太郎にふられたけどめげなかったもんね
11月某日、午後になって急に岡本太郎展に行こうと思い立ち、重い腰をあげ1時間電車に乗り根津から東京都美術館を目指した。
が、当日券は売り切れ、気を落ち着けんと美術館でトイレに入るものの(マーキング?)この不意打ちにはかなりうろたえた。すでに気持ちがタローマンとツーショットモードだったのだ。
もう日は傾きかけ動物園もあとすこしで閉園という時間、とりあえず一か所でもと飛び込んだ上野東照宮も閉園のアナウンスが聞こえていた。
すっかり太郎にフラれちゃったんである。
暗くなってきた上野でコテンパンである。
でも太郎への愛はこんなものでは減じないのだ。
南青山の岡本太郎記念館に何度も足を運び(プロフィールのアイコンはその時のもの)、川崎の岡本太郎美術館でその魂に触れた身としては、こんなことで太郎を諦められない。タローマンと一緒に写真をとらねば気が収まらないのだ。
というわけで世の中はクリスマスという時期、クリスマスディナーなどには目もくれず、私は岡本太郎展の予約をいれた。
待ってて、太郎。今、行くから。
当日予約時間通りに入口につくと想像以上のディズニー並びであった。いつも東京都美術館といえばなんとなく年齢層が高からず低からず(展示によるだろうが中高年、中寄り?)でソロで来てる人も多い印象なのだが、今回は子供連れからカップル、私の親世代までまさに老若男女といった印象を受けた。これが岡本太郎の力なのかとまずそこに驚いた。芸術はいまだ爆発し続けている模様である。
いや確かに、列の横に貼ってある1月の特別展・エゴンシーレのポスターを見ながら「岡本太郎展で稼いでおいた方が良いだろうな」とは思ったのだが(いや、1月初っ端の特別展がエゴンシーレというのも都美さんなかなかやるなぁと思うのですよ。シーレですよ、クリムトじゃなくて。集客は大丈夫だろうか。まあ、シーレの緑色が大好きなので手放しで嬉しい企画ですが)。
そんな邪念はさておき。
入口からインパクト勝負である。
これでこそ、太郎。
みんなスマホを構えて写真を撮らずにはおられないのである。この美術展、撮影がほとんどの場所でOKということで入場前からみなさま撮る気満々というムードではあったが、やはり入口から人が足を止め作品のまわりに集まっている。
そのカタマリをするんと抜けて、中を見渡すと瞬時に色の洪水が目に飛び込んでくる。原色、うねり、不安を掻き立てる構図。
解説なども読みはするのだが、大きな絵画の迫力と押し寄せる色の洪水に視覚も思考も預けてしまうことにする。プリミティブな衝動に共鳴するのが岡本太郎作品を目にするとき、一番気持ちのいいやり方なのではないか。
なんか「考えちゃったら負けよ」という思いが心をよぎるのである。
抽象絵画の私なりの見方、というものに長年悩んできたのだが、この頃は実は悩むまでのこともないと思っている。抽象絵画は、立ち止まって考えさせる絵と難しく考えていたのだが、むしろ優れた抽象絵画は思考を停止させ感覚に集中させるものなのではないだろうか。それが、驚きであろうと美しさであろうと懐かしさであろうと、思考を通さない感覚的なものに訴えてくる何かをつかめたとき抽象絵画とわかり合えた気持ちになるのだ。わかる、などというのは錯覚かもしれないが。その見方を、私は岡本太郎から学んだ気がしている。
支離滅裂な爆発おじさんのイメージが世の中にはあるのかもしれないが、実は岡本太郎はなかなかのインテリさんなのである。芸大に入っても刺激が足りなかったようですぐに中退し、父母についてフランスへわたり大学で民俗学を学んだ人である。ここで民俗学を学んだ経験がのちに沖縄という存在を彼に強く意識させた。また縄文文化への深い興味もここに根があるのだろう。川崎の美術館でも彼の文章をいろいろ読むことができるが、非常に理知的であり聡明な人なのだと感じられる。いわば描く哲学者といった趣であろうか。しかし知に傾きすぎず、根源的なコントロールできない力や宇宙の理を描き続けた人である。まさに「なんだこれは!」と対峙し続けた人である。
笑ってるような仮面、不思議なポーズの像、空に浮かぶ色とりどりの魚。
私たちは岡本太郎の頭のなかをふわふわと漂う。
絵を見るということは「その絵を心にとりこんだ自分の中に生まれる内的対話を楽しむこと」と、言葉にしてしまうと少し平凡なことに思えてしまうかもしれない。
ただ、今回の展示では「写真を撮る」という要素が加わることで、絵を見る体験がいつもと少し違う様相を帯びていたように思う。絵を対象として外に感じることで切り離し、むしろ純粋になった部分もあるように思うが、太郎の心とゆっくり対話できたのだろうか?という疑念も生じる。
しかし、そんなことをさておいても、驚くべきことに観客の熱が最後の部屋まで途切れていなかったのだ。だいたい美術展にいくと最初の解説に人だかりができ、順路の最初のほうこそ詰まり気味でムンムンしているものの、後のほうに行くにつれ、熱は褪せ、怠惰な雰囲気が流れ出す。どこか出口を探してさえいるようなまなざしさえ感じるのだ。
だが、この展示においては中だるみすることなく観客はスマホを構え、明らかに作品を注視し、大人も子供のようにはしゃいでいた。そのエネルギーは本当に喜びにあふれていた。私は途中から、太郎さんを感じながらも人々の高揚するエネルギーに目を奪われていた。なんとなく太郎さんはこんな風に作品が楽しまれているのは嫌いじゃないだろうと思いながら。これはキュレーターさんの企画がお見事といえるのではないだろうか。
各作品の見所などについてはきっとほかの方がたくさん書いて下さっていることだろうから、細かなところについては他の記事に委ねることにする。
少しだけ書かせていただくならば今回、私が注目したのはコンポジションという小品であった。
なんといっても見ていて快感を覚える絵なのである。
小さくまとまったなかにむしろ宇宙を感じさせる面白い作品だった。
それなのに写真を撮り忘れたなんて、まったくもう。
そしてもうひとつ。
お土産売り場でテンション上がりすぎてしまって、タローマンと写真を撮り忘れたのだ。爆買いしたわけでは決してないが、お気に入りを見つけて私もはしゃいでしまったんである。
もう仕方ない。こうなったら太陽の塔の前で早く写真を撮らねば気持ちの収めどころがないので、近々大阪行きを検討せねばならないと思っている。
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