
☆19 謝憐の三郎贔屓
砂漠の中を進む一行。三郎は日よけのために、紅い上衣を被っている。ずいぶんと情けなさそうな顔をしており、謝憐は自分の笠を貸そうとするが、三郎は「大丈夫」とそれを返した。
「それより、半月妖道の話を最後まで聞いていなかったな」。
妖道とは、妖しげな道士、或いは妖しげな術を使う道士、という意味だろう。半月妖道は半月国の国師[日本語版原作小説(以下、原作と略す)二巻の用語解説には「道教あるいは仏教に造詣が深い人に王が与える尊称。王の師である場合もあり、政治面での助言もする」とある]のことだが、妖道双師の一人だ、と三郎は言う。もう一人は中原の芳心国師(原作では「芳心」に「ファンシン」とルビが振られている)だ、と。
この名を聞いた時の謝憐の心境は如何許りか、アニメ2期をご覧になった皆様なら、想像できるだろう。
ちなみに、「双師」と括られているが、この二人に直接的な関係は何もない。中国では何かと物事を偶数で括りたがる(『天官賜福』にも「四大害」「四名景」と偶数になった名称が出てくる)ので、あっちに半月妖道、こっちに芳心妖道、ならまとめて「双師」と呼ぼう、くらいの感じだろう。意味的には「二大妖道」といったところか。
さて。以下で語られる物語は、少し長いので此処では割愛するが、アニメの話が進んでいくと実際とは所々で異なっていることが分かる。しかし伝説とはそもそもそんなもの。まして当事者の心持ちなど、誰も知りはしない。
「ふん。お坊ちゃんは物知りだな」「それほどでも。あんた達が無知なのさ」
対抗しようとする扶搖と、相変わらず煽りにいく三郎。謝憐はそんな三郎の態度を、困ったものだと思う一方で面白いと感じているように思う。「扶搖」と声を出し、そちら側を止めに行っているので、三郎の味方をしたいらしい。
三郎はきっと鬼に違いないと思いながら(原則、鬼と神官は敵対関係にある。人界を騒がせ人に迷惑をかけるのが鬼の常であり、これに対応して鬼を鎮めるのが神官の仕事だからだ)、既に相当気を許している様子だ。
謝憐のものの見方がよくわかる。彼は噂や評判といった他者の評価、或いは相手の地位や立場などよりも、自分自身がその場で感じたことを優先する。死霊蝶(花城の使う銀の蝶)の一件でも、皆が大層怯える中、「可愛かったけどなあ」と呑気にしていた。
もっとも、後に(アニメ2期1話)君吾が謝憐を評して「全てのものを好意的に見てしまう」と言ったように、少々危機感に欠け、おっとりぼんやりしたところがあるようだ。
謝憐が三郎に好意的なのは、彼の話が興味深く面白いことや、道観の修繕を一緒に行なってすっかり打ち解けたこともあるだろうが、根本は三郎が謝憐に対して終始好意的態度を崩さないことだろう。
謝憐は人の世界で八百年ものあいだ放浪した。仙人は誰も来ない山奥で霞を食べて生きているというが、人と変わらぬ身となった彼はそれなりに飲食しなければならず、そのためにはある程度人の中に入ってお金を稼ぐことが必要だった。
だが謝憐は不老不死なので、人界の同じ場所に留まり続ければやがて誰かに不審がられてしまう。特に問題が起こらなくても各地を転々とせざるを得なかったことだろう。特に初期の頃は悪い評判が広まっていただろうから、己を隠し誤魔化して生きるしかなかったと思われる。
定まった家も持たず、誰かと深く交わることもなく生きてきた謝憐。それでもきっとその場その場では、ただ自分の信じる道を貫こうとして..だが「不運」が巡り合わせの悪さを招いてしまい、思うようにいかないことばかりが積み重なる日々。罵られ疎まれることを、それで当たり前だと彼自身が思い込んでしまう程に。
そんな中、純粋な好意だけを向けてくる三郎を、謝憐が嫌いになれるわけがない。誰が何と言おうと、自分が感じたことを判断の最初に持ってくる謝憐だから、三郎の本質を曇りの無い眼で捉えたのだと思う。
謝憐は三郎をもう好きになっている。彼自身は「若くて美しくて垢抜けていて大らかだし博識」な何処かの家出少年を見守りながら世話しているだけ、のつもりかもしれないが、心の隙間に落ちた三郎という名の種は、既に根を下ろし始めている。気に掛けるのは気になるからだと気づかないまま、やがて謝憐の心はその種の茎や葉や花で一杯になっていく。
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