第5節 耐え抜くこと
こんばんは。
今回は深夜テンションで学びにおいてのポエムを投下します(いつにも増して大したこと言っていないので、興味ある人だけ見てください)。
1.私のお話(スキップしても大丈夫)
いきなりの身の丈話で恐縮ですが、私は近いうちに会社を退職します。
退職の理由はいろいろありますが、一番は自分の不甲斐なさに耐えきれなかったことがあります。
私は新人として入職しました。実務未経験はおろか全くの素人だったので、右も左もわからないという状況からのスタートです。
研修担当の先輩にはお礼を言っても言い尽くせません。
あくせくしながら学び続けていると、ふと「自分は何でこんな苦しい思いをしているのだろう。何で回りより理解が遅いんだろう。」と考えるようになりました。
いやな考えというのは頭をかき乱すノイズのごとく不協和音を奏でる。
そうこうしているうちに自己肯定感はじりじりと削り取られ(いやまあもともと0に近かったのですが)、あっという間に適応障害に。
体調不良による欠勤、休職、退職というフルコンボをかましてしまいました。
本題に行く前に、もう少しだけ吐露させてください。
それ以外にもう一つつらかったことがあります。それは自分よりも年下の優秀な経験者が入職してきたことです。自分の人生は周回遅れもいいところで、価値がない、とっととケツまくって帰りたいと日々思っていました(今も思っています)。
2.学ぶこと
「自分の人生における勉勉のピークは大学受験だった。」
「社会人になったんだし、自分の好きなことに時間を使おうよ。リスキリング?まあやらないといけないのはわかっているけど…」
みたいな人は結構いると思います(私もそのクチの一人ですし)。
ところで人はどうして学ぶのでしょうか。
私は学ぶとはと問われることが多い職業なのでいつも答えを準備しています。それは
「自分の無知・愚かさにどれだけ我慢できるか」ということです。と答えます。
往々にして、人は高い壁にぶち当たるものです。それが15,6の高校受験なのか、18,9の大学受験なのか、22,3の社会人生活なのか、はさておき。
よってその壁を越えようとするためには自分のスキルなり学力なりを磨かないといけません。
ところが、その壁が高くそして自分がちっぽけであればあるほど、途方もないような道に踏み入れてしまった。と落胆します。
その時になにくそと思って勉強をし続けられることが忍耐であり、それこそが学びだと思います。
僕はそれに我慢ができなかった。
学ぶことは大好きだったはずなのに、入職してからは楽しくない。自分のアイデンティティであった学びが生存の危機にある。
3.学ぶことの本当の意味
でも本当にそうなんでしょうか。
確かに学び続けていると、成果が出ずに投げ出したくもなりますし、あとから入ってきた優秀な後輩に羨望もとい嫉妬の目を向けたくなったり、自暴自棄になったりと、嫌なことが多い、いや下手をすると嫌なことの方が多いかもしれません。
でも、思い返してみてください。
知らなかったことを知れたとき
知っていたことをさらに深堀りできたとき
知っていたことと知っていたことが知らないところで結びついていとき
何にも代えがたい快を味わっていたはずです。脳汁ぷしゃーの状態です。
キラキラした目で周りの人に話していましたよ。こんなことがわかったんだって。
学びの基準は、将来の自分でもなければあとから入ってきた後輩でもない。
すべては過去の自分だ。
昨日の自分より何か知れたことに喜びを見出そう。
資格や試験のための努力は勉強かもしれないが、それは学びとはまたことなるものだと思う。
「勉強は外発的なもの、学びは内発的なもの」だと私は考えます。
学ぶこと大好きででも最近自信を失いかけている君、あるいは明日の僕へ捧ぐ。