言わず、二人をさらにきつく抱きしめる。
当時、最も勢いの強かった岐山温氏の横暴ぶりに、他の世家が一丸となって立ち向かい、これを討った「射日の征戦」。以降、「温」という姓を持っているというだけで赤ん坊から老人までことごとく殺されたあの頃を、唯一「阿苑」だけが生き延びた。
魏無羨が命を懸けて守り抜き、藍忘機が育て上げ、こうして立派な姿になれたのだ。二人に対する思追の思いは、とても言葉では言い表せないだろう。
万感胸に迫る、というやつだ。思追の代わりに私が泣く。
抱きしめる思追の力があまりに強いので、魏無羨は「さすが含光君の教え子だな」と言うが、藍忘機は「君の教え子でもある」と答える。
なぜか思追は「魏先輩が私に何か教えてくれたことなんてありませんでした」と反論するが、直後「思い出しました。確かに教えてもらったことがあります」と言い、真面目な顔で続ける。
「春宮図(男女の性の交わりを描いた絵画本)を普通の書物に偽装する方法を教わりました」
「それから、私をこう教え導きました。綺麗な女の子が通りかかった時は……」
「でたらめだ!」と騒ぎ出す魏無羨。思追は顔を上げて答える。
「温叔父上が証人です。あなたが私にそういったことを教えてくれた時、一緒にいたはずです」
急に話が回ってきて、温寧は「私……私は何も覚えていません……」と逃げるが、
「含光君、私が話したことはすべて事実です」
思追の言葉に藍忘機は頷いて答える。
「わかっている」
この件り。前にもあったが、思追は魏無羨にとって不都合なことを、悪気なく真面目に言う。温寧もそういうところがあったように思うので、温家の血筋なのかなあ、と思う。
魏無羨は暴れ出しそうになるが、気を取り直して「思追、どうして急に思い出したんだ?」と問いかけると、
「私にもよくわかりません。ただ陳情を見たら、すごく懐かしく感じたんです」
「そうか、そりゃ、当然懐かしいだろうよ。お前は昔、陳情をかじるのが大好きだったからな。しょっちゅう涎まみれにするから、そのせいで俺は吹けなくなってたなぁ」と魏無羨。思追はぱっと顔を赤くする。
ここから魏無羨により思追が幼かった頃の思い出話が続くが、そのエピソードは過去編を書く時に載せたいと思っているので、割愛する。
ただ、「大勢の前で、含光君のことを父ちゃんって呼んでた」の件りで、
「ああああああああああああああっ!」
と真っ赤な顔をして大声で叫び、
「含光君、申し訳ありません!」
と藍忘機に何度も謝っていたことだけ記しておこう。
四人は雲萍城のはずれにある林の中で別れることになった。
思追は温寧と共に岐山(温一族が拠点としていた場所)へ行くつもりのようで、温寧は一族の遺灰を埋葬すると共に、温寧の姉・温情の衣冠塚(生前の持ち物や衣服などを埋葬した墓)を建てたいと言う。
魏無羨は「一緒に行こうか」と言ったが、
「魏先輩、あなたは含光君と行ってください」
と思追は言い、
「本当に大丈夫です。魏公子、あなたはもう十分良くしてくれました」
と温寧も言った。
こうして彼らは別れて行き……戻ってきたら、また雲深不知処などで会えるだろう。
本編での藍思追の登場はここまで。
思追が「四、五歳の頃に船に乗って、その時も大変な船酔いだった」と言っていたのは、おそらく藍忘機によって乱葬崗で助け出され、雲深不知処まで連れて帰られた時のことだろう。夷陵から姑蘇(どちらも長江沿いにあると思う)まで、船に乗ったのではないだろうか。
病もまだ癒えぬ中、船酔いではさぞつらかったことだろう。
思追は番外編にも何度か登場するので、この後もしばしば会っていることがわかる。その話はここでは取り上げない。それを知らない人で興味があるならば、小説を買って読んでみて欲しい。「童子」の件りなどは想像力をかき立てられる。
次回は、思追がまだ「阿苑」と呼ばれていた過去の話。彼が二歳から四、五歳頃までの出来事だ。
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